OSアンドロイドを弄るには至っていない。だからそのシステムについてまだ十分に把握できていないが、それでもタブレットを使い出して、使用前に感じていた印象とは幾つか違う面を感じるようになってきた。
使用前の印象は、キーボードも無く、画面も小さく、仕事をするにはあまりにも中途半端でありながら、手軽に持ち運べることから、アイフォンでは不都合な提示などのプレゼンテーションなどの機能性のある端末機器としての存在価値といったところだった。
その印象は大分違っていた。なによりもノートブックではありえない操作感や使い道が拓く光景が予想外であったのだ。例えば、WEBCAMなどが中継されているUストリームを開くと、世界中のそれが上から下までヒラルヒー無しに並んでいるのである。使用言語やGPSの情報によってアルゴリズムが作用していることでそのプログラムを感じさせるのも面白い。
なるほど通常のホームページでもそうしたものが並んでいるサイトはあるのだが、ページを捲ると言う作業、つまりウィンドーズのデーターシステムではないが、そうしたヒラルヒーの存在は否定できない。それが伊丹空港の管制の声が流れる管制塔からの光景から、夜中の密林の獣の鳴き声までが一緒に並んで、けたたましい騒音を上げる博多駅前のセミの鳴き声の通勤風景などが、これまた「スタートレック」のオリジナル音声でのDVD放映などと並んでいるのだ。
だからと言って、タブレットでの世界が決して個人主義的な世界ではなくて、むしろクラウドを代表とするような情報の集中とその傘下にある無名性の世界が其処に広がっているのである。要するにタブレットの世界にはプライヴァシーというようなものが存在しない。その点、如何にノートブックの世界は如何に個人的であるかが分る。
そこでは、明確な目的を持った検索と情報の収集があって、反対にタブレットでは集中した情報の洪水の中で瞬時の判断で情報を選択していく決断に迫られる。社会生活において、前者よりも後者が重要視されるその能力である。それはクリックの操作感ではなくて、指の動きの感覚的な選択として行われる。
ノートブックではあまり経験しなかった、例えば動画の一部拡大などは、明らかに新しい映像表現の契機であり、アイフォンなどでは便利上使われている機能が可也表現などに与える影響が大きいとも感じた。ペーパーホワイトほどではなくても文字を読むのに手に持って見易い角度で読めるのはやはりノートブックでは不可能なのだ。
先週東京で若い学生を教えている人が、「最近のコミュニケーション」に言及して、本来は科学技術で広いがるはずのそれが、むしろ狭い世界に閉じ篭る傾向があるというのである。そのことと関連するかどうかは分らないが、路上でTV電話を掛けている人を見たことが無い。技術的になんら問題の無い通話方法であるが、殆どの場合は室内などで落ち着いてスカイプなどでなされているようだ。理由は分らないが其処には社会的な影響と言うものが深く関わっていることだけは分る。
昨晩初めて気がついた。キンドルもYOGAも実は、耳にたこが出来るほどネットでCMやっていた。後者に関してはLENOVOしか分らなかったのだが、タブレットの宣伝だったようだ。無意識のうちに消費行動が影響されている広告の鑑のようなものかもしれない。
参照:
飲まず食わずのIT労働 2014-08-25 | 生活
へロー、タブレットと釜 2014-07-27 | 雑感
使用前の印象は、キーボードも無く、画面も小さく、仕事をするにはあまりにも中途半端でありながら、手軽に持ち運べることから、アイフォンでは不都合な提示などのプレゼンテーションなどの機能性のある端末機器としての存在価値といったところだった。
その印象は大分違っていた。なによりもノートブックではありえない操作感や使い道が拓く光景が予想外であったのだ。例えば、WEBCAMなどが中継されているUストリームを開くと、世界中のそれが上から下までヒラルヒー無しに並んでいるのである。使用言語やGPSの情報によってアルゴリズムが作用していることでそのプログラムを感じさせるのも面白い。
なるほど通常のホームページでもそうしたものが並んでいるサイトはあるのだが、ページを捲ると言う作業、つまりウィンドーズのデーターシステムではないが、そうしたヒラルヒーの存在は否定できない。それが伊丹空港の管制の声が流れる管制塔からの光景から、夜中の密林の獣の鳴き声までが一緒に並んで、けたたましい騒音を上げる博多駅前のセミの鳴き声の通勤風景などが、これまた「スタートレック」のオリジナル音声でのDVD放映などと並んでいるのだ。
だからと言って、タブレットでの世界が決して個人主義的な世界ではなくて、むしろクラウドを代表とするような情報の集中とその傘下にある無名性の世界が其処に広がっているのである。要するにタブレットの世界にはプライヴァシーというようなものが存在しない。その点、如何にノートブックの世界は如何に個人的であるかが分る。
そこでは、明確な目的を持った検索と情報の収集があって、反対にタブレットでは集中した情報の洪水の中で瞬時の判断で情報を選択していく決断に迫られる。社会生活において、前者よりも後者が重要視されるその能力である。それはクリックの操作感ではなくて、指の動きの感覚的な選択として行われる。
ノートブックではあまり経験しなかった、例えば動画の一部拡大などは、明らかに新しい映像表現の契機であり、アイフォンなどでは便利上使われている機能が可也表現などに与える影響が大きいとも感じた。ペーパーホワイトほどではなくても文字を読むのに手に持って見易い角度で読めるのはやはりノートブックでは不可能なのだ。
先週東京で若い学生を教えている人が、「最近のコミュニケーション」に言及して、本来は科学技術で広いがるはずのそれが、むしろ狭い世界に閉じ篭る傾向があるというのである。そのことと関連するかどうかは分らないが、路上でTV電話を掛けている人を見たことが無い。技術的になんら問題の無い通話方法であるが、殆どの場合は室内などで落ち着いてスカイプなどでなされているようだ。理由は分らないが其処には社会的な影響と言うものが深く関わっていることだけは分る。
昨晩初めて気がついた。キンドルもYOGAも実は、耳にたこが出来るほどネットでCMやっていた。後者に関してはLENOVOしか分らなかったのだが、タブレットの宣伝だったようだ。無意識のうちに消費行動が影響されている広告の鑑のようなものかもしれない。
参照:
飲まず食わずのIT労働 2014-08-25 | 生活
へロー、タブレットと釜 2014-07-27 | 雑感