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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

それぞれの海 「 沖縄県竹富島 ・ 西桟橋 」

2013-12-21 05:27:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々







石垣島の南に浮かぶ竹富島
かつて琉球文化の玄関口
西桟橋
その歴史の上に立ち
ここで歴史の音を訊く
寄せ来る波は
歴史へのイザナイか

西 塘よ
オヤケアカハチよ
安里クヤマよ

われ 三たび逢いにゆかん




この西桟橋は、かつて西表島で稲作がおこなわれていた時の玄関口であった。
この桟橋は 「 国の登録有形文化財 」 となっている。



北九州市戸畑区 『 共同漁業ビル ( ニッスイパイオニア館 ) 』

2013-12-20 04:43:41 | 近代化産業遺産・土木遺産

























所在地 : 北九州市戸畑区銀座2-6-27
竣工  : 昭和11年(1936年)
構造  : 鉄筋コンクリート造4階建て
設計施工 : 竹中工務店


洞海湾口には、かつていくつかの島々が存在した。
大きなものでは中世、若松城が築かれた中之島もあったが、
現在は若戸行路の支障を来すとして浚渫され、現存していない。
そんな中に洞海湾の浚渫土によって造られた一文字島という人工島があった。
この島は昭和元年に戸畑側と陸続きになり事業用地として売りに出され、
ここに進出したのが、鮎川義介率いる共同漁業である。
共同漁業は、1911年(明治44年)に下関で設立された田村汽船漁業部を発祥とする。
同社は、トロール漁法を
倉場富三郎(トミー・グラバー、幕末期に活躍したトーマス・グラバーの一子)と前後して移入し、
当時の漁業に革命を起こした。

第一次大戦前後、漁船の軍事目的の転売が盛んになった時期も本業に専念し、
大正後期にはトロール漁をほぼ独占するまでに至った。
漁業の近代化、市場へのアクセスを考えた同社は、戸畑への工場の移設を決断する。
昭和4年に、市場・加工場・従業員宿舎等を合わせたトロール事業の一大基地を築き上げた。
これらの設備は、戦後の遠洋漁業に大きな効果を発揮し、
模範的工場として教科書にも取り上げられるほどになった。

「 共同漁業 」 という社名は、当時の取り締まり役である国司浩助が、
会社とは経営者と従業員とが手を取り合い進めて行くものであるとの思いから命名したもので、
このような理念の元、会社付属の船員養成所が設立されたのは、昭和5年のことである。
ここでは船員のための専門授業に加え、一般教養や修身も教えられていた。
さながら学校に近い教育機関 ( 実際に学校令の許可を受けていた ) であったことから、
従業員を大切に考えた国司浩助の経営姿勢を垣間見ることが出来る。



熊本県山都町 「 貫原橋 」

2013-12-20 04:42:41 | 熊本の石橋



































所在地 / 熊本県山都町貫原
架橋 / 弘化4年 ( 1847年 )
石工 / 白小野の嘉兵衛
長さ / 9.1m
幅  / 3.6m  高さ / 4.5m



貫原橋は日向往還の細い谷川に架けられているため、
アーチの上部の石組みが厚くなっている。
今も忘れ去られることなく佇む姿からは、往時の面影がしのばれる。


貫原橋へのアクセス
貫原橋へは、御船インターより国道445号線から218号線へと進み、
貫原地区を左に入って山道を1キロほど行くと左の谷の下に架かっている。
国道の入り口に案内板が設置されているのでそこから左折すればいい。
駐車は、路肩に止めたが道路が狭いので、
くれぐれも対向車の離合に注意をしていただきたい。



それぞれの海 「 福岡県行橋市 ・ 蓑島 」

2013-12-20 04:41:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々













寒々しい冬の海
海上を吹きすさぶ北の風
どんよりとした空に
にぶく濁った冬の海

わずかな中州に身を寄せる渡り鳥
じんわりとしみる
誰もいない
鈍色の冬の海



飯塚市庄内町 『 筑前竹槍一揆 』 紫村一重

2013-12-19 05:30:41 | 文学・文化・映画作品



『 筑前竹槍一揆発生の地 』 日吉神社

















紫村一重は筑豊・直方に生まれた戦前からの農民運動家で、
戦後は直方市の市史編纂委員や直方郷土研究会会長、
同市文化財専門委員会委員長を務めるなど、郷土史研究に打ち込んだ。
『 筑前竹槍一揆 』 は、紫村が若い時から農民運動に打ち込んで来た思いを込め、
8年の歳月をかけて昭和48年 ( 1973年 ) に完成させ、葦書房から刊行した。

この 『 筑前竹槍一揆 』 は、明治6年 ( 1873年 ) 、
福岡県嘉麻郡高倉村 ( 現・飯塚市庄内町 ) から始まり、
穂波郡から鞍手郡、遠賀郡、粕屋郡、さらに夜須郡まで広がった百姓一揆について、
埋もれた文書や古老の話など、膨大な資料をもとに史実に基づいてまとめ上げた小説である。


福岡県は、現在と違い、筑後は三瀦県、豊前は小倉県と言い、
旧福岡藩領・秋月藩領に当たる筑前地域だけが福岡県であった。
その福岡県の東端、嘉麻郡(現在の嘉穂郡の一部)高倉村日吉神社で雨乞をしていた人々が、
小倉県との境にある金国山で昼は紅白の旗を振り、
夜は火を焚いて合図をしている者があるのを知って、抗議に押し掛けた。
これは「目取り」と言って、米相場の高低を山伝いに連絡して一儲けしようという連中だった。

これをきっかけに、筑前全域を舞台に2週間近くに及んだ筑前竹槍一揆が起こるのである。
きっかけは金国山の出来事に過ぎなかったが、一揆が筑前全域へと広がったのは、
底流として民衆の間に政府への強い不満があったことが考えられる。
この前後、西日本各地に同じような大規模な一揆が起こっていた。
太陽暦もそうだが、政府は矢継ぎ早に欧米にならった近代化を推し進めた。
廃藩置県・地租改正・断髪令・徴兵令…。

神仏分離政策により、路傍の神仏を撤去し、時には合祀したり、神号を変更したりと、
それまで民衆の慣れ親しんだ世界が上からの改革で、うむを言わさず変更されていった。
民衆の多くが、これからの生活に不安を覚え、政府に不信感を抱いたとしても無理はない。
一揆は、政府の進めた文明開化政策のありとあらゆる出来事を、廃止の対象として数え上げた。

筑前竹槍一揆の発生の地となった日吉神社は、現在の飯塚市庄内町高倉にあり、
小説では、 「 日吉宮は嘉麻郡高倉村の村はずれの、見上げるような高い丘の上に、
うっそうと茂った老樹に囲まれて鎮座していた。
定例の祭日のほかは参拝する人も少なく、境内は落ち葉と苔に埋もれて、
ひっそりと眠っているようであった。 」 とある。

紫村一重は、明治41年 ( 1908年 ) 直方市に生まれた。
若くして小作争議や炭坑争議、解放運動にかかわった。
戦後も農民運動に従事し、昭和30年 ( 1955年 ) まで直方市議を務め、
その後は郷土史研究会に没頭し、昭和37年 ( 1962年 ) から
昭和53年 ( 1978年 ) まで直方市史編纂委員として直方郷土研究会や
古文書研究会にも尽力した。
平成4年 ( 1992年 ) 、本書の大幅な改訂論文の脱稿を目前に83歳で没した。



廃止撤去になった灯台 「 与根港第二防波堤灯台 」

2013-12-19 05:29:41 | 沖縄の灯台
































灯台表番号 / 7064.2
ふりがな / よねこうだいにぼうはていとうだい
標識名称 / 与根港第二防波堤灯台
所在地 / 沖縄県豊見城市(与根港第二防波堤外端)
北緯 / 26-09-51
東経 / 127-39-06
塗色 / 白色
灯質 / 単閃緑光 毎3秒に1閃光
光度 / 実効光度 26カンデラ
光達距離 / 3.5海里
地上・平均水面上~頂部の高さ / 5.7m
平均水面上~灯火の高さ / 8.8m
地上・水面上~灯火の高さ / 5.45m
業務開始年月日 / 昭和63年12月19日
光源 / LED(発光ダイオード)
電源 / 自然エネルギー(太陽電池)



灯台の上をバイパスが走る与根港第二防波堤灯台は、
平成22年に廃止撤去になった灯台である。

与根港第二防波堤灯台は、那覇空港の滑走路の延長上にある瀬長島の南に位置する
与根漁港の防波堤に立つ灯台である。
海に面した部分の少ない豊見城市にある唯一の灯台でもある。
灯台の高さは5.7mあるが、上を通る与根高架橋が高いのでそれよりも低く見える。


与根港第二防波堤灯台へのアクセス
与根港第二防波堤灯台へは、那覇市内から国道331号線で糸満方面に進み、
豊見城の与根の信号機から右に1.5キロほど入った突き当たりになる。
駐車は、灯台付近の高架橋の下に駐車した。


セルフポートレイト ・ 永井龍雲ベスト 「 道標ない旅 」

2013-12-19 05:28:41 | 音楽 ・ 映画



セルフポートレイト / 永井龍雲ベスト



同郷ということもあり、デビューから応援していた永井龍雲。
その龍雲自身が選んだセルフポートレイトのベスト盤。
400枚限定でピックがついてくるというものであったが、
ピックよりも好きな曲ばかりが入ったアルバムの方が魅力であった。
その2枚組のアルバムのトップの曲が 「 道標 ( しるべ ) ない旅 」 である。









「 道標ない旅 」

作詞/作曲 永井 龍雲



閉ざされた部屋の窓を 開けてごらんよ
いつまでも そんな風に
塞いでいないで
そこにはあの日 希望に燃えて
君が見上げた
青い空が 変わらずに
続いている筈だ

大空に群なす鳥たちよ
君の声を見失うなよ
青春を旅する若者よ
君が歩けば そこに必ず
道はできる

あてのない青春の 橋の途中で
すれ違う 人の多くは
名前も知らない
見果てぬ夢を 探し求めて
出会う仲間は
それだけに すばらしいのさ
言葉はいらないさ

大空を飛び交う鳥たちよ
今よりはるか高くのぼれよ
青春を旅する若者よ
君が歩けば そこに必ず
道はできる

大空を飛び交う鳥たちよ
今よりはるか高くのぼれよ
青春を旅する若者よ
君が歩けば そこに必ず
道はできる…



大牟田の近代化産業遺産 ・ クレーン船 「 大金剛丸 」

2013-12-18 05:45:41 | 近代化産業遺産・土木遺産



三池港の南側バースに停泊している黄色が目を惹く 「 大金剛丸 」











長さ 30m
幅 約10m
総トン数 231トン
その他 エンジンがないので自走できない。

この浮きクレーン船 「 大金剛丸 」 は、
三池港の築港を開始して3年目の明治38年(1905)に中古として大阪より購入されたもので、
クレーンの歯車に 「 JOHN.H.WILSON&C!LTD LIVERPOOL 」 の刻印があることから、英国製と分かる。
クレーンの吊り上げ能力は最大15トンで、今も動力源は石炭である。
そのため、ボイラーが温まり作業が出来るようになるまでに約2~3時間の時間を要するため、
現役ではあるが、ほとんど稼働していない。

普段は三池港ドック南側バースに停泊しており、
浮標チェーン点検取り替え作業等のため月に1~2回程度稼動している程度である。
浮起重機 ( フローティング クレーン ) とも呼ばれ、
こうして明治30年代のクレーン船が残っているのは極めて稀である。




それぞれの海 「 宮古島 ・ 東平安名崎 」

2013-12-18 05:44:41 | 海 ・ 港 ・ 空 ・ 木々







悲しい言い伝えが残る東平安名崎
マムヤの墓から見下ろす海岸には
大きな岩が点在する

波に運ばれて来た海の忘れ物か
それとも
マムヤが落した涙の滴か






佐賀県唐津市 「 唐津くんち・十四番曳山 『 七宝丸 』 」

2013-12-18 05:43:41 | 日記 ・ イベント





十四番曳山 七宝丸
江川町 ・ 明治9年 ( 1876年 )



今まで 「 唐津くんち 」 の曳山14台のうち10台を紹介して来たが、
今回の曳山の紹介で最後になります。
一番曳山の 「 赤獅子 」 ~四番曳山の 「 源義経の兜 」 までが紹介できなかったが、
これらは宿題として来年紹介出来るようにしていきたいと思っているし、
また楽しみにして頂きたいと思っている。




熊本県山都町 『 池尻の唐傘松 』

2013-12-17 05:14:41 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



大きさもさることながら、枝ぶりも素晴らしい 「 唐傘松 」







こんもりとした丘の上に立つ姿は丘と一体化して見える







唐傘松がある丘の上からの眺望











舞鶴眼鏡橋に向かって走っていると右側に唐傘松が見える。

旧矢部町中心部から国道218号線を馬見原方面に向かい、
車で10分ほどで上川井野地域に入り、上川井野バス停から左へ5分ほど行くと、
小高い丘があり、そこに 「 池尻の唐傘松 」 が見える。
遠くから眺めると、丘の上にポツンと立つ姿はその丘と一体して見える。

その松に向かって細い道をさらに車を走らせ、近くに車を停めて、
草地である丘の上って行くと、どっしりとした雄大な唐傘松が目に入って来る。
その大きさの驚きと美しさの感動でいっぱいになる。

この池尻の唐傘松は、樹齢300年以上の赤松である。
幹周りが約3m、高さが約8mほどで、
かさ状の樹冠の幅は、東西30m、南北20mにも及ぶ広大なもので、
その勇姿は、自然の作りだした美を強く感じさせてくれる。

昭和42年12月には、県緑化推進委員会の保存木に、
昭和53年5月には、矢部町指定文化財に指定されている。
最近は傘松の枝が伸びて葉が地上に垂れ下がってきたので、
樹木保存のために傘松の幹から15m四方を 「 地域指定 」 とし、
立ち入りが制限されている。



熊本県山都町 「 舞鶴眼鏡橋 ( 郷野原橋 ) 」

2013-12-17 05:13:41 | 熊本の石橋





















所在地 / 熊本県上益城郡山都町郷野原
架橋 / 不明
石工 / 不明
長さ / 4.7m
幅  / 1.87m  高さ / 1.3m


舞鶴目鑑橋は、旧・清和村に唯一残る石橋で、
かつては「 郷野原の石橋 」 と呼ばれていた。
橋そのものは小さいものの、周囲の田園風景と調和した知る人ぞ知る橋で、
今まで探訪した石橋で一番探すのに苦労した橋である。

舞鶴目鑑橋へのアクセス
舞鶴目鑑橋へは、御船インターより国道445号線を山都町へ進み、
旧・矢部町から国道218号線を旧・清和村方面に行くと、
県道319号線を山都町清和総合支所より
井無田高原方面に向った郷野原地区の仏原高森線の郷野原公民館裏の丘の下ある。


遊びの催促

2013-12-17 05:12:41 | 柴犬 ムサシとピース



” 遊ぼう ” と何やらワァウワァウ話しかけて来る







しばらく無視していると袖口を引っ張って遊びを催促する





ムサシはピースの時と同じように、
仕事で家に居ない時間を除けば、それ以外の時間はほとんど一緒に居る。
もちろん寝起きも同じ部屋になるから、
家族の誰よりも一緒に居る時間が長いのである。

1歳半のムサシは遊びたい盛りである。
しばらくパソに向かっていると、遊ぼうと誘って来る。
それでも無視していると、今度は袖口を噛んで引っ張るので、遊んでしまうが、
ボール投げなんかは、投げても投げてもエンドレスで切りがないのである。
それでも癒される。


大牟田の近代化産業遺産 ・  「 旧三池炭鉱専用鉄道敷 」

2013-12-16 05:11:41 | 近代化産業遺産・土木遺産



宮原竪坑櫓のそばを通っていた 「 旧三池炭鉱専用鉄道敷 」














レールは撤去されたが、踏切の部分だけ残っている




この旧三池炭鉱専用鉄道敷は、
当初は三池炭鉱で産出する石炭や炭鉱で使用する資材の運搬、
後には工場の製品・原材料を輸送するために敷設された専用鉄道であった。
官営のころ三池鉱山局によって1878 ( 明治11 ) 年、
大浦坑と大牟田川河口に鉄道馬車を敷いたのが始まりである。

三池炭鉱が三井に払い下げられた後、
鉄道の設計に着手し1891(明治24)年には大牟田川河口の横須浜~平原(七浦坑)が開通。
1897(明治30)年には九州鉄道(現在の鹿児島本線)と直結。
その後、南に延伸し1905(明治38)年には三池港まで繋がっていた。
1909(明治42)年には電化工事に着手、1923(大正12)年には全線電化が完了する。

炭鉱鉄道の本線は大牟田の市街地を馬蹄形に囲み、
そこから枝分かれした支線とともに炭鉱の坑口と主要な工場を結んでいた。
かつて最盛期には総延長150kmにもおよび、
通勤者を運ぶ客車の運行も行っており、沿線には人員乗降用の駅も設置されるほどだった。
炭鉱が閉山した現在は、化学工場の原材料を工場と
JR鹿児島本線間で運搬するのみとなっている。
不要になった路線は随時撤去されているため、このように敷地だけが存在している。



琉球泡盛 「 八重泉 」

2013-12-16 05:10:41 | 泡盛 ・ 焼酎 ・ 酒







八重山を代表する泡盛 「 八重泉 」は、石垣島でもっともポピュラーな泡盛で、
沖縄本島でも愛飲者が多く、八重山の代表的な泡盛である。
ボクは、同じ石垣でも高嶺酒造さんの「於茂登(おもと)」が好きで、
於茂登ばかり飲んでいたが、沖縄本島では、於茂登を置いている店が少なく、
一般的に石垣といえば 「 八重泉 」 だった。

そんな八重泉を飲んだが、
「 やっぱり泡盛はいいな~。 」 と思う。
八重山のマミヤのかまぼこを当てに飲んだら、もっと旨いだろうな。
そんなことを思うと沖縄へ行きたくなって来る。

そろそろ気温も下がってハブの動きが鈍くなる頃だし、
沖縄の山にある墓場に行くには持って来いである。
来年、1月か2月に仕事の切りが良い時を見計らって墓に行くとするか。