Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

個性としての訛り方

2008-12-04 | 
最近人に指摘を受けるまでも無く、おかしな喋り方をしているのではないかと気がついてきた。謂わば、本来日本語のアクセントや訛り方を例えばドイツ語において引き摺っているのは当然なのだが、それがどのような形で一種の訛りとして形成されていくのか、常に関心をもっていた事なのである。

特に、ハンブルクなどの高地ドイツ標準語地域で生活していれば違うのだろうが、高地である南ドイツからスイス・オーストリアへと掛かる地域の文化的影響も強く、さらに最近はこてこての方言の中でしか生活していないような按配だから、電話などで書き言葉を聞くとどきっとする事がある。

TVも殆どみなくなった事から車の中のラジオ放送が主となるが、そこでもシュヴェビィッシュからアルマン方言が飛び交う。ヘッセンの放送などはやはり異なるなと感じるようになって来ており、ザクセンに電話すると身近にいる者の顔を浮かべてそれはそれでなかなかなだなと感心する。

今年死去した親戚の日系二世の話し方を思い出す。最初に会った時がもう三十年近く前になるから還暦を過ぎていたがまだ現役で若かった。それでもかなりゆっくりとした喋り方であって、そのバイリンガルであった日本語力と英語力を考えると、両親が日本人でありおかしな英語アクセントはなかったが大井川以西のそれを身に付けていた。しかしそれが何処のものとは確認出来るほどの言葉上の特徴はなかった。母親の出生については詳しくはないが、日本で生涯を終えた同じ医師であるその弟とともに両親の日本語方言が身に沁みていたのだろう。

弟の方は流暢ではなかったが確か通訳をしたほどに言語能力は高かった筈だが、兄のそれは味はあったが流暢という感じではなかった。今親戚筋で同じような語り口を探すと、叔父などに近いものがない事は無い。

家庭内でも分かり難いと言われた自らの言語能力を顧みるになるほど、その思考傾向はオバマ次期大統領に似ていると思ってもその弁舌は全く異なる。思考形体の一形式としての言語活動は、その発言内容の叙述方にによってかなり変化がある事が想像出来たからこそ、自らのそれにも興味を持っていたのであるが、どうもそれとは異なる生物学的な言語能力もあるに違いないと実感するようになって来ている。

つまり、発言の論理性や組み立ては叙述方の収斂と洗練によって大幅に変化させる事が出来るから、よくあるヘジテートノイズと呼ばれるようなそれは大幅に減らすことが出来て尚且つ内容を無駄なく伝える叙述を実現する事は出来る。これは所謂スピーチの訓練などと同じものだが、そのようなレトリックは芸人や弁護士やセールスマン以外は決して習うべきものではない。これは文章を書くその練習と同じであるから自己の必要に従って修得すべきものである。

しかし文章も、その綴り方や構文とは異なり、どのような響きをそこから発して行くかと定めるとき殆ど音楽的な能力と同じように、その「声」以上にそのテンポ感やリズム感は個性としての言語能力に負うところが大きいように感じる。
コメント (11)
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