


中津城と山国川
川と海を自然の要塞とし、潮の干満で堀の水が増減する中津城。
官兵衛は河口に築城し、急事に備えて関西方面への海路を確保していた。
石垣には黒田時代の層が現存する。
自然石を使う 「 穴太積み 」 が主流時代に大きな加工石を混ぜたのが特徴で、
早く効果的に築城を目指した官兵衛の才覚が石積みに垣間見れる。
秀吉の ” 懐刀 ” として信頼を得た官兵衛は、秀吉に従い九州平定に参加。
諸大名への勧降工作に当たり、強敵の島津家主力を打ち破るなど、
二年におよぶ戦いでの功績が認められて天正15年 ( 1587年 ) に
豊前6郡12万国の領主となった。
その翌年、山国川の河口で築城を開始。
日本三大水城のひとつに数えられる 「 中津城 」 である。
しかしこの地は、血を好まず折衝など知略による決着を図って来た官兵衛に、
生涯唯一ともいうべき惨い策を講じさせる。
地元・城井の城主、豪族の宇都宮一族が新たな統治に反発したからだ。
宇都宮一族が滅びるまで繰り返された合戦や謀殺。
その悲劇のひとつである山国川の河原で千代姫をはじめ宇都宮一族13人を磔した。
天正17年 ( 1589年 ) 、官兵衛は44歳で、息子の長政に家督を譲り、 「 如水 」 を名乗った。