Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

批判精神無しに何を語っても

2010-06-04 | SNS・BLOG研究
マルティン・ハイデカーは、1935年11月13日にフライブルクで翌年1月にはチューリッヒの大学で、「芸術作品の源泉」と題して、また「杣道」と題して1936年11月と12月にフランクフルトのゲーテハウスにて講演した導入に、次ぎのようなことを語っている。

芸術作品の源泉は、芸術家の行ないから生じるが、その芸術家はどうやって、どこからそれを導くか?その作品によって、芸術家は褒め称えられ、その作品によって芸術の親方として芸術が生じる。芸術家は作品の源泉であり、作品は芸術家の源泉である。そして、芸術によって芸術家と作品の不可分な存在が生じていることを述べている。

鶏が先か卵が先かの議論であるが、ここから多くの本質的な事柄が、存在論として論じられる。19世紀のドイツ理想主義とニッチェやキルケゴールの批判を通して、実存主義と新カント主義の勃興の中での哲学と説明される。

今週は共通の話題を扱っているBLOGも多く、流石に昨今流行りのツィッターでは述べきれない興味深い文章が多いので、久しぶりにBLOG研究を試みよう。先ずは、鳩山総理辞職を扱ったBLOG「雨をかわす踊り」から「No Progress」を読む。「相変わらず一億総批評家の国で、政治が変わるのは、政治家が変わることではないことが依然としてわからぬらしい。」と、「聞く耳を持たなくなった」とされる主体を批判する。

BLOG「妄想的音楽鑑賞とお天気写真」の「鳩山退陣に思う」には、「だから、なんであの時民主党に大勝をさせてしまったのか、私たちはよく反省をしないといけないのです。マスコミではないのです、マスコミのニュースをみてそういうところばかり喜ぶ私たちが反省すべきだと思うのです。」と明確に政治主体者の立場を批判して、「不気味なのが新聞もテレビも一斉に鳩山批判をしていると言うこと。これもおかしいでしょう。」とその商業ジャーナリズムの一面を容赦なく切り込む。

BLOG「アド ルノ的」の「ユキオ・ハトヤマの政権投げ出し」には、「欺瞞的な社民党のミズホ・フクシマ。ヒロインきどりでテレビ局をはしごして」と、その商業ジャーナリズムが喜ぶように振舞う政治家の姿と、それによって動かされる主体の危うさが語られる。

それとは反対に、一貫してその主体に「主権を渡すと日本が崩壊するという国家危機意識」が存在して、その第四の権力を標榜するマスメディアが本来なすべき「(エスタブリッシュ層である)パトロン自身を、倫理的・文化的・歴史的・論理的・客観的・実証的な意味での多様なレトリックの創意工夫とその駆使によって厳しく批判するとともに、彼らに<人間社会の真理の所在>を気づかせるように仕向けるのがジャーナリズムの役割」を果していないと、同じくエスタブリッシュ層である鳩山政権、特にまるでヒットラーの「我が闘争」を実践しているかのような小沢何某を「推定有罪」にしたと責めるのが、BLOG「toxandoriaの日記、アートと社会」の記事『推定有罪』で第一発見者・鳩山が退場宣告された『普天間移設に絡む』である。

これら様々な意見に共通しているのはジャーナリズムであり批判精神のあり方であろう。当然のことながらその批判精神の基礎となる前提である思考法が問題となっている。その欠如が、日本の二大政党制への信仰であり、それによって大衆低俗ジャーナリズムが経済的基礎を保とうとしたのであるが、それは同時にエスタブリッシュメント層を保持する理念の無い保守思想と理想主義がない混じりになった思考態度でしかないのである。

あまりに「主体思想」の話題のようになってしまったので目先を変えよう。先日から職人の技とその作品の成果として、ドイツのリースリングが大変に話題となった。まさにそこには、保守的な考え方である伝統と、その土台に立って何をなして行くべきか、もしくは何を批判していかなければいけないか、もしくはその審議眼と呼ばれるものが、本来あるべき玄人やジャーナリズムの本望であることが話題となった。

冒頭の哲学者の考察の取っ掛かりをそこに当てはめると、対象となるものは醸造されて出来上がったワインであり、そこに匠や親方がいて、出来上がったワインは只の嗜好品以上に殆ど芸術作品のように扱われて市場で評価されることもある。そして、そうした匠の技はやはり原料である自然の素材如何によってその真価を発揮することとなるのである。

そこには、素材があり、伝統という歴史があり、技がある。そして、遺伝子工学的に改良され、科学技術的に解析され、汎用技術化した工業生産の複製品が市場を駆逐している。しかし、本来は農業であり、工業化とは相容れない営みがあるからこそ、それだけの付加価値が伴うのである。

匠のなせる業は素材ゆえでもあり、素材ははじめて技によって価値を獲得する。それでは我々は何を対象とすれば良いのだろうか?こうした基礎的な考察無しに何を語っても始らない。それでもなにかを語るのはそこに商業があるからだけなのである。それを商業ジャーナリズムと呼ぶ。



参照:
高等文化のシンクタンク 2009-12-02 | 文学・思想
印象深い精神器質像 2009-11-20 | 雑感
退屈凌ぎに将来への新たな一歩 2010-05-31 | 試飲百景
閉塞のドイツワイン (モーゼルだより)
突っ込みどころ満載のヒネた1本
やはり経年変化の少ない酒質 (新・緑家のリースリング日記)
天才肌のワイン職人 (ドイツワインがいっぱいのブログ)
デュ ルクハイム (a diary of sociology)
コメント (2)
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