
儀間真常の墓

儀間真常(ぎましんじょう)は、サツマイモや木綿織り、
砂糖の作り方などを国中に広め、沖縄を支える産業を起こした人である。
儀間真常は、1557年、真和志間切垣花村 ( まわしまぎりかきのはなむら ) に生まれた。
台風や日照りなどの影響を受けやすかったこの頃の琉球王国は、
食べ物が乏しく人々は食量不足に悩まされていた。
領主である父と一緒に、村を歩くことが多かった小さいころの真常は、
人々が苦しんでいるようすを見て 「 何とかしてみんなの暮らしを楽にしてあげたい 」 と思っていた。
14才になって、首里城に勤めるようになった真常は、
一生懸命働き、36才の時に父のあとを継いで領主になった。
39才の時、琉球王国の使者として中国に渡った真常は、
広い土地に青々と育っている豊かな農作物を見て驚いた。
「 このように農作物が育てば、琉球も豊になるのだが… 」
そんな思いで琉球に戻って来た真常に、いい報せが入って来た。
台風にも強く、やせた土地でも育つという、
まさに琉球にぴったりの作物が、ある村で栽培されているという報せだった。
イモという作物が、新しい食べ物として人々に喜ばれているというのだ。
さっそく真常は、このイモを中国から持ち帰った野国総管(のぐにそうかん)に会いに行き、
タネイモをわけてもらうと、家のうら庭でさっそくイモを育てた。
すると半年も経たないうちに、畑いっぱいにイモが育った。
イモの栽培は、そのあと真常の指導で琉球のあちこちに広まり、
さらには薩摩にも伝わって、サツマイモとして日本中に知られるようになった。
しばらくして、薩摩が琉球に攻め入って来た。
長い間平和な時代が続き、戦いに慣れていなかった琉球はすぐに敗れ、
捕虜となった尚寧王(しょうねいおう)は江戸に連行されてしまった。
尚寧王のお供として薩摩に渡った真常は、そこで初めて綿と出合った。
そのころ琉球の着物といえば、芭蕉や麻で造ったうすい布ばかりだった。
木綿の着物があれば、冬でも暖かく過ごせると考えた真常は、
綿のタネを持ち帰ると庭で栽培した。
それから泉崎に住んでいた薩摩出身の姉妹の助けを借りて、木綿の作り方を村の女性たちに習わせた。
こうして出来上がった木綿の着物は、のちに 「 琉球絣 」 として沖縄の特産品になった。
薩摩が侵入して来ると、琉球は中国との行き来を制限された。
また、薩摩にも、取れた作物を年貢として納めなければならなくなったため、
人々の暮らしは苦しくなっていった。
そんな人々のようすを見て悲しんだ真常は、 「 琉球を豊に出来る方法はないものか 」 と考えた。
そして、目をつけたのがサトウキビだった。
琉球ではサトウキビは栽培されていたが、あまい汁を食べ物の代わりとしていただけで、
サトウキビから黒糖を造る方法は誰も知らなかった。
黒糖が薩摩で高く売れているといううわさを聞いた真常は、黒糖づくりの方法を学ばせるため、
二人の若者を中国に渡らせた。
黒糖づくりを学んだ若者たちが中国から帰ってくると、
真常は自分の家の庭の砂糖小屋で黒糖を造り、やがて国中に広めていった。
およそ400年経った今では、サトウキビの栽培は沖縄の中心的な産業になっている。
儀間真常は、88才でこの世を去るまで、新しいモノを造り出す喜びと希望を、
苦しい時代を生きる人々に与え続けたといえるだろう。
そんな儀間真常の墓は首里崎山町の御茶屋御殿跡の下にある。