世界屈指の企業の開発担当部署から質問を受けた。連邦共和国の再生可能エネルギー推進法についての詳細に関してである。所謂レギュレーションに関する問い合わせである。
エンジニアリング関係者なら敢えて繰り返すまでもないが、どのようにレギュレーションが設定されているかなどを考えるだけでよいのである。要するに数値的な設定などは後付けでしかない。実はそうしたこともNOx値を扱っているエンジニアーから習ったことであるが、消費者や市場はそのようなことを考えることもあまりないので、規制値とか標準値をそうした値と悪戦苦闘する現場の人間よりも真面目にそうしたデジタルな情報として受け取るのである。
今回の問い合わせの件も、今後の技術発展と共に市場の動向などを見ながら巧妙に設置されているもので、そこでのエンジニアリングにおける奮闘への期待を立法の精神としているのが見て取れる。それだけ、技術の発展や市場での自由競争を文化経済の活力として活かすためには、立法もしくは政治が重要であると言うことでもある。将来を左右する分野であるからこそ、EUが世界に率先して物事を進める原動力となっていて、それがEUの基本理念となっていると言っても過言ではなかろう。
しかし今回の問い合わせでより以上に感じたのは、こうした隔された構造とも思われる世界のシステムが、市場でのエンドユーザーである一般消費者にとって、そうした問い合わせをした世界的な開発部門のエンジニアーよりも技術的に逐一熟知されているような状況である。つまり、消費者保護やその他の技術的なアナログな解説や紹介によって、巷の消費者である連邦共和国のおばさん達の方が、例えば極東の専門家よりもそのシステムの内情を知っていると言う現実である。
ここまで進むといろいろと思い浮かぶだろう。消費者教育と言う言葉が存在するかどうか知らないが、その意味は情報の透明性と伝達でしかなく、専門家と呼ばれる層やジャーナリズムがこうした世界のシステムを如何に皆に解き明かして見せるかでしかないのである。そもそも基準値とかそれから星二つとかは目安でしかなくて、そうした「目安」の裏側に隠されている状況をもそっくりと消費者が知ることで初めて成熟した市場や社会が発生するのである。その基本には自由な発言や議論の出来る社会が欠かせないのは言うまでもない。自由な市場や社会とは、そうした規制当局と市民の情報の共有が存在することが前提となる ― そこにロビー活動への視線も欠かせない。
今回の質問の内容の核心には、実測値と表示値の相違があったのだが、表示された値はそもそもそのように提示されることが許されていて、決して不当表示とかそうしたものではないのである。またここで、極東の島国では、僅かな表示の相違を以って大きな稼ぎをしようとする偽装詐欺事件と言うのが頻発して、まさしく今も盛んにそれが繰り返されているのを思い浮かべるのである。もちろん表示やトレーサビリティーが市場の信頼性と正当な競争を保証することには間違いないが、少なくともここまで思考してくれば、必ずしもそれが必要十分条件ではないことは理解されるに違いない。それどころか、そうした「目安」が未成熟な市場においては不正競争の温床となっているのである。
まさしく、放射能の汚染値を巡って、安全とか安全ではないとか言うのも全く同じ現象であって、ジャーナリズムはそうした数字を超えたとか超えないとかを報道するのではなく、そうした基準値を取り巻く状況を透視的に広く伝達することで、たとえ環境が如何に汚されても健全な文化的な社会を護るのが使命であるべきなのだ。
参照:
日本社会の民主化に向けて 2011-10-11 | マスメディア批評
点在する首都圏の熱いスポット 2011-10-13 | アウトドーア・環境
エンジニアリング関係者なら敢えて繰り返すまでもないが、どのようにレギュレーションが設定されているかなどを考えるだけでよいのである。要するに数値的な設定などは後付けでしかない。実はそうしたこともNOx値を扱っているエンジニアーから習ったことであるが、消費者や市場はそのようなことを考えることもあまりないので、規制値とか標準値をそうした値と悪戦苦闘する現場の人間よりも真面目にそうしたデジタルな情報として受け取るのである。
今回の問い合わせの件も、今後の技術発展と共に市場の動向などを見ながら巧妙に設置されているもので、そこでのエンジニアリングにおける奮闘への期待を立法の精神としているのが見て取れる。それだけ、技術の発展や市場での自由競争を文化経済の活力として活かすためには、立法もしくは政治が重要であると言うことでもある。将来を左右する分野であるからこそ、EUが世界に率先して物事を進める原動力となっていて、それがEUの基本理念となっていると言っても過言ではなかろう。
しかし今回の問い合わせでより以上に感じたのは、こうした隔された構造とも思われる世界のシステムが、市場でのエンドユーザーである一般消費者にとって、そうした問い合わせをした世界的な開発部門のエンジニアーよりも技術的に逐一熟知されているような状況である。つまり、消費者保護やその他の技術的なアナログな解説や紹介によって、巷の消費者である連邦共和国のおばさん達の方が、例えば極東の専門家よりもそのシステムの内情を知っていると言う現実である。
ここまで進むといろいろと思い浮かぶだろう。消費者教育と言う言葉が存在するかどうか知らないが、その意味は情報の透明性と伝達でしかなく、専門家と呼ばれる層やジャーナリズムがこうした世界のシステムを如何に皆に解き明かして見せるかでしかないのである。そもそも基準値とかそれから星二つとかは目安でしかなくて、そうした「目安」の裏側に隠されている状況をもそっくりと消費者が知ることで初めて成熟した市場や社会が発生するのである。その基本には自由な発言や議論の出来る社会が欠かせないのは言うまでもない。自由な市場や社会とは、そうした規制当局と市民の情報の共有が存在することが前提となる ― そこにロビー活動への視線も欠かせない。
今回の質問の内容の核心には、実測値と表示値の相違があったのだが、表示された値はそもそもそのように提示されることが許されていて、決して不当表示とかそうしたものではないのである。またここで、極東の島国では、僅かな表示の相違を以って大きな稼ぎをしようとする偽装詐欺事件と言うのが頻発して、まさしく今も盛んにそれが繰り返されているのを思い浮かべるのである。もちろん表示やトレーサビリティーが市場の信頼性と正当な競争を保証することには間違いないが、少なくともここまで思考してくれば、必ずしもそれが必要十分条件ではないことは理解されるに違いない。それどころか、そうした「目安」が未成熟な市場においては不正競争の温床となっているのである。
まさしく、放射能の汚染値を巡って、安全とか安全ではないとか言うのも全く同じ現象であって、ジャーナリズムはそうした数字を超えたとか超えないとかを報道するのではなく、そうした基準値を取り巻く状況を透視的に広く伝達することで、たとえ環境が如何に汚されても健全な文化的な社会を護るのが使命であるべきなのだ。
参照:
日本社会の民主化に向けて 2011-10-11 | マスメディア批評
点在する首都圏の熱いスポット 2011-10-13 | アウトドーア・環境