Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

シュプレッヒコールの響き

2015-10-04 | 
フランクフルトでは夜遅くベートーヴェンの合唱が大きな音で響いていた。あのブランデンブルク門でのそれを意識してのことだろう。当時暮れに態々ブランデンブルクまで駆けつけた人が多くいたが、私は興味が無かった。そしてその暮れはシュヴァルツヴァルトの友人の旅館で過ごしたのだった。再統一を祝う気持ちなどは無く、今でもその気持ちは少し違う。

合唱がEUの賛歌として、そしてこうして使われることにも若干抵抗がある。あまりにもポピュラー化してしまった自由への賛歌であるが、その全曲はそうした名曲化には合わないように考えるからだ。実際に、今まで千夜は越えないかもしれないが生演奏の数々を体験していても、この交響曲を生で体験したことは無いのである。来年の復活祭音楽祭で初体験することになるがそうした交響曲であることは間違いないと思う。

合唱で思い出したが、「シュプレッヒコール」という言葉があり、それは今も良く使われている。まさしく、この合唱のコールとこのコールは同じもので、声を合わせて大きな声にすることが目的だ。同じように先日日比谷で開かれた会にもドラムと旗振りなどがあったが、ここでも初めて近代西洋音楽の原点が漸く日本でも開花しようとしているのが聞こえる。

もちろんそこにも軍楽として西洋近代音楽やスポーツを取り入れていった明治維新政府の政策があったのだが、それは同時に既に大きな意味を持っていた市民革命のそれの衣装が剥されて輸入されたのであった。恐らく日本で第九交響曲が、公会館の制限などを受けることも無く、頻繁にパシフィズムの聖歌として演奏されて、受け入れられている背景がそこにあるのだろう。

楽器などを嗜む者は、やはりそうした原点を忘れては、とっても西洋近代音楽などは演奏できない。兎に角、音を合わせて大きな音を出してアピールすることが目的である。そこが血肉にならないと、繊細な表現なども活きないのだ。日本の西洋文化輸入は、学術を含めて、そうしたところが歪だった事を皆が自覚すべき時が来ている。

YOUTUBEで祐児三輪動画シリーズを観ていると左翼らしき人たちが集まって会議を開いている。特に面白かったのは、1960年代から2000年代までが消滅したようだという考えかたで、その間の管理教育も分析されている。それによると押さえつけられながらも、高度成長から成長が続いていたので、先ずは学校をドロップアウトしようがなにをしようが生きていける時代だったのが、ここに来て幾ら社会に合わせていても生活できなくなってきているという社会事情があるというのだ。すると今までいい子でいれば済んだのが、もはやどうせ駄目ならば言いたいことを言うという状況に変ってきたのだというのである。これはとても興味深い。要するに保守的とされる社会が壊滅したということだろう。

ザールのリースリングを空けた。今度は「ザールリースリング」で、六月に試飲して購入した最後の瓶である。試飲の時から、上位の「アルテレーベン」との差は明らかだった。二年ほど前までは、残糖があまり感じられなかった下位のものにもむしろ肯定的だったが、今は買い付け葡萄で12%とアルコールも高くVDPのグーツリースリングの枠組みに近づいてきている。価格の12ユーロは他の醸造所と比較すると割高だろう。折角手摘みしているのだからもう少し深みが欲しい。



参照:
ドイツ統一に集うところ 2015-10-03 | 暦
星屑の詰め合わせを追加 2015-10-02 | ワイン
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