「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

県展入選作品 『 DHA 』

2013-12-26 05:16:41 | 絵画と個展








生身の魚とは違い
そのイメージが硬く冷たい鉄の魚
アイアンフイッシュ

その魚の
目の周りにはDHAという
素晴らしい要素が含まれている

だから・・・
DHA




3回目の入選になった作品。
鉄の魚体に唯一それと違うガラス球を使った眼。






熊本県山都町 「 聖 橋 」

2013-12-26 05:16:00 | 熊本の石橋




































所在地 / 熊本県山都町野尻 ・ 畑
架橋 / 天保3年 ( 1832年 )
石工 / 岩永 三五郎
長さ / 35.0m
幅  /  5.0m  高さ / 12.0m


聖橋は、山都エリアの中でも最も古い石橋である。
新橋の拡張工事などで危うく取り壊されそうになったが、
地域住民の働きかけで残されることになり、平成11年に修復された。
今も地域住民と共に歩み続ける歴史を物語る橋のひとつである。
二筋に分かれて落ちるさまが美しいことで知られている「聖 滝 」も近くにあり、
水が織りなす幻想的な風景が楽しめる。


聖橋へのアクセス
聖橋へは、御船インターより国道445号線を山都町方面に進み、
旧・矢部町より国道218号線沿いの消防署の先に位置する。
駐車場は無いので路肩駐車になる。


大牟田の近代化産業遺産 ・ 「 旧三池集治監跡 」

2013-12-25 04:57:41 | 近代化産業遺産・土木遺産



「 旧三池集治監跡 」

















それは、かつて原貢さんが監督で甲子園で優勝した三池工業高校のグランドの外壁にあった。


集治監とは地方監獄とは別に、国が管理する重刑者を収容するための監獄施設で、
三池集治監は明治16(1883)年に設置された。
西日本では三池にのみ設置され、当初西日本各県の監獄より刑期12年以上の囚徒が集められ、
三池に集治監が設置されたのは、当時国が管理していた三池炭鉱での安定的な労働力を確保するためである。
2000人の囚人が収容され、主に三池炭鉱での採炭作業に従事していた。
その後三池監獄、三池刑務所と改称され、宮原坑の閉坑に伴って昭和6(1931)年に閉庁した。
昭和10(1935)年、三池工業高校の前身である三井工業学校が現在地に移転し、現在に至っている。
敷地内の建物は失われたが、レンガ造の外塀、石垣の一部のみ残されている。



福岡県香春町 「 青春の門 」  五木寛之

2013-12-25 04:56:41 | 文学・文化・映画作品



青春の門に出て来る「 香 春 岳 」








セメント工場がある一ノ岳










五木寛之は、自由で国際感覚あふれるデラシネ ( 根なし草 ) を主題に、
福岡の風土、アジアの中の日本人の情念を問い続けている作家・エッセイストである。

「 青春の門 」 ( 「 筑豊編 」 で吉川英治文学賞受賞 ) は、
昭和44年 ( 1969年 ) の 「 週刊現代 」 連載開始から長きに続く、
五木の渾身の代表作といえる。
炭坑全盛の筑豊を主舞台に、東京、北海道、シベリアと、
筑豊の子・伊吹信介の青春時代から社会人へと昭和29年 ( 1954年 ) から
昭和30年代を背景にした ” 大河小説 ” の名にふさわしい力作である。

主人公の信介は、父が炭鉱の坑夫の頭領、
母が炭坑婦、祖父が川船 ( 石炭運搬船 ) 船頭という
ヤマの血と風土に裏打ちされた川筋気質 ( 遠賀川流域独特の侠気果断の気性 ) で、
人生に立ち向かう。

「 伊吹信介は、子どもの頃から香春岳を眺めるのが好きだった 」 ( 青春篇 )
「(さよなら、香春岳。さよなら田川ー)・・・目の奥に香春岳の姿がくっきりと残っている。
こんどいつ再開するともしれぬ山の姿を、信介はくりかえし頭の中に描いた 」 ( 望郷篇 )


香春岳は筑豊を代表するものであり、 「 青春の門 」 の象徴である。
三つの頂からなり、史跡が多く点在している。
一ノ岳は全山が石灰岩でセメントの原料として削られている。
麓には香春神社や鬼ヶ城跡がある。
二ノ岳 ( 468m ) の東側斜面は梅の名所で神宮院がある。
三ノ岳 ( 511m ) は、明治時代まで採銅が行われ、
豊前国最古の神社と言われる古宮八幡神社、
平安時代に宇佐八幡宮に奉納する御神鏡を鋳造した清祀殿跡がある。



奄美の黒糖焼酎 『 龍 宮 』

2013-12-25 04:55:41 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒










奄美大島にある 「 居酒屋 一村 」






加川 良のサインが飾られている店内







加川 良の 「 高知 」





昨日の朝は冷えたのでニット帽にネックウォーマーをして家を出たが、
昼間は温かく、まして公共枡の管路を掘り棒で手掘りしたので汗だくになった。
そんな労働をした日のビールは格別だった。
それからワインの 「 菊花シャルドネ 」 を空け、黒酎の「 龍宮 」 へと移行した。

「 龍宮 」 を初めて飲んだのは、奄美大島の 「 居酒屋 ・ 一村 」 だった。
奄美の大和村国直出身のマスターと国直グスクの話で盛り上がり、
僕のリクエストにお応えして、加川 良の「 高知 」 をかけてくれた。
そして、甕に入った 「 龍宮 」 の古酒を飲ませてくれた。
そんな優しいマスターと一緒に写った写真が手元にあるが、
その写真を見るたびに奄美に行きたくなる。

そんな懐かしい 「 龍宮 」 を造る富田酒造は、
創業は、奄美群島の日本復帰に先立つ昭和26年。
富田酒造場のある名瀬市は、奄美群島の拠点都市で、
南は太平洋、北は東シナ海に面しており、
大島本島は外海離島として沖縄本島、佐渡島に次ぐ総面積を有し、
その内の約81%を山林が占める。気候は亜熱帯海洋性に属し、
四季を通じてハイビスカスが咲き乱れ、海岸線にはサンゴ礁、
山間部には、国の特別天然記念物に指定される奄美固有の動植物が数多く生息し、
巨大なヒカゲヘゴなど亜熱帯植物が自生する原生林「金作原(キンサクバル)」が有名である。

蔵は、かつてオランダの館があった事から蘭館山と名付けられた山の麓、
江戸末期に英国人技師を招いて建設した白糖製造工場跡地にある。

また、奄美に行きたい。


加川良の 「 高知 」
「 南に向かって高知だよ 南に向かって高知だよ 」
「 飲ん騒いで 女と踊って 」
「 大阪経由高知だよ 」

何故か?この曲を聴くと涙が出る。


福岡県みやこ町勝山 ・ 「 寺田川古墳 」

2013-12-24 05:00:41 | 古墳・ 遺跡



墳丘には大きな孟宗が林立している







枯れた孟宗竹の間から石室が見える







石室は縦長になった稀な形をしている












古墳やグスクがある場所は、灌木や雑草で覆われている光景が普通であるが、
このように竹の中にある沖永良部島の後蘭孫八城にしても、この寺田川古墳にしても、
ある意味異様な雰囲気を感じるのである。

寺田川古墳は、なかなか探し当てれなかった古墳のひとつで、
県道長尾稗田平島線に近い下黒田の丘陵上にある。
この丘陵上には他に低墳丘の二基の円墳が残存し、
寺田川古墳とは数十メートルの距離を持つ。
おそらく累代の墓域を形成するものであろう。
かつてはいま一基が存在したという。


昭和39年 ( 1964年 ) に石人石馬研究会によって
一部発掘調査を伴う石室実測作業がなされ、
玄室左袖に頭骨片・鉇・その脇に円筒埴輪片二点、
玄室奥壁左隅で土師器片一点が出土したというが、
出土品の所在・詳細は不明である。

古墳は現在竹林となっていて、墳丘の変形も進んでいる。
現状で全長19mの規模を持ち、周囲はまったく見えない。
石室が開口する西側は一段と低くなっており、
南側の墳裾となる標高25.25ラインを追うと後円部径は約12mとなる。

主体部奥壁が現状の後円部の中心付近に位置することから、
本来の規模と見てよいであろう。
周溝、墓石、埴輪は見当たらない。

主体部は単室の横穴式石室である。
現状では前面が大きく崩落し、天井石は最後部の一枚が残存するだけで、
入り口部は厚く埋まっている。
図化を試みたが、石室内部は40センチ以上の土砂が堆積し、
特に入り口付近は袖石もすべて隠れていて、細部は不明のままである。
現状の床面規模を見ると、長さ2.2m、幅は奥壁で2.2m、
前端付近で約1.5m、高さは約2mが確認できるが、本来は2.4m測ったという。

石材は最下段に比較的大型の腰石を用いるほかは、
厚さ20センチ内外の小型の石材を積み上げ、目地に小石を多用している。
袖石の前面の積み石が少なく、前庭部は未発達のようである。
平面規模に比して高さが非常に高い石室で、
石材から見ても6世紀初頭前後に比定できよう。




それぞれの海 「 北九州市 ・ 洞海湾 」

2013-12-24 04:59:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々



洞海湾を行き来する船を出迎えるように架かる 「 若戸大橋 」








洞海湾をゆく船









 「つくしなる 大渡川 大方は 我一人のみ 渡る浮世か 」 ( 古今六帖 )

 と紀貫之 ( きのつらゆき ) の古歌がある。

この歌からもうかがえるように洞海湾 ( 一名洞の海 ) は、
その昔、川状をなしていて江川によって遠賀川河口に通じていた。
かつて若松は離島だったわけで、戸畑、八幡との交通はすべて船で行われていた。
外海である玄海・響の両灘は風波がひどいため、神攻皇后も洞海湾を通航され、
豊臣秀吉の軍船もここを通って芦屋に出ている。

かつての洞海湾は東西20km、南北が2kmという非常に細長い湾で、
水深は浅いところで1.5mしかなく、干潮時には出船、入船が困難であった。
もともと、地方の一村落でしかなかった若松村が水運の拠点として大きな役割を担うのは、
遠賀川の上流一帯で産出される石炭の積出港になってからである。

遠賀川上流の石炭は、戦国期の文明10年 ( 1478年 ) には、
すでにかがり火の燃料として使用された記録があるが、
江戸に入ってからは産業としてその重要性が増し、
江戸末期の文政13年 ( 1830年 ) には、洞海湾に藩の焚石 ( もえいし )
会所 ( 石炭監督役場 ) が置かれるなど、その採掘販売は藩の統制下に置かれている。 
この間の宝暦13年 ( 1763年 ) には、約140年間にわたる大工事で開通した堀川運河によって
遠賀川と結ばれることにより洞海湾の重要性はますます大きくなった。

明治維新後、石炭は暖房用燃料、さらには製鉄原料として、より一層需要を増すようになった。
藩による統制が終わり、民間の鉱山開発が許可されたのに続き明治5年には
石炭は自由販売となり、若松の地には、石炭関連の業者が次々と設立され、
明治8年には石炭問屋組合が生まれた。
当時の石炭は 「 ひらた船 」 によって運ばれており、最終積出港は若松であった。
明治5年頃までは150隻程度であったひらた船は、
最盛期の明治20年代前半には7,000隻以上に及んだとされている。

一方、明治10年の西南戦争を経て、明治21年に三池鉱山などが三井に払い下げられた結果、
三菱、住友、古河などの巨大財閥が進出し、
これに貝島、麻生、安川といった地元資産が加わり、筑豊炭田の開発は急速に進む。
その生産量は明治18年に年間23.6万トンで日本の石炭生産の18%であったものに対し、
明治28年には213.6万トンで同45%と急増した。

このため、輸送設備の整備が急務となり、
明治22年に設立された若松築港株式会社 ( 現 若築建設株式会社 本社・東京 ) 等により、
洞海湾の浚渫、航路の拡幅などが行われ、
石炭の積出港として港内に帆柱の林立が見られる時代となった。

汽船として初めて入港したのは三菱商事の鋼船 「 江の浦丸 」 ( 800トン ) で、
その姿は洞海湾内の面目を一新したと記されている。
若松は帆船回漕問屋、汽船会社の支店、出張所が次々と設立され、
洞海湾は商工業港として海上交通も頻繁となっていった。

戦後の石炭景気の最盛期 ( 昭和30年代前半 ) には、洞海湾の入出港船は、
1日平均2,100隻もあったが、現在では機帆船が小型鋼船に変わった関係もあるが、
最盛期の半分以下となっている。

洞海湾の湾口、若松、戸畑間に河と島(『かば島』『と』は白の横に斗)(一名 中ノ島)があり、
藩政時代は、黒田藩三宅若狭家義の小城が築かれていたが城は後に壊された。
この島は幕末当時、台場があり、明治大正期には造船所数件と貯炭場などがあったが、
昭和14年10月当時の内務省が切り取り工事を開始、昭和15年12月に完了し、
今はその姿をとどめていない。
※ ( 北九州風土記による )

また、奥洞海湾入口 ( 八幡製鉄所の西側 ) に葛島があり葦が生い茂っていたが、
埋め立てられ八幡製鉄所と陸続きになり植樹され緑の小山になっている。




熊本県山都町 「 男成橋 」

2013-12-24 04:58:41 | 熊本の石橋





















所在地 /  熊本県上益城郡山都町男成
架橋 / 大正4年 ( 1915年 )
石工 / 不明
長さ / 6.0m
幅  / 4.3m  高さ / 4.5m


男成橋は、男成の小川に架けられた目鑑橋である。
大正元年の大洪水で流失したため、
現在の橋が大正4年に新しく架設されたものである。

男成橋へのアクセス
男成橋へは、御船インターより国道445号線をから
218号線を経由し山都町(旧・矢部町)の男成地区に位置する。
国道の位置口に案内板が設置されている。
駐車は、橋の手前の路肩に駐車した。



熊本県荒尾市 「 三池港灯台 」

2013-12-23 05:17:41 | 熊本の灯台



「 三池港灯台 」





















灯台の横にある 「 慰霊塔 」








かつて駿馬が砂塵を上げて疾走した荒尾競馬場とその向こうに有明海が広がる








眼下に広がる大牟田市街地











灯台表番号 / 6414-F5174
ふりがな / みいけこうていとうだい
標識名称 / 三池港灯台
所在地 / 熊本県荒尾市 ( 虚空蔵山 )
北緯 / 33-00-04 (03.74)
東経 / 130-25-37(36.87)
塗色 / 白色
灯質 / 単閃白光 毎10秒に1閃光
光度 / 実効光度 230,000カンデラ
光達距離 / 21.0海里
地上・平均水面上~頂部の高さ / 15.06m
平均水面上~灯火の高さ / 66.57m
地上・水面上~灯火の高さ / 13m
業務開始年月日 / 昭和26年12月20日
光源 / LB管制器
電源 / 購入電力


三池港灯台がある虚空蔵山 ( 通称・四つ山 ) からは、
廃止になった荒尾競馬場や大牟田市内、
さらには有明海を超えて対岸の普賢岳が見渡せる。
そんな小さな山の上に立つ三池港灯台。



球磨焼酎 「 繊 月 」

2013-12-23 05:16:41 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒






人吉は今年、桜の季節に訪れたが、熊本の中でも好きな街である。
そんな人吉を代表する 「 繊月 」 とは繊細な三日月のことで、
700年続いた相良藩の居城・人吉城の別名を繊月城と呼んでいた。
古くからこの地で親しまれている名前である。
球磨焼酎の本場、人吉球磨で最も愛飲されている繊月酒造の代表銘柄であろう。
まろやかで旨みのある米焼酎は、25度はお湯割り・水割り・ロックと、
さまざまな飲み方が出来るが、今の時季ならばお湯割りが旨い。




雪化粧と古墳探訪

2013-12-23 05:15:41 | 探訪 ・ ドライブ



うっすらと雪化粧をした平尾台方面







頂部を白くした豊臣秀吉の宿城だった 「 障子ヶ岳城 」





今日は雪のために順延になった飯塚オートの決勝戦でレース中に落車し、
殉職した中村政信の祥月命日である。
あの日の飯塚オートレース場は昨日のように雪化粧をした山々が遠くに見えた日だった。


山々が雪化粧した昨日は、
久しぶりに天気が良かったので一人で古墳を廻った。
ほとんどの古墳が2、3度目の探訪であったが、
それでも新たに石室を探して中に入れる石室は中に入った。

ほとんどの石室が亡骸や石棺を置いていた場所である。
今でいう墓の中の骨壺が置いてある場所に入って行くことと同じである。
それは歴史を知る上ではもっとも興味深い場所である。

昨日、探訪した古墳は画像や映像の整理が出来たら
随時紹介したいと思っているのでお楽しみに・・・
でも、お楽しみと言ってもこのブログにやって来る人の98%以上の人が
グスクや古墳に興味のない人だろから、そこまで楽しみにする人もいないだろうな。



北九州市門司区 『 句 塚 』

2013-12-22 07:12:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



関門海峡が見える場所にある 「 句 塚 」











句塚の由来

寿永四年 ( 1185年 ) 三月二十四日、
ここ壇ノ浦海域において、
源 義経率いる源氏軍と平 知盛率いる平家軍の壮絶な戦いに平家軍は壊滅した。

御座舟に在る二位尼 ( にいのあま ) は、宝剣、神璽 ( しんじ ) を携え、
幼帝・安徳天皇をいだいて、
「 浪のしたにも都のさぶろうぞ 」 と、
急流の潮間に身を投じた。


この俳句塚百句は、門司俳人協会が二位尼をはじめ、多くの女官の供養と、
壇ノ浦の合戦に海の藻屑と散っていった源平数千の人々の哀史を語り継ぐ証に
設けたものである。




12月22日 「 冬至の朝 」

2013-12-22 07:11:11 | 朝の風景とその他の風景














今朝は随分と冷えた。
空にはやや三分の二になった月が雲で見え隠れしていた。

先週まで12月と思えないくらい暖かかったのに、
今週から急に寒くなって来た。
これが本当の冬だろうが、
仕事をするには雪はいいが雨は頂けない。
今日は一年で一番昼が短いと言われる 「 冬至 」 である。

そんな冬至 ( winter solstice ) は、
黄道上の黄経が270゜の点を冬至点といい、
太陽の中心がこの点を通過した瞬間を冬至という。
現行の暦では毎年12月22日ころ起こる。
太陽はこのときもっとも南に位置し、
日本のような北半球にあってはこの日に日中の長さがもっとも短く、
太陽の南中時の影の長さがもっとも長い。
日本で用いられた陰暦、すなわち中国流の太陰太陽暦では冬至は暦法の原点として
二十四節気のうちでもっとも重要なものであった。
暦法はまず太陽の影の長さを測定して冬至の日時を決め,
前年の冬至の日時との差から1太陽年の長さを決めることが基本となった。



沖縄県うるま市宮里 「 江洲グスク 」

2013-12-21 05:29:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



江洲グスクの全景







グスク入り口に立つ路標






グスク内にある 「 つきおやのろ 」 の石碑







グスク内部






グスク主郭にある江洲按司の墓







グスク内にある母せりきよ、座安親雲上などとノロの古墓





江洲グスクは、王位継承をめぐる骨肉の争い 「 志魯・布里の乱 」 で、
悲劇的な死を遂げた尚 巴志の六男・布里王子の居城だと伝えられる。
また、尚 泰久王家三代の居城とも伝えられる。
それに、伊波城から分家した江洲按司の居城だという話も伝わっている。
この江洲按司は武勇に優れ、特に馬術と弓術は素晴らしかったといわれている。
後になって中山王に乞われて首里に移り住んだという。

江洲グスクは、標高100mの丘陵地の上に築かれたグスクであり、
階段を登って行ったグスク内は、按司墓や古墓などが点在していて、
石垣や城壁などの遺構は見当たらない。


江洲グスクへのアクセス
江洲グスクへは、高江洲交差点から県道16号線の宮里交差点にある
ガソリンスタンド(モーレみやさと東)の左横の道に入り
200mほど上ると又吉ハイツがある。
そこから100mほど下ると右側に仲原小学校があり、
その手前に小高い山が見えるところがグスクである。
グスク入り口には按司の妹の石碑が立っていて、そこからコンクリートの階段がある。
駐車は、グスク入り口の道路に駐車した。


※ 尚 布里王子の墓

沖縄県うるま市宮里 「 江洲按司の墓 」

2013-12-21 05:28:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



奥が江洲按司と手前が妹 「 つきおやのろ 」 の墓








母せりきよ、座安掟親雲上 ( うっちーぺーちん ) 代々のノロを一緒に葬った古墓





江洲集落に江洲ヌル殿内があり、
標高100mほどの丘が江洲グスクである。
仲原小学校の裏丘、江洲629番地の道向かいに按司墓へ行く小路がある。
石段を登ると岩陰に石積みされた江洲按司とヌル墓がある。
石碑には 「 兄 えすあんじ之が左 妹 つきおやのろ之が右 」 と刻まれている。
他に母せりきよ、座安掟親雲上 ( うっちーぺーちん ) 代々のノロを一緒に葬るとある。

按司とヌルは、尚 泰久王と江洲生まれの女との間にできた子であるという。
真栄田家・嘉陽家がその子孫にあたる。
南西の崖下に江洲王子の墓もあるという。
尚 泰久王が宮里生まれの女に産ませたのが尚 武ではなかろうか。
江洲按司は五男宗組で、尚武は六男ともいわれるが判然としない。

江洲グスクには尚 巴志の六男の尚 布里王子が居たといわれ、王位継承の内乱で遁󠄀走した。
そのため尚 泰久王の五男が江洲グスクに入ったといわれ、
第一尚氏王統の没落とともに廃城になった。


※ 尚 布里王子の墓