Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

反照に浮かび上る世界観

2008-12-21 | 歴史・時事
承前)グロバリゼーションの世界で市民の生活心情が保持されてつつ徐々に変化して行く社会の構造作りとはいかなるものであろう。将来の連邦共和国における宗教のあり方を考えれば自ずとそこから世界観が浮かび上がる。

宗教政策は、キリスト教社会の中での文化的加護政策である反面それと同時に国の積極的価値基準の指導的で前衛的な役割を担うとあり、そこでは嘗てはなかったイスラムとの論争が、社会政治的な従来の壁を打ち破る可能性が指摘される。

ドイツのキリスト教社会の共同体としてのボトムアップの社会形態は、民主主義社会の基盤であると共に特にプロテスタンティズムにおける社会での役割分担にまで及んでいて、個人と国の関係はその前史における部族性が宗教的なそれとなり、近代においては啓蒙思想がその核となっていたのを振り返る。

つまり、1800年ごろは最も現世に於ける価値基準が定まっていて、その教育的価値が臣下である市民の「エチケット」や「精神的拠り所」となっていたように、既に宗教告白的な価値観からは解き放たれていたと言うのである。

国の中立性は、そのプロジェクトが座礁してしまった歴史的事実から帰納して、国の理論面を考える。中立でなく名目上の信仰告白的な側面を保持して、その法律から演繹される世界観を国が持つならば、なによりも独善的な硬直を避けなければいけないと警告する。

先ずは、歴史的な意味合いを持つキリスト教への優先権を与える代わり、官僚主義的な束縛に対処できる法的機構としてそれを保障して、尚且つイスラムを排他しないことを奨めている。それによって、一神教内で各々が独自性を保ちながら論争を通して、個人の自由、公平、寛容、ヒューマニズムに至る新たな源泉とする事が可能だと主張する。

そこでは、ニクラス・ルーマンの主張していた「市民宗教」としての概念が、今や何一つ凌駕するもののない宗教的な価値感の中で確立されると言う意味で、また誰もが世俗的な主観を越えた理性の中で生活している現代において、どうしても届かない「聖的な対話」が存在し続けることを示唆している。

それが、宗教から解き放たれることのない国そのものであり、政治は「性事」であることを示していて、愛とか信仰などがそこに含めれるのである。

要するに、多文化主義であろうがなかろうが、多極主義的な議論が公になされることが最も肝心であると、フランスにおけるそれとは真っ向から相反する方向の処方箋がそこに提出されている。

しかし、ここに至って最初の疑問である、精神科学やそれに類する話題自体がこうした知識人の間では日常茶飯に扱われているとしても、日常生活から高等教育から職業生活の思考態度にまでプロテスタンティズム思考以外になに一つない一般大衆ドイツ人にとってはなかなか困難な思考態度であるに違いない。

連邦政府や連邦州に於けるモスリムテストと呼ばれる移民ために施行されている世界観や価値観の設定を誰もが不思議に思う感覚こそが、そうしたルーティン化した自らの思考態度に気がついて啓蒙されるときなのである。

そうした反照を称して、この書評は最後に頭巾闘争の第二段階として「啓蒙された女性達は、今度は生徒達にそれを禁じる、あらゆる信仰の最初にはきっと恥があるのをまだ覚えているだろうか?」と書いている。(終わり)



参照:
Udo Di Fabio: "Gewissen, Glaube, Religion", von Patrick Bahners, FAZ vom 15.10.2008
死んだ方が良い法秩序 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-21
痴漢といふ愛国行為 [ 雑感 ] / 2007-11-26
人命より尊いものは? [ 生活 ] / 2007-12-06
脱構造の日の丸の紅色 [ マスメディア批評 ] / 2007-12-12
大衆文化に混ざるもの [ 文化一般 ] / 2008-12-18
コメント (2)
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