洞海湾を行き来する船を出迎えるように架かる 「 若戸大橋 」
洞海湾をゆく船
「つくしなる 大渡川 大方は 我一人のみ 渡る浮世か 」 ( 古今六帖 )
と紀貫之 ( きのつらゆき ) の古歌がある。
この歌からもうかがえるように洞海湾 ( 一名洞の海 ) は、
その昔、川状をなしていて江川によって遠賀川河口に通じていた。
かつて若松は離島だったわけで、戸畑、八幡との交通はすべて船で行われていた。
外海である玄海・響の両灘は風波がひどいため、神攻皇后も洞海湾を通航され、
豊臣秀吉の軍船もここを通って芦屋に出ている。
かつての洞海湾は東西20km、南北が2kmという非常に細長い湾で、
水深は浅いところで1.5mしかなく、干潮時には出船、入船が困難であった。
もともと、地方の一村落でしかなかった若松村が水運の拠点として大きな役割を担うのは、
遠賀川の上流一帯で産出される石炭の積出港になってからである。
遠賀川上流の石炭は、戦国期の文明10年 ( 1478年 ) には、
すでにかがり火の燃料として使用された記録があるが、
江戸に入ってからは産業としてその重要性が増し、
江戸末期の文政13年 ( 1830年 ) には、洞海湾に藩の焚石 ( もえいし )
会所 ( 石炭監督役場 ) が置かれるなど、その採掘販売は藩の統制下に置かれている。
この間の宝暦13年 ( 1763年 ) には、約140年間にわたる大工事で開通した堀川運河によって
遠賀川と結ばれることにより洞海湾の重要性はますます大きくなった。
明治維新後、石炭は暖房用燃料、さらには製鉄原料として、より一層需要を増すようになった。
藩による統制が終わり、民間の鉱山開発が許可されたのに続き明治5年には
石炭は自由販売となり、若松の地には、石炭関連の業者が次々と設立され、
明治8年には石炭問屋組合が生まれた。
当時の石炭は 「 ひらた船 」 によって運ばれており、最終積出港は若松であった。
明治5年頃までは150隻程度であったひらた船は、
最盛期の明治20年代前半には7,000隻以上に及んだとされている。
一方、明治10年の西南戦争を経て、明治21年に三池鉱山などが三井に払い下げられた結果、
三菱、住友、古河などの巨大財閥が進出し、
これに貝島、麻生、安川といった地元資産が加わり、筑豊炭田の開発は急速に進む。
その生産量は明治18年に年間23.6万トンで日本の石炭生産の18%であったものに対し、
明治28年には213.6万トンで同45%と急増した。
このため、輸送設備の整備が急務となり、
明治22年に設立された若松築港株式会社 ( 現 若築建設株式会社 本社・東京 ) 等により、
洞海湾の浚渫、航路の拡幅などが行われ、
石炭の積出港として港内に帆柱の林立が見られる時代となった。
汽船として初めて入港したのは三菱商事の鋼船 「 江の浦丸 」 ( 800トン ) で、
その姿は洞海湾内の面目を一新したと記されている。
若松は帆船回漕問屋、汽船会社の支店、出張所が次々と設立され、
洞海湾は商工業港として海上交通も頻繁となっていった。
戦後の石炭景気の最盛期 ( 昭和30年代前半 ) には、洞海湾の入出港船は、
1日平均2,100隻もあったが、現在では機帆船が小型鋼船に変わった関係もあるが、
最盛期の半分以下となっている。
洞海湾の湾口、若松、戸畑間に河と島(『かば島』『と』は白の横に斗)(一名 中ノ島)があり、
藩政時代は、黒田藩三宅若狭家義の小城が築かれていたが城は後に壊された。
この島は幕末当時、台場があり、明治大正期には造船所数件と貯炭場などがあったが、
昭和14年10月当時の内務省が切り取り工事を開始、昭和15年12月に完了し、
今はその姿をとどめていない。
※ ( 北九州風土記による )
また、奥洞海湾入口 ( 八幡製鉄所の西側 ) に葛島があり葦が生い茂っていたが、
埋め立てられ八幡製鉄所と陸続きになり植樹され緑の小山になっている。