木曜日は漸く涼しくなったので走った。月曜日に辛い感じがしたが、再び峠まで走った。最近は倦怠感と言うか体調が優れないのだ、週に二回も峠まで走りあがってしまうような事はあまり無かったことである。週末も峠まで上がればこれまでに無いほどの走り量になる。
峠で3392歩22分は、ゆっくりと走り始めた割には悪くない。そこまでの予想はしなかったのだが、降りてきて5725歩37分で。大汗を掻いた。摂氏20度であった。
前回の月曜日、下降路の後半の角を曲がるときに意識が無くなっていたのだが、そのことを思い出しているうちに、今回もふと気が付くと何処を走っているのか分らなくなった。前回の記憶があるので、駐車場に近づく最後の坂と勘違いしながら水平路を走った。その時、足元を調べて傾斜を調べたのにそのように思い込んだので、意識上では五分以上のタイムトリップがあったと勘違いした。そこでゴールスパートかと思うと足元の柔らかさや状態が違うのに気が付いて、何処に居るのかがゆっくりと理解できて来た。結局完全にタイムトリップしていたのはとても短い時間だったのだ。
その水平路は、木立を抜ける光も足元と同じように柔らかくて、気を抜いて走れるところなり、まるでパラダイスを彷徨っているような気持ちになる。気温のためか、なにかホルモンの影響かは分らないが、今年になって初めて経験するランニング中のニルヴァナ現象である。
しかし所謂ランニングハイのそれではなくて、寧ろ血が頭から引いたような状態であるのが異なっているのだ。足元は比較的確りしているのだが、考え事をしたりしていて、全く外界から隔離されたような状態になっているのだ。気が付いたらゴールだと思ったら、月曜日に気を失っていた曲がり角に差し掛かった。
最近の倦怠感・無力感とこの意識喪失に関係があるのだろうか?心臓に問題があるとすれば、筋肉やら肩の痛みなどの理由になるだろうか?スポーツ能力が上昇している一方で、少し難しいような気がする。ありえるのは体幹を中心に筋肉が増強されている筈なので、そのために心臓に負担が掛かってきている可能性は無いことも無いだろう。
意識とその基準点の認知からトポロジー分析して、カタストロフの構造を研究した本を読んだのは十三歳の時だった。勿論それはデジャヴの分析であったのだが、そうしたデジャヴ感覚は認知の発達に伴って低年齢でもよく経験する感覚であるのだろう。しかし今回の感覚は、今まで経験したことが無いものである。なるほど木曜日のその場所に来る前に月曜日のトラップを前もって防ごうとしてそれを追想する内にトラップしてしまったのだ。デジャヴとの違いは、その経験の瞬間の時点での時の座標認識と、経験以前に先の時を繰り返して仮想経験としてしまって、座標認識を失ってしまうことだろうか。
要するに、意識を失っているときに、勿論未来は経験できないので、脳内で過去の経験を呼び起こしてしまうことからの錯覚といえるもので、丁度デジャヴとは反対の現象になるのだろう。
参照:
Mens sana in corpore sano 2004-12-31 | 数学・自然科学
記憶にも存在しない未知 2007-05-27 | 文化一般
力の抜けない未知の領域 2011-12-15 | 生活
峠で3392歩22分は、ゆっくりと走り始めた割には悪くない。そこまでの予想はしなかったのだが、降りてきて5725歩37分で。大汗を掻いた。摂氏20度であった。
前回の月曜日、下降路の後半の角を曲がるときに意識が無くなっていたのだが、そのことを思い出しているうちに、今回もふと気が付くと何処を走っているのか分らなくなった。前回の記憶があるので、駐車場に近づく最後の坂と勘違いしながら水平路を走った。その時、足元を調べて傾斜を調べたのにそのように思い込んだので、意識上では五分以上のタイムトリップがあったと勘違いした。そこでゴールスパートかと思うと足元の柔らかさや状態が違うのに気が付いて、何処に居るのかがゆっくりと理解できて来た。結局完全にタイムトリップしていたのはとても短い時間だったのだ。
その水平路は、木立を抜ける光も足元と同じように柔らかくて、気を抜いて走れるところなり、まるでパラダイスを彷徨っているような気持ちになる。気温のためか、なにかホルモンの影響かは分らないが、今年になって初めて経験するランニング中のニルヴァナ現象である。
しかし所謂ランニングハイのそれではなくて、寧ろ血が頭から引いたような状態であるのが異なっているのだ。足元は比較的確りしているのだが、考え事をしたりしていて、全く外界から隔離されたような状態になっているのだ。気が付いたらゴールだと思ったら、月曜日に気を失っていた曲がり角に差し掛かった。
最近の倦怠感・無力感とこの意識喪失に関係があるのだろうか?心臓に問題があるとすれば、筋肉やら肩の痛みなどの理由になるだろうか?スポーツ能力が上昇している一方で、少し難しいような気がする。ありえるのは体幹を中心に筋肉が増強されている筈なので、そのために心臓に負担が掛かってきている可能性は無いことも無いだろう。
意識とその基準点の認知からトポロジー分析して、カタストロフの構造を研究した本を読んだのは十三歳の時だった。勿論それはデジャヴの分析であったのだが、そうしたデジャヴ感覚は認知の発達に伴って低年齢でもよく経験する感覚であるのだろう。しかし今回の感覚は、今まで経験したことが無いものである。なるほど木曜日のその場所に来る前に月曜日のトラップを前もって防ごうとしてそれを追想する内にトラップしてしまったのだ。デジャヴとの違いは、その経験の瞬間の時点での時の座標認識と、経験以前に先の時を繰り返して仮想経験としてしまって、座標認識を失ってしまうことだろうか。
要するに、意識を失っているときに、勿論未来は経験できないので、脳内で過去の経験を呼び起こしてしまうことからの錯覚といえるもので、丁度デジャヴとは反対の現象になるのだろう。
参照:
Mens sana in corpore sano 2004-12-31 | 数学・自然科学
記憶にも存在しない未知 2007-05-27 | 文化一般
力の抜けない未知の領域 2011-12-15 | 生活