Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

楽天主義が支配する時代

2008-02-21 | 歴史・時事
承前)新聞記事を読んで要約を書きながら、いつまでも気になることがある。マン事件からその後の1968年紛争への問題もあまりにも多様で、なかなか手がつけられなかったばかりか、次から次へと気になることが出てくる話題である。

1933年の楽天主義に関しても、frostcircusさんからコメントで、指摘されたのでこれも上の記事に戻って、そこから逸脱しない範囲で書き逃していたことを要約する。

ラインラント・ボンは、そもそもプロイセンの帝国の地方として、また第一次世界大戦の敗戦によるヴェルサイユ条約で非武装緩衝帯にあり、国家社会主義が支持され易い地盤にあった。だから自治の大学と言えどもこの影響は受けていたと考えられる。

さらに1933年になってのプロイセン文部省の再編成に伴う予算の削減が、ボンの哲学学部を直撃した背景がそこにあるようだ。1935年の学部長選挙は否定され、1937年には文部省から派遣されたナチ親衛隊のシンパであるカール・ユスティス・オベナウワーが学部長に全会一致で着任している。

その間の1936年12月19日付けでトーマス・マンの名誉博士号の剥奪が決定されているのである。表向きは、既にチェコの市民権を獲得していたマンがドイツ国籍に相当しないという説明が付け加えられている。

そうした亡命を含む多くの関係者は、既に戦後直ぐの1945年、1946年にはあらゆる名誉回復が試みられていたのであるが、1960年代にはそれが既に忘れ去られていたとされる。

同時に、1958年に提議された非常事態法が、社会学的にヴェルナー・マイホファー、トーマス・エルヴィン、ユルゲン・ハーバーマスなどの専門家の強い反発を招いて、1965年5月にボン大学に1100人を集めて「非常事態における民主主義会議」が開かれる社会情勢を加味しておかなければいけないだろう。

これを以って、1933年と1945年に蔓延した楽天主義の様相の一部を垣間見得たのではないだろうか。

Change, we can believe in!



参照:
安全保障に反する支援 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-10
脱構造の日の丸の紅色 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-12
希望へ誘うオバマ候補 [ 雑感 ] / 2008-01-15
コメント (2)
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