Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

とても攻撃的な話題

2008-12-19 | 雑感
人はなぜ根源的な事に言及されるとそれを攻撃的と感じるのだろう。その顕著な例が、思想的な学問であり、宗教的な話題に違いない。当然の事ながら自然科学も何一つ変わらないのだが、その遥かな抽象性にまで迫れる学徒が少ないだけなのである。

その点から一年前にフンボルト大学で行なわれた最高裁判事ウド・ディ・ファビオの講演会とそこでの社会民主党の法務大臣ツィプリース女史の発言は、ショイブレ内務大臣などが奨めようとしたキリスト教に優先権を与えるドイツの基本文化政策議論や続発したイスラム問題に答えるのみならず、ハーグの国際裁判所のあり方やEU連邦への論議への一つの道筋を示す非常に 攻 撃 的 な話題となっている。

有り体に言えば政教分離について法的な考え方を俎上に上げている。先頃、その一連の内容が書籍化されたようなのでそれを書評として読んでみた。

ドイツ連邦の政教分離は、個人的な感覚からすればフランスのそれには遥かに及ばず、また英国の王室の元での自由に比較すると些か窮屈な感じが強い。そこで、英国事情を観察するためチャールズ皇太子の考え方が引用されていて、必ずしもDEFENDER OF FAITHにもともとのラテン語から冠詞がついていない事から、ポストモダーンの融合主義を採ってプロテスタント聖公会の王室の元に護られるヒンズーやイスラムどころか無神論者の保護 ― ダーウィンのようにドーキンス博士は公職追放されていない ― を打ち出したその意味合いと、同時に対カトリック教会である英国の基本存在意義をそこに改めて確認する。

更に歴史的にみるその王権の肯定性を除外出来ない残滓として、世継ぎとして継承され選ばれざる存在が、広く忠実な臣下を保護するのである。何を保護するかというと、それは「信仰の自由」と呼ばれる「お互いに制限することない共存」を、国が市民の信仰を尊重して実現する契約なのである。

こうして王位そのものが、特に現代において変化と改革が求められる政治の無常性に対応する教会によって執り行われるとどのつまり個人の問題である恒常性へと補われる「希望」が、その象徴的に偶然の祝福に保障されて、監視し体現しているのであろう。

つまり、その肯定性は、初期近代のそれとは異なり、もはやその無効性では無いと言うのだ。つまり、チャールズは、国内のモスリムにもヒンズーにもましてや無宗教者にも変わり隔て無く、大司教から授かったその王権によって信教上の庇護を与える。

そうした名誉職(パトロン)的な立場の上院における宗教者は、だから聖公会としての派閥を代弁しているのではなく、バイオポリティックな議論において、黄泉の文化的相違を示す具象化した体をなしている。

そこで労働党のトニー・ブレアー首相が採った教育政策上の配慮や自らの退陣後のカソリックへの改宗が顧みられるとき、その機構化した伝統の後遺症が脈略ない転向の形としてレトーリックとして受け取られたのは、開かれた民主主義として至極当然だったのだと言う。

ドイツ連邦共和国へと目を移す前にもう一度、理想的とも思える政教分離をなしているフランスの例を挙げると、伝統と機構に抗する総てを明らかにする啓蒙思想のパイオニアとしてのそれに対して、エドモンド・バークを引用しながら、「フランス人の失われた騎士道精神は、嘗ての国の誇りであり、モラルの前提に有ったもので、封建的なエトースは市民社会に受け継がれ、それが国の力となった」と、反照されない啓蒙主義思想が国のイデオロギーとして採択される危険性をそこに見ている。

余談ながら、リベラルに他ならないオバマ次期大統領が、死刑の是非や自らの宗教心についてのコメントに一流の法律家としてのその緻密な配慮とレトリックが、なにも極端に前任者と比較する必要もなく、そこに見えると思うのは強ち間違いではなかろう。

また英国との対比ではオランダのあまりに信仰告白における誤った寛容が、共存を危うくして座礁し掛かっていことに誰も疑いを抱かない。(続く



参照:
政教分離に無頓着なドイツ人 (クラシックおっかけ日記)
サルが人間にならない日
イスラームと西洋 (かわうそ亭)
国家による失業、貧困からの解放 (作雨作晴)
新自由主義的「司法改革(法科大学院・裁判員制度等)」による司法 (『toxandoria の日記、アートと社会』)
LGBTクラブとお別れ・・・ (虹コンのサウダージ日記)
ついでに。 (たるブログ)
コメント (4)
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