ボッティチェッリは、それほど興味がなかったのである。おそらくヴィーナスなどは何処かで見ているのだが、それ以上の印象がない。寧ろメディチィ家肖像画の方が印象深い。そのような訳で、最初の間に入った時は、人込みもあり、適当にそれらの肖像をみるとあまりにも決まりきった構図が大変気になった。殆ど、身分証明書となるバイオメトリックなテロ犯罪防止の写真と同じなのである。しかし、二階から戻ってきて空いた部屋でそれらを観察すると、どうしても女性の絵は15世紀のパロウイオロの描いたフィレンツェの貴族の女性を思い出してしまう。丁度その兄弟の描いた背景に青空などがしばしば見られる構造も全く同じで、なぜか左顔が描かれている。その理由は知らないが、そうした基本情報を持って改めて有名な暗殺されたメディチの兄弟ジュリアーノの没後のポートレートなどを見ると驚かされる。
なによりも、窓枠を使った構造であり、それが室内と天との構造的繋がりを明確にしているかと思えば、他の若い少年のそれなどは胸像の前にもう一つ窓枠を絵がいて少年を殆ど厚さ十五センチほどの空間に押し込んでいる。光の方向や影のつけ方などもそうなると大変気になるのだが、この画家が敢えて遠近などの技術を軽く見るかのように、そこで表現しようとしている手練手管が気になってくるのである。一通り見たあとでこれに気がつくと、なるほど少年の胸元の厚さや薄さ、もちろん女性の乳房の描き方など、ヴィーナス像などよりもそこに強調が多く含まれているのが分かる。
しかしそこで何かが暗示されていたり暗喩されていたとしても、決してクラナッハのニンフ像などとは一線を隔している。なにが最も異なるかと言えば、クラナッハのそれはプロテスタンティズムそのもの言語化がそこに横たわっているだけに、こうした芸術の言語化出来ないものが殆どないのである。その分、こうした芸術を ― なにからも煩わされることなく ― 気持ちよく鑑賞出来るかというとそれは違う。むしろそうした説明しかねる要素こそが、この21世紀の人々を苛々させる原因なのである。
例えば窓枠構造にしてもメディチ家の依頼で戸口の上に吊るすための実際的な楽しみなのか、芸術的な遊びなのか ― これは全盛期の芸術家が環境を取り入れる方法として、もしくは茶室の潜り的な効果にも通じる ― 、それとも前世紀の舞台芸術家が盛んにやったように「力の枠に嵌める込む」意図のためか、それとも19世紀の芸術家が好んだように「枠の中の枠構造(絵の中の鏡効果)」を表現したいのかなど、なんとでも理屈は捏ねられるのである。理屈の数だけパラメーターが存在すれば一対一の対象関係となって二項対立の枠組みは壊れない。如何に現代人がこうした構造主義的な思考に馴らされているかである。さらに、教養を抜きに、こうした教育を突き進めたのが現在の大衆教育の弊害となっている。
それでは、横を見ると飾ってあるニンフとされる貴族の純潔な少女 ― 実際にはジュリアーノの早死にした妻シモネッタ・ヴェスプッチがモデルとされる ― が自らの左の乳房を握り、乳を弾き飛ばす情景に我々はやはり穏やかではないのである。赤ん坊が欠けているだけで、それはまさに自慰するかのようでもあり、兎に角見るものを落ち着かなくさせる。それはアレゴリーの表現なのか、それともマリア像のための準備として見るのか、それは分からない。
同じように、古代のユーディットが描かれる一連の作品では、そうした緊張関係が更に他なるヴェクトルとして働いているのを知るだろう。それはややもすると、ミトスとか呼ばれる様々な時制の交差ともなって表徴される。そしてこれらを「多義的」と訳してしまうとやはり異なるのである。
このように順を追って見てくると、フォレンツェの守護聖人ゼノビウスの軌跡を時制をもった続き絵とする技法のみならず、晩年の宗教画化してくる作風が気になる。丁度社会的に、メディチ家からジロラモ・サヴォナローラへ政治権力が移り、更には教皇を脅かす権力構造をつけ、その危険極まりない権力者が最終的には火炙りで処刑されたあと、この画家は急に作風を変えて行ったと言われている。そこには直截な主観的な息吹きのようなものが感じられて、明らかに環境が変わって行った記録がそこに残っているのである。
しかし最後にはそこに集まるお客さんの反応やひそひそ話までが気になってくる。貴族の妖精の髪型や首飾りなどをみて、東京で話題となっている連続殺人が疑われている結婚詐欺女性のBLOGの写真をそこに重ねて鑑賞している人が居たって全く構わないのである。
参照:
印象深い精神器質像 2009-11-20 | 雑感
トンカツで流感感染に備える 2009-11-21 | 生活
用心深い行為に隠されたもの 2009-11-08 | 文化一般
旨味へと関心が移る展開 2009-11-07 | 文学・思想
民族の形而上での征圧 2007-12-02 | 文学・思想
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
モデュール構成の二百年 2008-01-19 | 文化一般
肉体に意識を与えるとは 2007-12-16 | マスメディア批評
花園に包まれていたい 2008-03-04 | ワイン
可憐なサクランボ (新・緑家のリースリング日記)
ボージョレ ヌーヴォーの「うんちく」!の巻 (Weiβwein Blog)
なによりも、窓枠を使った構造であり、それが室内と天との構造的繋がりを明確にしているかと思えば、他の若い少年のそれなどは胸像の前にもう一つ窓枠を絵がいて少年を殆ど厚さ十五センチほどの空間に押し込んでいる。光の方向や影のつけ方などもそうなると大変気になるのだが、この画家が敢えて遠近などの技術を軽く見るかのように、そこで表現しようとしている手練手管が気になってくるのである。一通り見たあとでこれに気がつくと、なるほど少年の胸元の厚さや薄さ、もちろん女性の乳房の描き方など、ヴィーナス像などよりもそこに強調が多く含まれているのが分かる。
しかしそこで何かが暗示されていたり暗喩されていたとしても、決してクラナッハのニンフ像などとは一線を隔している。なにが最も異なるかと言えば、クラナッハのそれはプロテスタンティズムそのもの言語化がそこに横たわっているだけに、こうした芸術の言語化出来ないものが殆どないのである。その分、こうした芸術を ― なにからも煩わされることなく ― 気持ちよく鑑賞出来るかというとそれは違う。むしろそうした説明しかねる要素こそが、この21世紀の人々を苛々させる原因なのである。
例えば窓枠構造にしてもメディチ家の依頼で戸口の上に吊るすための実際的な楽しみなのか、芸術的な遊びなのか ― これは全盛期の芸術家が環境を取り入れる方法として、もしくは茶室の潜り的な効果にも通じる ― 、それとも前世紀の舞台芸術家が盛んにやったように「力の枠に嵌める込む」意図のためか、それとも19世紀の芸術家が好んだように「枠の中の枠構造(絵の中の鏡効果)」を表現したいのかなど、なんとでも理屈は捏ねられるのである。理屈の数だけパラメーターが存在すれば一対一の対象関係となって二項対立の枠組みは壊れない。如何に現代人がこうした構造主義的な思考に馴らされているかである。さらに、教養を抜きに、こうした教育を突き進めたのが現在の大衆教育の弊害となっている。
それでは、横を見ると飾ってあるニンフとされる貴族の純潔な少女 ― 実際にはジュリアーノの早死にした妻シモネッタ・ヴェスプッチがモデルとされる ― が自らの左の乳房を握り、乳を弾き飛ばす情景に我々はやはり穏やかではないのである。赤ん坊が欠けているだけで、それはまさに自慰するかのようでもあり、兎に角見るものを落ち着かなくさせる。それはアレゴリーの表現なのか、それともマリア像のための準備として見るのか、それは分からない。
同じように、古代のユーディットが描かれる一連の作品では、そうした緊張関係が更に他なるヴェクトルとして働いているのを知るだろう。それはややもすると、ミトスとか呼ばれる様々な時制の交差ともなって表徴される。そしてこれらを「多義的」と訳してしまうとやはり異なるのである。
このように順を追って見てくると、フォレンツェの守護聖人ゼノビウスの軌跡を時制をもった続き絵とする技法のみならず、晩年の宗教画化してくる作風が気になる。丁度社会的に、メディチ家からジロラモ・サヴォナローラへ政治権力が移り、更には教皇を脅かす権力構造をつけ、その危険極まりない権力者が最終的には火炙りで処刑されたあと、この画家は急に作風を変えて行ったと言われている。そこには直截な主観的な息吹きのようなものが感じられて、明らかに環境が変わって行った記録がそこに残っているのである。
しかし最後にはそこに集まるお客さんの反応やひそひそ話までが気になってくる。貴族の妖精の髪型や首飾りなどをみて、東京で話題となっている連続殺人が疑われている結婚詐欺女性のBLOGの写真をそこに重ねて鑑賞している人が居たって全く構わないのである。
参照:
印象深い精神器質像 2009-11-20 | 雑感
トンカツで流感感染に備える 2009-11-21 | 生活
用心深い行為に隠されたもの 2009-11-08 | 文化一般
旨味へと関心が移る展開 2009-11-07 | 文学・思想
民族の形而上での征圧 2007-12-02 | 文学・思想
改革に釣合う平板な色気 2008-01-18 | マスメディア批評
モデュール構成の二百年 2008-01-19 | 文化一般
肉体に意識を与えるとは 2007-12-16 | マスメディア批評
花園に包まれていたい 2008-03-04 | ワイン
可憐なサクランボ (新・緑家のリースリング日記)
ボージョレ ヌーヴォーの「うんちく」!の巻 (Weiβwein Blog)