(承前)フランケンのスイスから「ヴァルキューレ」のためにバイロイトに向かう。途上、昼食を摂る場所を探した。我々からするととても田舎なので ― 夜更けに帰る時に恐怖感を覚えるほど誰も居ない空間なのだ ―、適当なところが見つからなかったが、バイロイトが近づく前に街道沿いの廃線になった鉄道脇に涼しそうな場所を見つけた。とは言っても、ビーアガルテンでもなく只の駅前食堂のような所だ。テラスには地元の年寄りや街道を走る車の運ちゃんなどが座っているフランス辺りにありそうな光景で、それはバイエルンとフランスに共通する田舎らしさである。
予想通りメニューには軽食しかなかったが、腹が減っているからと入り口で話していると、厨房の小母さんが「昨日のザウワーブラーテンがあるけど」と言うので喜んでそれにする。いかにもこの手の店らしくまともなものが食せるとは期待しないが、テラスに座っていると、その小母さんが出てきて、団子がまだ残っていると言うのでヌードルにするかどうするかと尋ねてくる。何か残り物ばかりを食わされそうだが、折角のお勧めなので従う。最初はヌードルと思ったが、ジャガイモ団子にした - まだ食していない、まさしくこの地方の名物料理なのだ。
そして出てきたのは、山小屋でも出てくるような感じの普通のそれなのだが、結構ジャガイモ団子が粘っていて餅のようで美味いのだ。喜んで食べるとソースは足りるかとまたお勧めしてくれるが、十分だ。ヴァイセビアーも冷えていて美味い ― ミュンヘンのそれと違ってこの地方は結構ビールを冷やして出している。昔バイロイトの町で飲んだのも冷えていた記憶がある。だがサラダの酢が恐らく麦酢で可也きつく私にしては珍しく残した。
腹いっぱいになって満足していると、小母さんがやってきて、バイロイトのフェスティヴァルの話になる。色々な世間話をしたりしていると、無愛想な爺さんまでが鉄道が廃止になった理由を教えてくれた。テラスにはそこを通過する自転車の観光客などが居ただけで、交通量も少なく本当に長閑な国道沿いなのだ。雷雨が予想されることを話して支払いを済ます。殆どのメニューが3ユーロほどのものなので、もはや我々の地域ではハイキングの途中でも食べられない額の食事である。だからこれだけ食べて13ユーロしか支払わなかった。
その後一時帰宅して、二泊後、最終日の楽劇「神々の黄昏」の前に、同じように終演後の帰宅を考えて食事を考えた。経路は若干違ったのだが土地勘があるので、結局その小母さんのところに行ってみようと思って立ち寄った。「また来たよ」と行くと親爺はいつものように無愛想を決め込んでいて、また厨房に聞こえるように今度は通常の焼きソーセージ二本を注文する。
すると今度はまた小母さんが出てきて、「三本とか四本に出来るけど」と言うのでそうして貰う。更に「ジャガイモつけようか」と尋ねるので有難くそれに従う。私自身旅行でどたばたしているので、最初のときに何を話したか良く覚えていないのだが、終演後に三時間ほど走るので腹拵えをしたいことも話していたようだ。なるほどこの地方の焼腸詰はニュルンベルガーに代表されるように細く長いのだ。これなら二本では足りなかった。さらにジャガイモも焼き目が入っていてとても美味であった。大変満足して十分に10ユーロ支払いをする。これでやっとのこと原材料の三倍の売り上げは上げれただろう。
そして、「月曜日は雷雨が酷かったでしょう」と尋ねるので、記憶があまり定まらないまま「そうそう、ヴァルキューレのときは雨で、外に出られずに、ピクニッックも出来なかった」と話すと、彼女が隣に座るのであまり長話は出来ないと思い「買い物に行かなければ行けない」と言うと、TVで観たというのだ。普段ならばあまり祝祭訪問の人も立ち寄らない場所なので、いつもより関心をもってローカルニュースを観たのだろう。「今日は最終日で、終わったら、また自宅へ戻るんだ」と話すと、「神々の黄昏はいつもよりは長いわね」と言うので、「買物に行く」と立ち上がると、「家に帰ってからの用意ね」とよく分っているのだ。勿論ピクニックの用意でもあるのだ。
ザルツブルクの音楽祭と全く異なるのは、あの町周辺の人たちには観光収入源としての音楽祭であるが、このバイロイト周辺の人には地元の祝祭であることだ。スーパーに出かけても、宿泊地でも可也の距離があるにも拘らずそれらしき客を認めると、訪問客だと直ぐに認知する。その仕方が上の小母さんのそれではないが、巡礼的な意味があって、とは言っても全く宗教とかドグマとはかけ離れたそれが定着しているのに気が付くのである。その通り我々の税金がそこに注入されている訳で、決してエリートの物見遊山であってはならないのである。
ドイツ連邦共和国ほど劇場が林立しているところはない。それがたとえ音楽劇場であろうとなかろうと同じである。そこではミュージカルも公演されるようになっているが、基本は商業演劇として成立しないものが税金を使って公演されている。ヴァークナー音楽祭もその一つと考えて差し支えない。こうした広範な人がティケットを申し込むからなかなか協会員以外には廻ってこないのは当然であろう。
私は、今回の指輪に関しても上の食堂の小母さんがこれを観劇したらどのように感じただろうかと想像してみる。そこがドイツの劇場の基本である。革命家の楽匠が目指したものもそこにあるのだろう。ドイツにはフランスの革命精神はないが、こうして劇場の教養があるのだ。その教養とは、特定のドグマやイデオロギーに洗脳されたり教え込んだりするべきものではない。それはアナーキズムに関しても然り。
フランク・カストルフとキリル・ペトレンコが最後に大喝采を受けたものは、そのようなものだったのだ。全く飽きさせずに、欠けるものの無い指輪の上演。ヴィーラントも為しえなかった余すことのない実現化、ベームの指揮のいつもの無理強いの一貫よりも柔軟に舞台と対話する。要するにここにネガ像として描かれているのは68年に否定された世代であり思潮なのだ。それ以前では、ナチ高官のティーテン演出のものが気になるぐらいで、その他のコジマやヴォルフガンク・ヴァークナー演出、ハリー・クッパーなどが挙がるが、指揮者のクナッパーツブッシュ、ケムペやカイルベルト、ショルティ、マゼールなどは全て想定内である。歴史的観点から、初演、ヴィーラント・ヴァークナーの二度目とパトリス・シェローのものに続いて、今回のカストルフ演出が思い出されるときに必ず舞台美術以上にぺトレンコの指揮が回想されると言う批評は事実であろう。
バイエルンの放送協会は、初日を生放送して、その後も全て録音中継する。来年は録画の可能性も否定できないような状況になってきている ― FAZの文化欄は熱心に指揮者がこの制作から降りることを噂として書き、そうした実現化を否定する。そしてその放送の前宣伝で、カストルフが「専門家は批判するが、子供には理解できるよ」と語る。子供向きではないのは確かなのだが、短い言葉で、「眼鏡を掛けたミーメの企みと学習」の演出ではないが、ここで表現したのはそうしたスノビズムへの挑戦であり、本来の創作も祝祭劇場もそのようなものであったことが分ったのが、今回の一番の成果なのである。
最後に、祝祭劇場の今年から市が集金するようになった駐車場を通る近所の小学生の言葉を書き留める。自転車を漕ぎながら友達二人が話している「祝祭は嫌いだよ」、「だって、みんな、黒い服着ているだろ」。この会話以上に今回の演出の神髄を表わしている感覚は他に見つからない。因みにメルケル首相は最終日には多色の服を合わせてきたそうだ。
ミュンヘンからのネット・ラディオ放送予定:
8月5日 「ヴァルキューレ」
8月12日 「ジークフリート」
8月16日 「神々の黄昏」
参照:
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音
予想通りメニューには軽食しかなかったが、腹が減っているからと入り口で話していると、厨房の小母さんが「昨日のザウワーブラーテンがあるけど」と言うので喜んでそれにする。いかにもこの手の店らしくまともなものが食せるとは期待しないが、テラスに座っていると、その小母さんが出てきて、団子がまだ残っていると言うのでヌードルにするかどうするかと尋ねてくる。何か残り物ばかりを食わされそうだが、折角のお勧めなので従う。最初はヌードルと思ったが、ジャガイモ団子にした - まだ食していない、まさしくこの地方の名物料理なのだ。
そして出てきたのは、山小屋でも出てくるような感じの普通のそれなのだが、結構ジャガイモ団子が粘っていて餅のようで美味いのだ。喜んで食べるとソースは足りるかとまたお勧めしてくれるが、十分だ。ヴァイセビアーも冷えていて美味い ― ミュンヘンのそれと違ってこの地方は結構ビールを冷やして出している。昔バイロイトの町で飲んだのも冷えていた記憶がある。だがサラダの酢が恐らく麦酢で可也きつく私にしては珍しく残した。
腹いっぱいになって満足していると、小母さんがやってきて、バイロイトのフェスティヴァルの話になる。色々な世間話をしたりしていると、無愛想な爺さんまでが鉄道が廃止になった理由を教えてくれた。テラスにはそこを通過する自転車の観光客などが居ただけで、交通量も少なく本当に長閑な国道沿いなのだ。雷雨が予想されることを話して支払いを済ます。殆どのメニューが3ユーロほどのものなので、もはや我々の地域ではハイキングの途中でも食べられない額の食事である。だからこれだけ食べて13ユーロしか支払わなかった。
その後一時帰宅して、二泊後、最終日の楽劇「神々の黄昏」の前に、同じように終演後の帰宅を考えて食事を考えた。経路は若干違ったのだが土地勘があるので、結局その小母さんのところに行ってみようと思って立ち寄った。「また来たよ」と行くと親爺はいつものように無愛想を決め込んでいて、また厨房に聞こえるように今度は通常の焼きソーセージ二本を注文する。
すると今度はまた小母さんが出てきて、「三本とか四本に出来るけど」と言うのでそうして貰う。更に「ジャガイモつけようか」と尋ねるので有難くそれに従う。私自身旅行でどたばたしているので、最初のときに何を話したか良く覚えていないのだが、終演後に三時間ほど走るので腹拵えをしたいことも話していたようだ。なるほどこの地方の焼腸詰はニュルンベルガーに代表されるように細く長いのだ。これなら二本では足りなかった。さらにジャガイモも焼き目が入っていてとても美味であった。大変満足して十分に10ユーロ支払いをする。これでやっとのこと原材料の三倍の売り上げは上げれただろう。
そして、「月曜日は雷雨が酷かったでしょう」と尋ねるので、記憶があまり定まらないまま「そうそう、ヴァルキューレのときは雨で、外に出られずに、ピクニッックも出来なかった」と話すと、彼女が隣に座るのであまり長話は出来ないと思い「買い物に行かなければ行けない」と言うと、TVで観たというのだ。普段ならばあまり祝祭訪問の人も立ち寄らない場所なので、いつもより関心をもってローカルニュースを観たのだろう。「今日は最終日で、終わったら、また自宅へ戻るんだ」と話すと、「神々の黄昏はいつもよりは長いわね」と言うので、「買物に行く」と立ち上がると、「家に帰ってからの用意ね」とよく分っているのだ。勿論ピクニックの用意でもあるのだ。
ザルツブルクの音楽祭と全く異なるのは、あの町周辺の人たちには観光収入源としての音楽祭であるが、このバイロイト周辺の人には地元の祝祭であることだ。スーパーに出かけても、宿泊地でも可也の距離があるにも拘らずそれらしき客を認めると、訪問客だと直ぐに認知する。その仕方が上の小母さんのそれではないが、巡礼的な意味があって、とは言っても全く宗教とかドグマとはかけ離れたそれが定着しているのに気が付くのである。その通り我々の税金がそこに注入されている訳で、決してエリートの物見遊山であってはならないのである。
ドイツ連邦共和国ほど劇場が林立しているところはない。それがたとえ音楽劇場であろうとなかろうと同じである。そこではミュージカルも公演されるようになっているが、基本は商業演劇として成立しないものが税金を使って公演されている。ヴァークナー音楽祭もその一つと考えて差し支えない。こうした広範な人がティケットを申し込むからなかなか協会員以外には廻ってこないのは当然であろう。
私は、今回の指輪に関しても上の食堂の小母さんがこれを観劇したらどのように感じただろうかと想像してみる。そこがドイツの劇場の基本である。革命家の楽匠が目指したものもそこにあるのだろう。ドイツにはフランスの革命精神はないが、こうして劇場の教養があるのだ。その教養とは、特定のドグマやイデオロギーに洗脳されたり教え込んだりするべきものではない。それはアナーキズムに関しても然り。
フランク・カストルフとキリル・ペトレンコが最後に大喝采を受けたものは、そのようなものだったのだ。全く飽きさせずに、欠けるものの無い指輪の上演。ヴィーラントも為しえなかった余すことのない実現化、ベームの指揮のいつもの無理強いの一貫よりも柔軟に舞台と対話する。要するにここにネガ像として描かれているのは68年に否定された世代であり思潮なのだ。それ以前では、ナチ高官のティーテン演出のものが気になるぐらいで、その他のコジマやヴォルフガンク・ヴァークナー演出、ハリー・クッパーなどが挙がるが、指揮者のクナッパーツブッシュ、ケムペやカイルベルト、ショルティ、マゼールなどは全て想定内である。歴史的観点から、初演、ヴィーラント・ヴァークナーの二度目とパトリス・シェローのものに続いて、今回のカストルフ演出が思い出されるときに必ず舞台美術以上にぺトレンコの指揮が回想されると言う批評は事実であろう。
バイエルンの放送協会は、初日を生放送して、その後も全て録音中継する。来年は録画の可能性も否定できないような状況になってきている ― FAZの文化欄は熱心に指揮者がこの制作から降りることを噂として書き、そうした実現化を否定する。そしてその放送の前宣伝で、カストルフが「専門家は批判するが、子供には理解できるよ」と語る。子供向きではないのは確かなのだが、短い言葉で、「眼鏡を掛けたミーメの企みと学習」の演出ではないが、ここで表現したのはそうしたスノビズムへの挑戦であり、本来の創作も祝祭劇場もそのようなものであったことが分ったのが、今回の一番の成果なのである。
最後に、祝祭劇場の今年から市が集金するようになった駐車場を通る近所の小学生の言葉を書き留める。自転車を漕ぎながら友達二人が話している「祝祭は嫌いだよ」、「だって、みんな、黒い服着ているだろ」。この会話以上に今回の演出の神髄を表わしている感覚は他に見つからない。因みにメルケル首相は最終日には多色の服を合わせてきたそうだ。
ミュンヘンからのネット・ラディオ放送予定:
8月5日 「ヴァルキューレ」
8月12日 「ジークフリート」
8月16日 「神々の黄昏」
参照:
私の栄養となる聴き所 2014-07-14 | 音
ヴァークナー熱狂の典型的な例 2014-07-26 | 音
正統なアレクサンダープラッツ 2014-08-02 | 文化一般
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音