「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 恩河里之子親雲上の墓碑 」

2013-02-14 05:12:42 | 沖縄の文化財
































平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


恩河里之子親雲上( おんがぁさとぬしぺーちん ) の墓碑は、
旧藩末期に建造されたもので現存する墓碑では比較的古いものである。
砂岩 ( 高さ62cm、横33cm、幅上部5~14cm、下方17cm ) を材料として使用している。
碑には右肩より 「 支流長真氏恩河仁也、乾隆年間卒。
向姓恩河里之子親雲上墓、同治十一年壬申在番同氏花城親雲上記 」 の文字が刻み込まれており、
下方には蓮弁の絵模様が描かれている。
墓碑には、蓮弁のほかに日輪や唐草等の絵模様がよく用いられている。
この碑の書を記した花城親雲上は同治11(1872)年に首里王府から派遣された在番で
同治13(1874)年の2月14日に病のため没した人物である。
彼の任期中には、平良頭忠導氏玄安ら54名の「台湾遭害事件」や
「 ドイツ商船ロベルトソン号宮国沖遭難 」 などの事件がおきている。
また、 「 琉球国が琉球藩 」 となったのも、彼の任期中のことである。
この墓碑は、これらの事件と直接かかわりはないが、
花城親雲上が在番として宮古島に赴任してきたことの証拠であり、
旧藩末期におきた事件等を彷彿とさせる貴重な金石文である。





沖縄県宮古島  「 長山水路第八号灯標 」

2013-02-14 05:10:16 | 宮古の灯台














灯台表番号 / 7186.28
ふりがな / ながやますいろだいはちごうとうひょう
標識名称 / 長山水路第八号灯標
所在地 / 西浜埼(沖縄県宮古島市)の北西方約4.3km
北緯  / 24-47-49 
東経  / 125-13-51 
頭標 / 赤色円すい形頭標1個付
塗色 / 赤色
灯質 / 単閃赤光 毎4秒に1閃光
光度 / 実効光度 25カンデラ
光達距離 / 3.5海里
平均水面上~頂部の高さ / 5.0m 
平均水面上~灯火の高さ / 4.9m 
業務開始年月日 / 平成4年11月1日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)




沖縄県読谷村 ・ 沖縄の文化財 【 カタノー馬場跡 】

2013-02-13 00:17:12 | 沖縄の文化財



馬場跡に建つ石碑









馬場の面影を残す真っすぐな道






カタノー馬場は渡慶次小学校から宇座集落へ向うと右側に渡慶次運動場があり、
そこを過ぎると左側に 「 カタノー馬場跡 」 と記された石碑が建っている。
戦前は、この一帯に馬場があったそうである。
いつからこの場所で馬の競走が行なわれていたか定かではないが、
その昔、首里から士族らが残波岬への狩猟の途中、
退屈しのぎに競馬の稽古をしたのが始まりだと伝えられている。

戦前は、旧暦の6月25日・26日の両日に各地から飾り付けした馬に、
羽織・袴をまとった騎手がやって来て競馬が行なわれていたという。
馬をリズミカルに走らせ、スピードではなく、走法の美しさを競うものであった。
この競馬見物を 「 ウマミー 」 と言い、各地から重箱弁当を持参し楽しんだそうである。
この日は、駄菓子・おもちゃ屋などの出店が並び、子どもらにとっても楽しい行事であった。

競馬が終わると、渡慶次に各地から集まった力士によって相撲(沖縄角力)が行なわれ、
夜遅くまで賑わっていたそうである。




沖縄県読谷村 「 残波岬 ( ざんぱみさき ) 灯台 」

2013-02-13 00:15:56 | 沖縄の灯台

























灯台表番号 / 7101
国際番号 / F4740.3
ふりがな / ざんぱみさきとうだい
標識名称 / 残波岬灯台
所在地 / 沖縄県中頭郡読谷村(残波岬)
北緯  / 26-26-28
東経  / 127-42-49
塗色 / 白色
灯質 / 群閃白光 毎10秒に2閃光
光度 / 実効光度 640000カンデラ
光達距離 / 18.0海里
地上~頂部の高さ / 31m 
平均水面上~灯火の高さ / 44m
地上~灯火の高さ / 27.6m
業務開始年月日 / 昭和49年3月30日
光源 / メタルハライド
電源 / 購入電力




沖縄県読谷村  「 残波岬 」

2013-02-13 00:14:33 | 沖縄



ネーネーズのアルバム 「 サウダージ ウチナー 」 のジャケットになった残波岬にあるバス









家族連れでなごむ残波岬灯台付近







荒い波が打ち寄せる残波岬





読谷村の残波岬は観光のメッカであり、
真栄田岬はスキューバーダイビングのメッカである。
ここ、残波岬を最初に訪れたのは、
ネーネーズ&フレンズ・セレクションのCDアルバム 「 サウダージ ウチナー 」 の
ジャケットの表紙に写っていたバスを見たくて ( 撮りたくて ) 探したのが始まりだった。

そのころは、グスクにも灯台にも興味がなかったので素通りしたが、
今では何度も訪れる読谷村である。




沖縄県読谷村 ・ 比嘉酒造 「 残 波 」

2013-02-13 00:13:13 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒








昨日は、予報どおり昼から雨が降ったので、
午後から仕事は休みになった。
そんな夜、 「 残 波 」 が相手してくれた。

風光明媚な景勝地・残波岬のほど近くに位置する比嘉酒造。
「 県内だけでなく、日本全国に泡盛という文化を発信する 」 というポリシーで、
まろやかで軽いスッキリした味わいを追求する。
看板商品の 「 残 波 」 は、さわやかな香りとスッキリした喉越しで、
女性や若者に人気がある。


比嘉酒造
沖縄県中頭郡読谷村長浜1061




2月12日の朝

2013-02-12 06:54:19 | 朝の風景とその他の風景






夕べ12時半に寝たが、今朝はいつものように5時前に起きてムサシの散歩に出た。
今日は午後から雨だというが、空には満天の星が煌めいていて、
風がなかったのでそんなに寒くは感じなかった。

昨日は祝日だったが、現場に出て仕事をした。
日中は動くと汗ばむくらい快適な気温だった。
今日は午後から雨だというので、
午前中のうちにマンホールにリヴ管をつないで埋め戻しして、
マンホールの鉄蓋を設置するまでは出来るだろうな。





熊本県天草市  ・  天草炭坑 「 魚貫坑 ・ 烏帽子坑 」

2013-02-12 00:09:28 | 近代化産業遺産・土木遺産



天草炭鉱 「 烏帽子坑の坑口 」







レンガに包まれた坑口を守るように切り石製の防波堤が築かれている








わずかな烏帽子瀬に坑口が造られている







魚貫坑跡には今も炭坑施設が残っている


























ここから石炭の積み出しが行なわれていたと思われる岩壁











所在地  / 熊本県天草市魚貫町、牛深町下須島西岸
竣工   / 明治30年 ( 1897年 )
魚貫坑  / 最終期は魚貫炭坑株式会社が操業
烏帽子坑 / 市指定史跡・Bランク近代土木遺産
       天草炭業株式会社、のちに日本練炭株式会社に贈与


海底の炭坑にアプローチする波打ち際の坑口が独特な烏帽子坑。
そのレンガが波に洗われて剥がれ落ちた跡が時の流れを感じさせる。
海中からスクッと頭をもたげたような坑口。
良質な無煙炭を産出し、海軍の艦船に燃料を供給した天草の炭坑群。
九州の西岸に続く石炭の層は、のどかな漁村に産業の風を吹かせ、そして消えて行った。
波と風にさらされながら立つ坑口が藍色の海に浮かんで見える。

天草下島の西海岸に点在する炭坑群は北部、中部、南部に大別される。
魚貫坑と烏帽子坑はもっとも南に位置する炭坑で、
幕末から明治にかけて個人事業者による採炭が始まり、
明治から大正期には企業による出炭が本格化して最盛期を迎えた。
時あたかも日清、日露戦争の時代であり、
エネルギー効率が良くて煙の少ない無煙炭として艦船の燃料に使用されたのである。
したがって烏帽子坑も地元では海軍坑と呼ばれたが、操業は長くは続かなかった。
当時の採炭は掘削から搬出、排水までも人力に頼っていたと思われ、
海上に残る坑口に当時の苦労がしのばれる。

魚貫坑は企業による近代採炭が続行され、昭和中期まで操業した。
ほとんど痕跡をとどめない天草の小規模炭坑にあって、
ここだけはいくつかの施設が海岸に残されている。



鹿児島県加計呂麻島   『 大屯神社 』 と諸鈍長浜節

2013-02-12 00:07:12 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣
















平 資盛の墓碑

















大屯神社 ( オオチョン ジンジャ ) の御祭神

•應神天皇(オウジンテンノウ)
•神功皇后(ジングウコウゴウ)
•三位中将小松(平)資盛郷 ( サンミチュウジョウ コマツスケモリキョウ )


大屯神社の創建年代は不詳であるが、
境内には文政十一年建立の平資盛卿の墓碑が現存しており、
鎮座地の 「 諸鈍 」 は、卿が配下の者に 「 ここまでは追っ手も来るまいから
諸公は鈍になれ(安心せよ)」 と言ったからと伝えられ、
平家の落人伝説が色濃く残っている。


旧九月九日に行なわれる諸鈍 ( しょどん ) シバヤ ( 国無形文化財 ) は、
文治元年壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びた平資盛一族は、加計呂麻島の諸鈍に居城を構えたと伝えられ、
その時郷を慰めるたねに始められたという。
「シバヤ」は「芝居」と書き、青紫(椎)の小枝で囲まれた楽屋のことで、
狂言や風流踊りなどの特徴から、四・五百年前に諸鈍が海上交通路の要衛として栄えた頃、
中国や大和、琉球等から伝わったものが一つの村芝居としての祝福芸能となったと思われる。
踊り子は全員男性で、主に「カビデイラ」と呼ばれる手作りの紙の仮面をつけ、
「サンバト(三番叟)」(芝居の前口上)から始まり、
「兼好節」(吉田兼好を歌ったもの)・「鎌踊り」(琉球風の豊作を祝う踊り)・
「スクゥテンガ」(中国の剣舞に似る)・「ククワ節」(平敦盛卿を偲ぶ)・
「ダットドン(座頭殿)」(狂言風寸劇)・「タマツユ(玉露)」(人形劇)・
「スコテングゥ」(琉球風の棒踊り)などの踊りや寸劇を演じる。







諸鈍長浜







諸鈍長浜節の碑




また当地には八月踊り歌の一つ 「 諸鈍長浜節 」 が残っており、
「しょどみながはまや やまとがでとよむ しょどみみわらべや しまじゅとよむ
(諸鈍長浜節は 大和まで名高い 諸鈍の女童は 島中に知れ渡る)」と歌われ、
琉球舞踊の「しゅんどう」の曲目と歌詞が同じで、往昔の繁がりを窺わせる。

諸鈍長浜節は、山あり谷ありの独特なリズムの歌であるが、
奄美の民謡のなかでも特に好きな歌である。
これは個人的な感想であるが、八重山では、童女・娘のことを 「 みやらび 」 といい、
八重山民謡の 「 月ぬ美しゃ 」 の中でも歌われている。
そのことを思えば、行政区分が鹿児島の加計呂麻島だが、
諸鈍まで八重山の文化 ( コトバ ) が入って来ていたと思わざるをえない。




沖縄県多良間島   「 シュガーガー 」

2013-02-12 00:04:13 | 離島めぐり



シュガーガー








男女別の水浴びする泉の入り口







水浴びする泉







シュガーガーの入り口にある説明板




多良間島に上陸して最初に探訪に訪れた場所がシュガーガーである。
なんとなく “ 甘そうな ” 感じのする名前であるが、
島に渡来した古人は、洞穴を探索して飲料水を求め、
その周辺に住み着くようになったのである。
シュガーガーは、自然洞穴の中の湧水で最も古くから使用され、
その周辺に集落が形成されたのである。

昔、ンガーバマから上陸したカズガムもその湧水の恩恵を受けて生活を営み、
鍛冶を行なって農具の製作に努めたのである。
シュガーガーの入り口から左側に約3mの所にウスヌカー(牛に水を飲ませる泉)があり、
右側約29mのところに男女別の水浴びする泉があり、その奥に飲料用の泉がある。
塩分濃度のやや高い水であるが、古くから島人の大事な水資源であった。
それだけに住民の生活に密着している。
そのように祖先の遺した暮らしの歴史を探るよい資料である。





沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 知利真良豊見親の墓 」

2013-02-11 05:14:54 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所




















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


知利真良豊見親 ( ちりまらとぅゆみゃ ) の墓は、
仲宗根豊見親の墓から北東に約70mのところにある墓である。

1500年、八重山のオヤケアカハチの乱の鎮圧の際に、
首里王府軍の先導をつとめた仲宗根豊見親の三男・知利真良豊見親の墓として知られている。
知利真良豊見親は、オヤケアカハチの乱に父とともに従軍、
のち次男祭金が4年在勤したあとをうけて八重山顕職となり、彼の地で没したと伝えられている。
近接する仲宗根豊見親の墓とともに宮古在来の墓 「 みゃーか 」 から
横穴式に移る中間様式を示している。
ツンプン ( ヒンプン ) の跡をとどめている所から、俗に 「 ツンプン墓 」 とも呼ばれており、
保存状態がよく、墓の形の変遷、石工技術を知る上でも貴重な墳墓です。
前庭部を石垣で囲み、墓室外面は切石が三段に積まれ、上端には石柱列が設けられています。
この墓は平良頭職をつとめ、杣山惣主取でもあった宮金氏寛富が1750年ごろ築造したと伝えられており、
その子孫は宮古では宮金氏、八重山では長栄氏渡渉している。




長崎県平戸市   「 平戸大橋 」

2013-02-11 05:13:26 | 橋 ・ 鉄橋 ・ ダム ・ 隧道・道



































長崎県の平戸大橋は、本土と平戸島を結ぶ橋長880メートルの朱色が美しい吊橋で、
夜になるとイルミネーションが点灯し、平戸瀬戸にロマンあふれる姿を映しだします。
平戸周辺は県北地域の一大観光拠点として県内外からの多くの観光客で賑いをみせている。

総事業費56億円を投じて、昭和44年12月に着手し昭和52年4月に完成供用しました。
また、第2期事業として、総事業費25億円を投じて平成2年2月に着手した平戸バイパスが、
平成5年3月に完成供用した。
平成8年3月からは、管理有料道路として供用していたが、
平成22年4月1日に生月大橋とともに通行料が無料になった。





沖縄県多良間島でお世話になった知念さん

2013-02-11 05:11:30 | 離島めぐり



多良間島で自転車を貸してくれた知念さん






土曜日に多良間島に行ったが、
「 日曜日は運航しないから、1日1便のみのフェリーに乗り遅れると、
月曜日まで帰れないさ~ 」 って言われて、
2時の船に乗り遅れないように行動した。
とは、言っても港付近には何もなく、
時間が限られた中で歩いて島を巡るのも無理がある。

そんな時、船で灯台の話をしたおじさんが、
「 俺の自転車でよかったら乗って行ったらいいさ~ 」 って言って自転車を貸してくれた。
お蔭で行きたい場所にも行けたし、スムーズに探訪できた。
なにより時間を有効に使えたことが嬉しかった。

港へ向かう途中、村のスーパーでジュースを袋いっぱい買って、
自転車を借りたのお礼を言って、袋を手渡した。
そのとき墓の話で、 「 道の横に立派な知念家の墓があった 」 というと、
「 それうちの墓だよ。 」 と言ったので、
そのとき初めて自転車を貸してくれたおじさんが、 “ 知念さん ” だと知った。



沖縄県多良間島  ・  「 フェリーたらまゆう 」 多良間島の前泊港に入港

2013-02-10 05:11:58 | 離島めぐり



「 フェリーたらまゆう 」 多良間島の前泊港に入港








夜間港に入港することがないので防波堤灯台は設置されていない



































多良間島の沖に浮かぶ水納島












宮古島の平良港を出て約2時間で多良間島に到着する。
「 多良間島の灯台を 」 と、思っていたら・・・
「 この島は夜に船が入ることがないから灯台がない 」 と言われた。


多良間島は宮古列島の南西端に位置し、東方にある宮古島との距離は約67km、
西方にある石垣島との距離は約35kmであるが、文化や風習は石垣よりも離れている宮古色が強い。
また、多良間島の北方8kmには水納島がある。

東西約6km・南北約4.3kmのほぼ楕円形をした島で、
面積は約19.75km²で沖縄県の島で11番目の大きさである。
隆起サンゴ礁からなるため、島全体が平坦で山や河川はない。
最高点は北部にある八重山遠見台の34.2m。
島の周囲は砂浜に囲まれ、サンゴ礁が発達している。
人口は約1300人が暮らす島である。

島のほとんどが耕作地で、サトウキビ栽培や肉用牛の飼育が行われており、
特に黒糖では単位面積あたりの収穫量が沖縄県内で最多となっている。
一方で漁業はあまり盛んではなく、近年まで漁港整備も進んでいなかった。
なお、リゾート開発が行われていない等、観光産業は発達しておらず、島を訪れる観光客は少ない。
今回、行きも帰りも乗船客は10人足らずであった。

島の名産品には黒糖やヤギ料理、ぱなぱんびん・うーやきがーす・たらまんぼーなどの菓子がある。
また、近年は島で昔から作られてきたササゲ(島では黒アズキ、黒豆などと呼ばれている)の栽培が
盛んになってきており、「たらま黒豆」として販売されている。



熊本県天草市牛深   「 通天橋 」 を渡る

2013-02-10 05:10:36 | 橋 ・ 鉄橋 ・ ダム ・ 隧道・道



牛深にある 「 通天橋 」 を渡る


















天草下島の牛深と下須島を結ぶ通天橋。
その赤い色と鋼ローゼが天草五橋の五号橋 ( 松島橋 ) を思わせる絵になる橋である。

・形式:鋼ローゼ
・橋長:125.4m
・完成:1971年