幅18.5mまでの船舶が通過できる閘門
5つのギアで開閉するスルーゲート
野球のホームベースのような形をした三池港
閘門以外にも目を惹く石積み
閘門に架かる連絡橋
水門を支える煉瓦の柱には自然石のコーナーストーンが配されている
規則正しく並んだむき出しのギアが美しい
閘門の全景 ( 海側からの遠望 )
所在地 : 福岡県大牟田市新港町1番地
竣工 : 明治41年 ( 1908年 )
閘門扉 : 英国製
Aランク土木遺産
三池港の大きな特徴の1つに閘門がある。
閘門は、船渠内の水位を干潮時でも8.5m以上に保つため内港との間に設けられた水門である。
横幅20.12m、縦幅37.51mで、周辺は花崗岩を積み上げ、底にも同質の石張りを行っている。
これにより、船渠内では1万トン級の船舶の荷役が可能となり、
この閘門には、船渠側に観音開きとなる2枚の鋼鉄製の門扉をついている(明治41(1908)年2月23日据付)。
閘門の扉は1枚の長さ12.17m、高さ8.84m、厚さ1.20m、重さ91.30トンを計り、
英国テームズ・シビル・エンジニアリング社製で、
扉の接するところは水漏れ防止のために南米から取り寄せたグリーンハートと呼ばれる
船虫や水に強く堅くて沈む木材を使用していた(現在はゴムとステンレスに変更)。
門扉の開閉も当初のまま水流ポンプによって操作されている(駆動ベルトはコットンベルトからゴムベルトへ変更)。
昭和27(1952)年と昭和58(1983)年に門扉の修理を行なっているが、
構造は当初の姿をよくとどめている。
また、閘門の両側には、大潮時の潮流緩和と、
船舶の閘門通過を容易にする目的の補助水堰(スルースゲート)が今なお当時のまま利用されている。
船渠内の係船岸壁は延べ421mで、1万トン級船舶3隻が同時に係留でき、
岸壁には、スキップ式(移動式)石炭船積機を2基(のちに3基となる)を設置し、
積込能力は1時間に250トンで、一昼夜5,000トンまで可能となった。
この三池港完成前には、三池炭鉱専用鉄道も明治38(1905)年三池港まで延長され、
坑口(生産現場)から港(搬出所)まで連続した石炭運搬が可能となり、
さらに関連して、倉庫や貯炭場が整備され、
明治41(1908)年、長崎税関三池税関支署や三井港倶楽部などといった各種施設が建設され、
港が整備されていった。
有明海は遠浅で干満の潮位差が最大5.5mと大きく、
干潮時には沖あい数kmにわたり干潟が出現する所がある。
このため大型船の来航が難しく、三池炭の搬出は大牟田川河口から小型運搬船と艀(はしけ)により、
対岸の長崎県島原半島南端の口之津港(南島原市)まで約70kmを海上運送し(まる1日間要する)、
ここで積み替え人夫(最盛期には1,500名を超えたという)の手で大型船に積み込んでいた。
こうした課題を解決するため、大型船に直積みできる港を大牟田に構築することになった。
大牟田に港を築港する計画は古くは官営三池炭鉱時代からあったが、
築港と炭鉱鉄道敷設との構想は、コスト面で実現が難しく、
官営期では大牟田川河口の横須浜が基点とされていた。
明治31(1898)年5月、欧米視察の途に就いた團琢磨(三井鉱山合名会社専務理事)らは、
ニューキャッスルやリバプールなど各地で港湾施設や積込方式を視察し、
翌年帰国後、築港適地の選定調査にとりかかった。
同年10月、当時の三井家事業グループの本社に当る三井商店理事会に
築港計画案が出され基本方針が決定され、明治35(1902)年5月着工が承認された。
同年11月3日、潮止めのための堤防構築工事から開始、
明治37(1904)年5月に防波堤工事完成、明治38(1905)年に閘門工事開始、
明治41(1908)年3月末に渠内に入水して竣工した。
4月1日、新港は「三池港」と命名され、6日には勅令第76号により開港場に指定された。