「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県多良間島   「 泊御嶽 」

2013-02-19 00:02:08 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所















泊御嶽は、前泊道路に面して海岸から約50mほどの陸地に位置し、
フクギ、テリハボク、イヌマキなどの生い茂る中に赤瓦屋根の殿がある。
神名は 「 イデミゾウ イリミゾウのマヌス 」 と唱える。

泊御嶽は、運城御嶽とともに嘉靖(かせい)年間に土原豊見親が創設したと伝えられている。
神名は船舶の出入港を守護し給うとの意味で、船守の神として祀っている。

この御嶽の裏側に「クスヌコール」という祠の香炉が設けられており、
創設された時の原型として殿の建造後も拝んでいる。

殿は、乾隆18年(1753年)、当時の多良間島の役人をしていた
白川姓友利首里大屋子によって、かやぶきで建てられ、
明治の終り頃に瓦葺きとして改築された。
また、泊御嶽の周辺は、「とまり山」と称して、
広範囲に樹木が茂っていて防潮林として大事な森林を形成している。




長崎県長崎市  2013・長崎燈會 「 中華大婚礼パレード 」

2013-02-18 00:05:08 | 日記 ・ イベント



2013長崎燈會 「 中華大婚礼 」 の新婦さん



































2013・長崎ランタンフェスティバルの中華大婚礼パレードの様子である。
丁度中央公園から新中華街会場へ向う途中のアーケード街で撮ったものであるが、
右手で動画、左手で静止画を撮ったし、
左右の機種が逆だったので上手く撮れなかったが、
雰囲気だけは味わって頂きたい。

そもそも「 中華大婚礼 」 とは何ぞや?って思っていたら、
今年でランタンフェステュバルが20周年を迎えることを記念し、
一般の応募の中から選ばれた新郎新婦をはじめ、
きらびやかな衣装を身にまとった人々によるパレードや、
メイン会場ステージで中国色豊かな結婚式を行なう行事であった。

これだけ多くの人に披露し、祝福されての婚礼だから
それだけでもシアワセなことである。
この喜びを忘れず、夫婦仲良く末永く幸せになってもらいたい。

ちなみに新郎の方は東京で、新婦は地元長崎の方だと言っていた。




沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 湧川マサリャ御嶽 」

2013-02-18 00:02:46 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



湧川マサリャ御嶽の全景








御嶽内部の拝所







道路側から見た御嶽





平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


湧川 ( ばくぎゃー ) マサリャ御嶽は、人頭税石から約300mの場所にあり、
案内の看板がなければ見落としてしまいそうな御嶽 ( うたき ) である。
ここでの祭神は、湧川 ( ばくぎゃー ) マサリャを祀っている。
話しの内容は、「浦島太郎の琉球版」と思ってもらえればいいだろう。

 この御嶽は 「 宮古の竜宮伝説 」 を伝える貴重な御嶽である。

昔、荷川取村に湧川マサリヤという漁師がいた。
ある日、漁に出てエイという魚を釣ったが、その魚がたちまち美しい女と化したので、
マサリヤは心浮かれて女と夫婦の契りを結んだ。
その後、二・三か月たって、同じ場所で釣りをしていると、
何処からともなく三人の童が現れ 「 母の使いで父を竜宮に案内するために参った 」 と告げた。
サマリヤは不審がったが、童らがマサリヤの手を取って海に入ったかと思うと、
たちまち金銀ちりばめた楼閣の中にいた。
母は前に契りを結んだ女に間違いなく、睦まじき顔でマサリヤを迎え、
三日三夜、色々なご馳走を出して饗応した。
女は別れ際に涙を流し、 「 これをいつまでも私の形見と思って下さい 」 と瑠璃色の壷を手渡した。

 マサリヤは夢の覚めた心地で家に帰ったが、
竜宮でも三日三夜はこの世では三年三ヶ月の月日が流れていた。
瑠璃壷には神酒が入っており、呑めども神酒は尽きることなく口の渇きを癒し、
天の甘露の如き美味な酒であった。
これを呑んだ者は無病息災で長命を保ち、それ故、マサリヤは家宝として秘密にしていたが、
やがて村中の噂となり、大勢の村人が壷を見ようと家へ押しかけて来た。

 マサリヤは富貴におごり「この酒は朝晩とも同じ味でもう呑みたくない」と言ったとたん、
壷は白鳥と化して虚空に舞い上がり、東方をさして舞行きて、
宮国村スカブ屋の庭木に留まり、姿を消したという。

 また『 平良市史 』 には、少しニュアンスの違うお話となって残っている。
昔、唐から流れ着いた人がいて壷を持っていた。
島の人を娶り、暮らしていたが、畑に出ても用意した食糧を食べる事もなく持ち帰る。
不思議に思い、妻は昼時に畑に行き様子を窺うと壷から次々と取り出して食べている。
驚いて声をあげたとたんに、壷は羽が生え宮国の方へ飛んでいった。
近くには海に流れ出る水の湧き口(ばくぎゃー)あり、御嶽の名の由来とも伝わる。


所在地 : 宮古島市平良 荷川取



琉球泡盛 「 古都首里 ( 十年古酒 ) 」

2013-02-18 00:00:31 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







古都首里は、首里末吉町にある瑞穂酒造さんの熟成十年古酒 ( クース ) である。
まろやかで品のある味わいの泡盛で、美味しいので一気に飲んでしまいそうになるが、
大事にタシナンデ飲みたい古酒である。


14世紀後半、察度が首里城を王府の拠城と定めてから、城下町として発展した首里。
沖縄本島の中でも一段と小高い丘の上に位置し、眼下に那覇の街が一望にひろがりを見せている。
城の周りには円覚寺をはじめとする寺院や龍潭池など、歴史と深いかかわりを持つ文化財が集中する。
東側には、泡盛づくりをこの地に限って許された首里三箇があり、
王府の保護の元で最高級の品を育み続けている。

南蛮渡来のラオロン酒を手本に、琉球で酒がつくられるようになったのは、約15世紀頃のこと。
高温多湿の土地の空気には、黒こうじを用いた独特の酒、泡盛誕生の素養がすでに漂っていた。
なかでも、泡盛を三年以上ねかせて熟成をすすめたものは「古酒」(クース)と呼び、
たいそう貴重な品となる。
長く置くほどに、ふくいくたる香りに深みを増し、トロリとしたまろやかな味わいが加わる。
ほんのり琥珀の色あいを持つのも特長である。
琉球王朝自らの楽しみの酒であり、冊封使をはじめ国を挙げて
大切な客のもてなしの宴でもふんだんにふるまわれた。
また、江戸幕府の献上品には、欠かすことのできない逸品のひとつであった。
杜氏と時が織り成す味わいの文化は、今でも多くの人々の歴史と伝統を語りかけてくる。




沖縄県浦添市  ・  組踊をつくった 「 玉城朝薫の墓 」

2013-02-17 00:24:24 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



組踊をつくった 「 玉城朝薫の墓 」








亀甲の石がきれい組まれている







前田トンネルの上に玉城朝薫の墓がある








首里の末吉公園にある 「 劇聖・玉城朝薫生誕三百年記念碑 」







孔子廊の横にある「 沖縄芝居顕彰碑 」












沖縄県浦添市前田にある国際センターの近くに玉城朝薫の墓がある。

玉城朝薫 ( たまぐすく ちょうくん、康熙23年8月2日 ( 1684年9月11日 ) ~
雍正12年1月26日 ( 1734年3月1日 ) ) は、琉球王国第二尚氏王統の人。
向氏辺土名殿内十世で唐名は向受祐 ( しょうじゅゆう ) 、童名を思五郎といい、
尚真王の三男:尚韶威・今帰仁王子朝典の後裔。

中国からの冊封使をもてなすために踊奉行に1718年任命された。
奉行職就任後は翌年の重陽の宴にあたり初めて組踊を創作し、上演した。
また歌三線にもすぐれ、湛水流を向日長・新里親方朝住に学び、
それを子の向廷瑛・奥平親雲上朝喜に伝えた。

なお朝薫が創作した組踊は朝薫の五番とよばれ、
「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」「銘苅子(めかるしぃ)」「孝行之巻(こうこうのまき)」
「女物狂(おんなものぐるい)」「二童敵討(にどうてきうち)」がそれである。



玉城朝薫の墓は正確には玉城朝薫個人の墓ではなく、
朝薫を含む向氏辺土名殿内の歴代墓(家族墓)である。
辺土名殿内は、琉球王国末期には
国頭間切(現・国頭村)辺土名村の脇地頭(一村の領主)を務めたが、
玉城朝薫存命の頃は、玉城間切(現:南城市(玉城地区)) の
総地頭職の地位にある大名家であった。

墓の概観は、亀甲墓の祖型をなすといわれる独特な形をしている。
屋根は戦災で消失したが、戦前の写真から亀甲形ではなく、
羽地朝秀の墓同様、かまぼこ形をしていたことが明らかとなっている。
墓室正面の左右に拡がる袖石(に相当する石垣)は、
亀甲墓のような屏風状に直線が折れ曲がる形式ではなく、
緩やかな弧状を描きながら左右に拡がっている。
墓口前には、幅48センチメートルのサンミデー(供物台)があり、
墓口から約5メートル先には、墓庭を区切る縁石が外へ少し張り出しながら弧状に敷かれており、
袖石とこの縁石に囲まれた墓庭部は撥(ばち)のような形をしている。
墓庭は縁石部から外側より一段高く形成されている。
墓庭の更に先には石段があったと推定されるが、戦災で消失している。
袖石の外側には一段低くなった石垣が少し続いているが、これも戦災で失われたのか、
途中で左右非対称に途切れている。
墓庭の外には石碑の台座が残されているが、碑身は戦災で失われている。

墓室内部は、幅2.39メートル、奥行き2.73メートル、
面積6.52平方メートルで、およそ4畳半の広さである。
室内の壁は相方積みによる石壁(石材は琉球石灰岩)である。
宜野湾御殿の墓のように漆喰で化粧はされていない。
天井の高さは約1.8メートルで、天井を支えるために四本の石柱が墓室内に設置されている。
このタイプは「摩文仁家の墓(摩文仁御殿の墓)」と同様で、珍しい構造である。
石柱頭には二本の石梁を渡し、天井石版を支えている。
天井石版は「ニービの骨(細粒砂岩)」製である。
墓室正面奥には幅62センチメートル、高さ70センチメートルの石棚があり、
玉城朝薫の厨子甕(蔵骨器)もそこに置かれていた。
この石棚の更に奥に幅78×奥行き70センチメートルの小さな玄室があり、
その中には遺骨がそのまま葬られている。

墓室内から厨子甕は、合計24、5基確認されているが、
戦災で墓室の一部が破壊され、そこから土砂が流れ込んだために破損した厨子甕もあり、
正確な総数は不明である。
内訳は、石製家型厨子が一つ、他はすべて陶製厨子甕である。
陶製はすべて甕型で御殿型(家型)は一つも含まれていない。
玉城朝薫の厨子甕はマンガン掛け厨子甕である。朝薫の厨子甕も含め、
かつて総地頭家であった名家にしては全体に質素である。
他に墓室内から墓中符が一つ見つかっているが、造墓年などは書かれていない。


玉城朝薫旧墓「一ツ墓」玉城朝薫は首里石嶺町にあった、
俗に「一ツ(一人)墓」と呼ばれる個人墓に葬られていた。
1899(明治32)年に前田の墓の厨子甕整理が行われたらしく、
その際に石嶺の墓から朝薫の厨子甕が移葬されたと推測されている。
移葬後、一ツ墓は空き墓となったが昭和初期まではまだ残っていた。
王国時代、個人墓はハンセン病患者など特殊な事例に限られており、
朝薫が個人墓に葬られたのは当時としては異様な出来事であるが、
なにゆえそうなったのかは不明である。
また、厨子甕の銘書から洗骨が死後71年後の1805(嘉慶10)年であったことが判明しているが、
これも通常の洗骨年(3~7年)から考えると異例である。

玉城朝薫の墓は、亀甲墓の祖型をなす墓と位置づけられているが、
造墓年は護佐丸の墓(1686年)や伊江御殿墓(1687年)より以前であったのか、
正確には分かっていない。
沖縄戦で墓本体の上半分が吹き飛ぶなど、大きな被害を受けた。
1988(昭和63)年に本格的な発掘調査が行われ、
1995(平成7)年に浦添市の史跡に指定された。
2005(平成17)年、修復工事が行われ往時の姿によみがえった。



「 冬の海 」

2013-02-17 00:22:51 | 馬の詩 ・ それぞれ...







「 冬の海 」


寒々しい冬の海
海上を吹きすさぶ北の風
どんよりとした空に
にぶく濁った冬の海
中州に身を寄せる渡り鳥
バシャバシャとテトラを濡らす波しぶき
誰もいない
冬の海




沖縄県宮古島  「 長山水路第五号灯浮標 」

2013-02-17 00:21:32 | 宮古の灯台













灯台表番号 / 7181
ふりがな / ながやますいろだいごごうとうふひょう
標識名称 / 長山水路第五号灯浮標
所在地 / 西浜埼(沖縄県宮古島市)の西北西方約5.0km
北緯  / 24-47-33 
東経  / 125-13-07 
頭標 / 緑色円筒形頭標1個付
塗色 / 緑色
灯質 / 群閃緑光 毎6秒に2閃光
光度 / 実効光度 49カンデラ
光達距離 / 4.0海里
水面上~灯火の高さ / 4.7m
業務開始年月日 / 昭和47年5月15日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)



熊本県天草市牛深   「 ハイヤ大橋から天附ループ橋へ 」

2013-02-16 00:05:22 | 橋 ・ 鉄橋 ・ ダム ・ 隧道・道



蛇腹を連想させる 「 ハイヤ大橋 」の向うに通天橋が見える








ハイヤ大橋から下須島へ分かれた天附ループ橋







天附側から見たループ橋






下須島の通天橋付近から見たハイヤ大橋






牛深港の岩壁から見たハイヤ大橋







夜のハイヤ大橋






ハイヤ大橋から望む「 牛深の夜明け 」












のどかな漁港に突如として現れた牛深ハイヤ大橋は、
関西国際空港を手掛けた、イタリアの建築家レンゾ・ピアノ氏の設計によって平成9年8月に完成。
全長883mと県内最長を誇り、車道と両側歩道を合わせた幅員が16mという大きさを
感じさせない繊細さとしとやかさは、
自然景観と調和した世界に類をみない美しい橋で、どことなく蛇腹を連想させるのである。


新熊本100景にも選ばれ、牛深ハイヤ大橋をとりまく 「 うしぶか海彩館 」 とともに
牛深観光のメインスポットとなっている。




沖縄県多良間島  ・ 沖縄の文化財 「 寺山の遺跡 」

2013-02-16 00:03:48 | 沖縄の文化財



トゥンバラ岩の上にある拝所








〈 密之心海盛山拝書敬白 〉 文字が刻まれている拝所の石







伐り拓かれた山に大岩の拝所がある







拝所に上がる階段に手摺りが付いている







拝所の手前に 「 コンクリートで造られた滑り台 」 がある







寺山の遺跡の説明板






寺山の遺跡の入り口




寺山遺跡は、塩川集落の大道里に所在し、現在は拝所となっている。
ここは昔から 「 寺山ウガン 」 と称し、
那覇波の上護国寺二十四代の住職、真言宗の僧心海が居住し、
修行をしながら島民たちを教導したと伝えられている場所である。
心海は1697年(尚貞29)から1711年(尚液)までの14年間滞在している。

布教中は島民の天災地変の災害を救うために、
トゥンバラ岩(大岩)の上に碑が建てられている。

拝所の向って右側には、〈大清康熙四十年(一七〇一年)辛巳九月吉日〉とあり、
中央には梵字が、そして左側には〈密之心海盛山拝書敬白〉と刻まれている。

多良間では、心海は流刑されたとも伝えられているが、
何のために渡来したかは不明である。
土原氏家譜によれば、第八代春倫は少年の頃、
康熙五十年(一七一一年)辛卯、上国の折、心海は奥武山龍渡寺の住職にあり、
時の尚 益王に願い出て春倫を中城御殿御奉公勉をさせている。
それは心海が寺山の巨岩の上に碑を建ててから十年目に当たる。




芋焼酎 「 石の蔵から 」

2013-02-16 00:00:52 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒






バレンタインの日、現場から帰ると事務所で 「 石の蔵から 」 という焼酎をもらった。
他の者はチョコレートだったが・・・
「 「 ○○さんは酒が好いちょうけ 」ち、事務員が言いよったぞ!」と、現場監督から受け取った。
アルコール度数17度の芋焼酎の小瓶だが、初めて飲む銘柄だし、
義理でもチョコよりも焼酎の方が良かった。
それに石橋や文化遺産などが好きな者からすれば、嬉しくなる名前である。

で、夕べ早速お湯割りで飲んでみると
芋焼酎が苦手な方でも飲みやすい初心者向けの芋焼酎であった。

ちなみに「 石の蔵から 」 は、鹿児島県南さつま市加世田 津貫の本坊酒造津貫工場の芋焼酎である。





沖縄県宮古島市   「 川満マングローブ遊歩道 」

2013-02-15 05:46:04 | 離島めぐり



宮古島にある 「 川満のマングローブ 」 遊歩道


































石垣の宮良や吹樋川。
沖縄本島の慶佐次などでマングローブを見る事はあるが、
こうして宮古でマングローブを見れるとは思わなかっただけに
思わぬ景色との出会いに感激であった。

旧下地町時代に隣接する川満漁港の漁港整備事業の一環として整備されたマングローブ遊歩道である。
平良から下地地区に向かう県道沿にあり、川満集落に隣接する。
川満集落最後の方にあるため、車の場合は見逃すこともある。
遊歩道にはオヒルギ、ヤエヤマヒルギ、メヒルギなどのマングローブが多く植生されており、
野生の鳥なども休んだり、エサを求める姿を見ることができる。
 
また潮が引いた干潟はカニが主役。
宮古にはオオアシハラガニモドキやヒメシオマネキ、ルリマダラシオマキネギ、
クマドリオウギガニ、ニナミコメツキガニ、ミナミベニツケガニ、フタハオサガニ、
ハクセンシオマネキなどが生息している。


場所は、県道390号線を平良から下地方面に向って行き、
川満集落を出てすぐの右側になる。
左にある沖縄製糖工場の250mほど手前になる。
遊歩道の入り口に無料の駐車場があり、10台ほど停められる。



長崎県平戸市田平  ・  道の駅  「 昆虫の里たびら 」

2013-02-15 05:43:29 | 花・鳥・虫・魚・猫



巨大カブトムシのモニュメント

































道の駅 「 昆虫の里たびら 」 は、全国有数の観光地ハウステンボスと、
平戸市に至るオランダ街道(国道204号)に接する場所にあります。
目印は巨大カブトムシのモニュメント。
農水産物や特産品を販売する物産館には、
特殊カメラで撮影した昆虫のパネルが展示されており、
夏場には昆虫の販売も行っている。





沖縄県宮古島 ・ 平良綾道 ( ピサラアヤンツ ) 「 真玉御嶽 」

2013-02-15 05:40:39 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所















平良は ( ピサラ ) と称し、人の住むにふさわしい地。
綾道 ( アヤンツ ) は 「 美しい道 」 の意味で、それぞれ宮古コトバである。
平良五箇 ( ピサラグカ ) は、旧藩時代の間切りで、
西里、下里、荷川取、東仲宗根、西仲宗根の五村のことである。
この平良五箇の歴史を探して綾道を歩いたものを紹介して行きたいと思っている。


真玉御嶽 ( 真玉神社 )

祭神
男女神かねとのまつ免か(御嶽由来記)
ウンキヌス(運気主) ユーヌカン(世=豊穣の神) 水ヌ主(竜宮の神) 子宝の神

由緒
昔、御嶽内には井戸(泉)があって、またガマ(洞窟)があり、気立ての優しい夫婦が住んでいた。
神として祀られている。
 
また宮古で初めて潮水でアイズゥ ( 和物 ) を作った神として祀られている。
 『 御嶽由来記 』 は真玉御嶽の祭神を 「 男女かねとのまつ免か 」 と伝え、
貧しい夫婦であったが、ふだん怠りなく精進し朝夕天道を拝していたので
神徳が降り子孫繁盛し富貴の身となった。
夫婦とも白髪の翁となるまで天道を祈り天寿を全うしたので、
死後真玉山に葬り御嶽を仕立て神と崇めた。
子孫繁栄の神として崇敬されていると伝えている。

 今日でも子宝の神として、また人の運気を司リユー ( 世=豊穣 ) を授ける神、
航海安全の神として祀られている。



2月14日・それぞれのバレンタインデー

2013-02-14 06:58:46 | 日記 ・ イベント







このブログを開設して今日で1年になる。
たまたまバレンタインデーなので、
覚えやすい記念日となった。



「 2月14日 」



宝箱のようなフタを開けると
そこには甘い宝石たちが並んでいる
どれも個性があり
心を誘惑する
口の中で とろけるような
甘いまどろみは
進駐軍の置きみやげ

いまでは
いつでも どんな時でも
たやすく手に入る魅惑の固体

「 私はたくさんの人の心を奪いたいから下心と一緒に贈るわ 」
「 私は仕事を有利にしたいから義理と一緒に贈るわ 」
「 私はたったひとりの好きな人にだけ想いと一緒に贈るわ 」
「 私は誰にも贈らず自分で食べます 」

思いおもいの 2月14日
それぞれのバレンタインデー




熊本県山鹿市菊鹿町 「 鞠智城 ( きくちじょう ) 」

2013-02-14 05:15:19 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



鞠智城 「 鼓楼 ( 八角建物 ) 」
















「 米倉 」 校倉造りの食料庫






菊池市街地から県道18号線 ( 菊池鹿北線 ) を5分ほど走り、
曲がりくねった脇道に入ると、広い敷地に鞠智城が建っている。
その光景に、古代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。


鞠智城は、東アジア情勢が緊迫した7世紀後半(約1300年前)に、
大和朝廷(政権)が築いた山城です。
663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、
唐・新羅の連合軍に大敗した大和朝廷(政権)が日本列島への侵攻に備え、
西日本各地に築いた城の一つで、
九州を統治していた大宰府やそれを守るための大野城・基肄(きい)城に
武器・食糧を補給する支援基地でした。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』など、国の歴史書にも記載のある全国有数の重要遺跡として、
平成16年2月27日、国史跡に指定された。

周囲の長さ3.5km、面積55haの規模をもつ城で、
昭和42年度からの県の発掘調査により、
八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡や、貯水池跡、土塁跡など、
当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見されている。

こうした発掘調査の成果に基づき、
平成6年度から4棟の復元建物(八角形鼓楼、米倉、兵舎・板倉)をはじめ、
城の立地や規模、構造などを体験的に学習できる歴史公園として整備を進めています。
ガイダンス施設「温故創生館」では、展示や映像により、
鞠智城の歴史や構造について詳しく学ぶことが出来る。



熊本県山鹿市菊鹿町米原443-1