68年問題の一つの考え方がここにある。FAZの記事として彼此二月も前に載っていた記事である。戦前のトーマス・マン事件に対するボン大学の総括を巡っての議論である。
その詳しい状況は何冊も本を漁らなければ判らないが、幾つかの重要な現象を追うことも出来、尚且つ68年の学生運動へ向けての核心をそこに見る事も出来るようである。
戦後のドイツの歴史を見るときには、復興期のアデナウワー保守政権とシュピーゲルスキャンダルというような防衛機密漏洩の反逆罪に問われた多くのジャーナリストの「報道の自由」を護った強い意思を抜きにしては語れない。それは同時に所謂学術文化における連邦共和国の実力を象徴しているかのようである。
そのようにこの名誉博士号を剥奪されたマン事件の総括は、なにも中世からの長い歴史を持つ大学府の自治権問題のみならず、大衆化への流れにあった高等教育の場でのエリートの使命でもあったと言えるだろう。
ボン大学の校風が他の南や北ドイツのそれとは異なり、近隣の中央党支持者の多いカトリック圏ケルンのそれとも異なっていたのは想像し易い。そうした中で、1933年から1945年にかけて大学を去ったユダヤ人学者やカトリックの物理学者ハンリッヒ・コーネン、またバーゼルへと追いやられたプロテスタントのカール・バルトなどが、ナチスを認めずに反体制派の学者となる一方、ナチスの旗を掲げハイル・ヒットラーと挙手をして大学に残った学者がいたのである。
彼らは、多くの公務員がそうであったように戦後も居続けていたのであるが、1964年10月のツァイト紙の告発によって、新たに学長となったゲルマニストのフーゴ・モーザーが先ず槍玉に挙げられた。そしてドミノ崩し的に連鎖して過去が暴かれる事となったのである。
学内での様々な議論と声明から一旦終結に向ったようだが、それを「ナチス時代のあらゆる学術的な研究の責任を解除する行為」としてロマン学者ハリー・マイヤーが批判したことから再び火の手は昇った。1865年以後ボンの哲学学部において最悪の時とする批判から、本来あるべきヒューマニズムの牙城としての大学が強調され、教職陣のナチ協調の責任が再び指摘される事となる。
こうした議論は、最終的に学術的には非常事態における立法議論に導かれるのは予想通りであり、それは非常事態における執行力の崩壊の可能性を連邦共和国においても顕著化させる。こうして上のシュピーゲル・スキャンダルの法治国において、ボン大学の63人の教授陣は厳しく批判されることになる。
そうした反応の中で、1966年には当事者のヒュービンガーによってトーマス・マン事件が纏められて、ボンにおける特異性が明らかにされるようだが、そこではトーマス・マンの、プロイセン帝国で好んで読まれた第一次世界大戦後の「ブーデンブロック」を非政治的に扱い、やはりボン大学長の子息クルト・ヴォルフが同時期に出版した「ウンテルタン」を著した兄のハインリッヒとの諍いが強調されている。
その報告書の後書きにて、ボン大学の哲学部の「罪」ではなく事件を導いた「責任」が指摘されるのみとなっているようである。こうした1964年から1966年にかけての執行猶予の事態が、来る1967年から1968年のさらに大きな紛争を招いた状況が示されている。
1933年と同じように1945年のオプティミズムが支配していると、ハリー・マイヤーが指摘したようだ。当時若きユルゲン・ハーバーマスは、この騒動に直接関与しているようである。
追記:楽天主義が支配する時代 [ 歴史・時事 ] / 2008-02-21
参照:
Thomas Mann und der Fall der Universität Bonn,
Matthias Pape, FAZ vom 15.12.07
「実録・連合赤軍―あさま山荘への道程」 (ベルリン中央駅)
異端への法的社会正義 [ 女 ] / 2007-02-20
疑似体験のセーラー服 [ 歴史・時事 ] / 2005-06-12
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痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
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投資家の手に落ちる報道 [ マスメディア批評 ] / 2007-06-01
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その詳しい状況は何冊も本を漁らなければ判らないが、幾つかの重要な現象を追うことも出来、尚且つ68年の学生運動へ向けての核心をそこに見る事も出来るようである。
戦後のドイツの歴史を見るときには、復興期のアデナウワー保守政権とシュピーゲルスキャンダルというような防衛機密漏洩の反逆罪に問われた多くのジャーナリストの「報道の自由」を護った強い意思を抜きにしては語れない。それは同時に所謂学術文化における連邦共和国の実力を象徴しているかのようである。
そのようにこの名誉博士号を剥奪されたマン事件の総括は、なにも中世からの長い歴史を持つ大学府の自治権問題のみならず、大衆化への流れにあった高等教育の場でのエリートの使命でもあったと言えるだろう。
ボン大学の校風が他の南や北ドイツのそれとは異なり、近隣の中央党支持者の多いカトリック圏ケルンのそれとも異なっていたのは想像し易い。そうした中で、1933年から1945年にかけて大学を去ったユダヤ人学者やカトリックの物理学者ハンリッヒ・コーネン、またバーゼルへと追いやられたプロテスタントのカール・バルトなどが、ナチスを認めずに反体制派の学者となる一方、ナチスの旗を掲げハイル・ヒットラーと挙手をして大学に残った学者がいたのである。
彼らは、多くの公務員がそうであったように戦後も居続けていたのであるが、1964年10月のツァイト紙の告発によって、新たに学長となったゲルマニストのフーゴ・モーザーが先ず槍玉に挙げられた。そしてドミノ崩し的に連鎖して過去が暴かれる事となったのである。
学内での様々な議論と声明から一旦終結に向ったようだが、それを「ナチス時代のあらゆる学術的な研究の責任を解除する行為」としてロマン学者ハリー・マイヤーが批判したことから再び火の手は昇った。1865年以後ボンの哲学学部において最悪の時とする批判から、本来あるべきヒューマニズムの牙城としての大学が強調され、教職陣のナチ協調の責任が再び指摘される事となる。
こうした議論は、最終的に学術的には非常事態における立法議論に導かれるのは予想通りであり、それは非常事態における執行力の崩壊の可能性を連邦共和国においても顕著化させる。こうして上のシュピーゲル・スキャンダルの法治国において、ボン大学の63人の教授陣は厳しく批判されることになる。
そうした反応の中で、1966年には当事者のヒュービンガーによってトーマス・マン事件が纏められて、ボンにおける特異性が明らかにされるようだが、そこではトーマス・マンの、プロイセン帝国で好んで読まれた第一次世界大戦後の「ブーデンブロック」を非政治的に扱い、やはりボン大学長の子息クルト・ヴォルフが同時期に出版した「ウンテルタン」を著した兄のハインリッヒとの諍いが強調されている。
その報告書の後書きにて、ボン大学の哲学部の「罪」ではなく事件を導いた「責任」が指摘されるのみとなっているようである。こうした1964年から1966年にかけての執行猶予の事態が、来る1967年から1968年のさらに大きな紛争を招いた状況が示されている。
1933年と同じように1945年のオプティミズムが支配していると、ハリー・マイヤーが指摘したようだ。当時若きユルゲン・ハーバーマスは、この騒動に直接関与しているようである。
追記:楽天主義が支配する時代 [ 歴史・時事 ] / 2008-02-21
参照:
Thomas Mann und der Fall der Universität Bonn,
Matthias Pape, FAZ vom 15.12.07
「実録・連合赤軍―あさま山荘への道程」 (ベルリン中央駅)
異端への法的社会正義 [ 女 ] / 2007-02-20
疑似体験のセーラー服 [ 歴史・時事 ] / 2005-06-12
ポスト儒教へ極東の品格 [ マスメディア批評 ] / 2008-01-05
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