ジークフリートに関して何を書くべきか?歌手か、管弦楽か、演出か、それは分からない。久しぶりに、ブーイングとブラボーが同じように聞かれたのは、第二幕かもしれない。どのようなメディアが何を伝えようが、スキャンダルだった。それは、この物語に社会性をもたせたからだ。それは決して社会学のマルキズムではなくてそのもの社会学的な視野が働いたからである。
あまりにも初心で粗暴なジークフルートが、アレクサンダープラッツの森の小娘の性を知ることから、初めてその社会性が生じるのである。その恐らくセックスシーンには、また機関銃をぶっ放すジークフリートには英雄性ではなくて、日本でも頻発しているような少年少女、青年の引き起こす凶悪犯罪の壮絶な光景が浮んでしまうのではないだろうか?
要するに昨今の日本の北野武を代表とするシネマの情景であり、もしくはニューシネマと呼ばれたような時代のハリウッド映画のそれを今ここバイロイトに見るのである。そして今までの流れからするとこの第二夜はとてもインティームなのだ。舞台はここではもはやルート66ではなくて未明のアレクサンダープラッツであり、拾い子を男で一人で育てた小人ミーメの飯場なのである。
技術を学んだミーメは、専門書の山の中 - 普通の森の中ではない - で思案するのは、財宝を如何に入手して権力を得ることができるかであり、育てている怖さ知らずのジークフリートを如何に利用するかで、大いなる野望である。その通り音楽は思案の動機から始まっているのだ。どうしても鍛冶屋の動機などが目立ってしまうのだが、ミーメの演技と管弦楽のそれが見事で、その本質的な内容を素晴らしく提示していた。
FAZはヴァルキューレが終わった時点で、管弦楽は素晴らしいとしても「ラインの黄金」においても深いところが表現出来ていないのではないかと批判をしていたのだが、舞台をしっかりと理解していればその「深さ」とは何だと質問しなければいけない。楽匠の創造の本質を、音楽を理解していないと、こうした批評が出てしまうのではないだろうか?その証拠にこれら楽劇の歌詞や動物たちの登場は荒唐無稽なもので、初演からそれが話題になっていたのだった。しかし、その「てれ」というか、楽屋落ちにつながるようなものは恐らくドイツ劇場文化の特徴で、モーツァルトなどのドイツ歌劇の伝統に則っているのだろう。
第二幕のスキャンダルは、音楽を打ち消してしまうその銃撃音にあるのだろうか、そのヴァイオレンスにも拘わらず機関銃で何発も撃たれながら体が吹き飛ぶこともなく辞世の言葉を残す巨人族の矛盾にあるのだろうか - プログラムを支配している「アイロニー」そのものとなる。こうした矛盾はこの演出にいくつも見られるところであり、矛盾として、そして多くはギャグとしてそのまま提示されているところが味噌なのだ。
第三幕の目覚めは今度はブリュンヒルデに起こるのだ。さすがにそこまで休んでいた歌手は余裕をもって立派な歌唱を披露する。ワニが二頭も出てきて、その口に傘を突っ込まれるに当たっては、まさしく大人のお遊びであり、第一幕での「ブラーテン」をこまめに作り、飯場でみじん切りをするミーメの歌詞やその音楽的な内容に繋がっているのである。それを深いとかいってしまっては、致し方ない、こうした劇場を楽しむ資格はないのだ。全くヴァークナーのそれとは違うことをしているというのが上の新聞批評であるが、事実は全くその反対で、音楽を読み込み歌詞を読み込むと今回のカストルフの演出となるのかもしれない。それに寄り沿うペトレンコの演奏を、ヴィーラント・ヴァークナー演出とカール・ベーム指揮のそれよりも正統的に思えるかどうかだろう。
書き忘れていたが、最もこの夜の情景で印象に残ったのは、ヴァイオレンスでもセックスでもなくて、監視カメラの映像を模したライヴヴィデオ効果だった。それも一連のギャグとしてしまえばそれで終わりだが、我々現代人は、その監視カメラの風景を社会認知にしてしまっているのに気が付いてぎょっとするのだ。それが、アナーキズム的な主張を呼び起こすとかのドグマに奔る以前に、表現することが劇場の仕事であり、それ故に社会が公的に援助する劇場の必要性があるというのは決して否定できないのだ。
参照:
Wagner / SIEGFRIED / Bayreuth - July 30, 2014 von ahperfido
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音
あまりにも初心で粗暴なジークフルートが、アレクサンダープラッツの森の小娘の性を知ることから、初めてその社会性が生じるのである。その恐らくセックスシーンには、また機関銃をぶっ放すジークフリートには英雄性ではなくて、日本でも頻発しているような少年少女、青年の引き起こす凶悪犯罪の壮絶な光景が浮んでしまうのではないだろうか?
要するに昨今の日本の北野武を代表とするシネマの情景であり、もしくはニューシネマと呼ばれたような時代のハリウッド映画のそれを今ここバイロイトに見るのである。そして今までの流れからするとこの第二夜はとてもインティームなのだ。舞台はここではもはやルート66ではなくて未明のアレクサンダープラッツであり、拾い子を男で一人で育てた小人ミーメの飯場なのである。
技術を学んだミーメは、専門書の山の中 - 普通の森の中ではない - で思案するのは、財宝を如何に入手して権力を得ることができるかであり、育てている怖さ知らずのジークフリートを如何に利用するかで、大いなる野望である。その通り音楽は思案の動機から始まっているのだ。どうしても鍛冶屋の動機などが目立ってしまうのだが、ミーメの演技と管弦楽のそれが見事で、その本質的な内容を素晴らしく提示していた。
FAZはヴァルキューレが終わった時点で、管弦楽は素晴らしいとしても「ラインの黄金」においても深いところが表現出来ていないのではないかと批判をしていたのだが、舞台をしっかりと理解していればその「深さ」とは何だと質問しなければいけない。楽匠の創造の本質を、音楽を理解していないと、こうした批評が出てしまうのではないだろうか?その証拠にこれら楽劇の歌詞や動物たちの登場は荒唐無稽なもので、初演からそれが話題になっていたのだった。しかし、その「てれ」というか、楽屋落ちにつながるようなものは恐らくドイツ劇場文化の特徴で、モーツァルトなどのドイツ歌劇の伝統に則っているのだろう。
第二幕のスキャンダルは、音楽を打ち消してしまうその銃撃音にあるのだろうか、そのヴァイオレンスにも拘わらず機関銃で何発も撃たれながら体が吹き飛ぶこともなく辞世の言葉を残す巨人族の矛盾にあるのだろうか - プログラムを支配している「アイロニー」そのものとなる。こうした矛盾はこの演出にいくつも見られるところであり、矛盾として、そして多くはギャグとしてそのまま提示されているところが味噌なのだ。
第三幕の目覚めは今度はブリュンヒルデに起こるのだ。さすがにそこまで休んでいた歌手は余裕をもって立派な歌唱を披露する。ワニが二頭も出てきて、その口に傘を突っ込まれるに当たっては、まさしく大人のお遊びであり、第一幕での「ブラーテン」をこまめに作り、飯場でみじん切りをするミーメの歌詞やその音楽的な内容に繋がっているのである。それを深いとかいってしまっては、致し方ない、こうした劇場を楽しむ資格はないのだ。全くヴァークナーのそれとは違うことをしているというのが上の新聞批評であるが、事実は全くその反対で、音楽を読み込み歌詞を読み込むと今回のカストルフの演出となるのかもしれない。それに寄り沿うペトレンコの演奏を、ヴィーラント・ヴァークナー演出とカール・ベーム指揮のそれよりも正統的に思えるかどうかだろう。
書き忘れていたが、最もこの夜の情景で印象に残ったのは、ヴァイオレンスでもセックスでもなくて、監視カメラの映像を模したライヴヴィデオ効果だった。それも一連のギャグとしてしまえばそれで終わりだが、我々現代人は、その監視カメラの風景を社会認知にしてしまっているのに気が付いてぎょっとするのだ。それが、アナーキズム的な主張を呼び起こすとかのドグマに奔る以前に、表現することが劇場の仕事であり、それ故に社会が公的に援助する劇場の必要性があるというのは決して否定できないのだ。
参照:
Wagner / SIEGFRIED / Bayreuth - July 30, 2014 von ahperfido
石油発掘場のアナ雪の歌 2014-07-30 | 音
やくざでぶよぶよの太もも 2014-07-29 | 音