『 筑前竹槍一揆発生の地 』 日吉神社
紫村一重は筑豊・直方に生まれた戦前からの農民運動家で、
戦後は直方市の市史編纂委員や直方郷土研究会会長、
同市文化財専門委員会委員長を務めるなど、郷土史研究に打ち込んだ。
『 筑前竹槍一揆 』 は、紫村が若い時から農民運動に打ち込んで来た思いを込め、
8年の歳月をかけて昭和48年 ( 1973年 ) に完成させ、葦書房から刊行した。
この 『 筑前竹槍一揆 』 は、明治6年 ( 1873年 ) 、
福岡県嘉麻郡高倉村 ( 現・飯塚市庄内町 ) から始まり、
穂波郡から鞍手郡、遠賀郡、粕屋郡、さらに夜須郡まで広がった百姓一揆について、
埋もれた文書や古老の話など、膨大な資料をもとに史実に基づいてまとめ上げた小説である。
福岡県は、現在と違い、筑後は三瀦県、豊前は小倉県と言い、
旧福岡藩領・秋月藩領に当たる筑前地域だけが福岡県であった。
その福岡県の東端、嘉麻郡(現在の嘉穂郡の一部)高倉村日吉神社で雨乞をしていた人々が、
小倉県との境にある金国山で昼は紅白の旗を振り、
夜は火を焚いて合図をしている者があるのを知って、抗議に押し掛けた。
これは「目取り」と言って、米相場の高低を山伝いに連絡して一儲けしようという連中だった。
これをきっかけに、筑前全域を舞台に2週間近くに及んだ筑前竹槍一揆が起こるのである。
きっかけは金国山の出来事に過ぎなかったが、一揆が筑前全域へと広がったのは、
底流として民衆の間に政府への強い不満があったことが考えられる。
この前後、西日本各地に同じような大規模な一揆が起こっていた。
太陽暦もそうだが、政府は矢継ぎ早に欧米にならった近代化を推し進めた。
廃藩置県・地租改正・断髪令・徴兵令…。
神仏分離政策により、路傍の神仏を撤去し、時には合祀したり、神号を変更したりと、
それまで民衆の慣れ親しんだ世界が上からの改革で、うむを言わさず変更されていった。
民衆の多くが、これからの生活に不安を覚え、政府に不信感を抱いたとしても無理はない。
一揆は、政府の進めた文明開化政策のありとあらゆる出来事を、廃止の対象として数え上げた。
筑前竹槍一揆の発生の地となった日吉神社は、現在の飯塚市庄内町高倉にあり、
小説では、 「 日吉宮は嘉麻郡高倉村の村はずれの、見上げるような高い丘の上に、
うっそうと茂った老樹に囲まれて鎮座していた。
定例の祭日のほかは参拝する人も少なく、境内は落ち葉と苔に埋もれて、
ひっそりと眠っているようであった。 」 とある。
紫村一重は、明治41年 ( 1908年 ) 直方市に生まれた。
若くして小作争議や炭坑争議、解放運動にかかわった。
戦後も農民運動に従事し、昭和30年 ( 1955年 ) まで直方市議を務め、
その後は郷土史研究会に没頭し、昭和37年 ( 1962年 ) から
昭和53年 ( 1978年 ) まで直方市史編纂委員として直方郷土研究会や
古文書研究会にも尽力した。
平成4年 ( 1992年 ) 、本書の大幅な改訂論文の脱稿を目前に83歳で没した。