フランクフルトでのバッハの夕べは予想以上に収穫があった。ラファエル・ピション指揮のフランスのアンサムブル・ピグマリオンは、ドイツバロックそれもドレスデンを取り巻くシュッツからライプツィッヒのバッハへ道を、とても知的なプログラミングで提示した。
シュッツ、そしてその後継ぎクリストフ・ベルンハートのイタリアのマドリガル、オペラからの影響が、ブクステーデそして叔父のヨハン・クリストフ・バッハでの結実へと、プロテスタント音楽の終着点としてのヨハン・セバスチャンのカンタータへの流れをとても興味深く示したのだ。
なるほどフランスの音楽家が指導する合唱は、たとえドイツなどのソリストなどが歌っても、残念ながら歌詞が明白に聞き取れるほどのアーティキュレーションの再現とはならない、しかしアンコール曲を指揮者自身が確りとドイツ語で紹介したようにドイツバロックの精華を示すになんら違和感がなかった。
そして驚くのは、室内楽ホールをたっぷりと鳴らした二人のチェロ他各パート一人づつのソロスツの精妙で確かな演奏が今まで経験のない高品質で、もはやこうなればモダーン楽器のバロックなどはなんら意味がないことを示している ― 嘗てのオランダの古楽パイオニア演奏陣の質からの飛躍が甚だしい。
勿論、六本ぐらいのコルネット類(コルネットなど)をとっかえひっかえと吹いたその音程の危うさは仕方がないのだが、それを補って余る音色は断っておかなければいけない。これほどの音色的な驚きは、スェーデンの古楽アンサムブルの金管の鋭い純正調を二十五年ほど前に体験した以来である。その響きは、時には牧童の笛のようにあるときは葬送のトロンボーンの声に純正調でハモルのである。殆ど声なのか楽器なのかが聞き取れないぐらいの時が多々あった。それはその他の楽器においても純正調としての音程とその響きの美しさは変わらないのだが、逆に弦がどのような弦を使っているかわからないのだが、スェップスのマイクロフォンで録音したかのようなとてもシャープで立ち上がりの鋭い響きと重ねられるのである。その響きが、このアンサムブルの可能性を感じさせると同時に特筆すべき優秀さのそれでしかない。
なぜこうした素晴らしい演奏家がドイツ語圏からは出ないで、オランダからならわかるのだがフランスやベルギーから排出されるのか?やはりドイツはバロックにおいてはどうしてもそのプロテスタントの音楽実践の流れが近代の音楽に結びついてしまったおかげで、その束縛から解き放たれないのかもしれない。
そして、初期のカンタータ「キリストは死の絆につかせたまえり」のその響きと音楽的構造の提示は画期的だった。これほどのカンタータは今まで経験したことがない。流石のヘルヴェッヒ指揮の演奏でもこうした過去のそれを直接引き継いだ果実としてのバッハがそのもの現代社会の音楽実践としては表れていない。
これほど音楽的にも優秀で知的にも抜群な演奏家がここにいた。フランクフルトのこの会、最近は定期会員も減り、その一方で決して安くない、だからそろそろと思わないでもない。なによりも年間の半分もその催し物に出かけていないのだ。それでも今回のような演奏会はティケットが手元になければフランクフルトに居なければ絶対出かけないものである。そしてそのような高質の音楽に出合えないのである。
当日は大ホールでは、月曜日にパリでアリアドネ公演を歌ったヨーナス・カウフマンがどさ周り楽団とプッチーニを歌っていたようだ。そのお蔭で駐車場にはなかなか入れなかった。偶々工事の人が寄って来て「アルテオペラ行くんなら、駐車場所教えてあげようか?、あんたは先の親爺と違ってフレンドリーやから。」と教えてくれて、無料で停めて、出入りがいつもより早く出来た。なにも無理せずになるがままに任しておく方がよい機会が得られるということだろう。勿論自己意志では、大ホールのコンサートのようなものには一銭も払わないのは決まっているのであるが。
参照:
復活祭への実存の二週間 2013-03-19 | 暦
復古調の嘆き節の野暮ったさ 2010-03-30 | 文化一般
シュッツ、そしてその後継ぎクリストフ・ベルンハートのイタリアのマドリガル、オペラからの影響が、ブクステーデそして叔父のヨハン・クリストフ・バッハでの結実へと、プロテスタント音楽の終着点としてのヨハン・セバスチャンのカンタータへの流れをとても興味深く示したのだ。
なるほどフランスの音楽家が指導する合唱は、たとえドイツなどのソリストなどが歌っても、残念ながら歌詞が明白に聞き取れるほどのアーティキュレーションの再現とはならない、しかしアンコール曲を指揮者自身が確りとドイツ語で紹介したようにドイツバロックの精華を示すになんら違和感がなかった。
そして驚くのは、室内楽ホールをたっぷりと鳴らした二人のチェロ他各パート一人づつのソロスツの精妙で確かな演奏が今まで経験のない高品質で、もはやこうなればモダーン楽器のバロックなどはなんら意味がないことを示している ― 嘗てのオランダの古楽パイオニア演奏陣の質からの飛躍が甚だしい。
勿論、六本ぐらいのコルネット類(コルネットなど)をとっかえひっかえと吹いたその音程の危うさは仕方がないのだが、それを補って余る音色は断っておかなければいけない。これほどの音色的な驚きは、スェーデンの古楽アンサムブルの金管の鋭い純正調を二十五年ほど前に体験した以来である。その響きは、時には牧童の笛のようにあるときは葬送のトロンボーンの声に純正調でハモルのである。殆ど声なのか楽器なのかが聞き取れないぐらいの時が多々あった。それはその他の楽器においても純正調としての音程とその響きの美しさは変わらないのだが、逆に弦がどのような弦を使っているかわからないのだが、スェップスのマイクロフォンで録音したかのようなとてもシャープで立ち上がりの鋭い響きと重ねられるのである。その響きが、このアンサムブルの可能性を感じさせると同時に特筆すべき優秀さのそれでしかない。
なぜこうした素晴らしい演奏家がドイツ語圏からは出ないで、オランダからならわかるのだがフランスやベルギーから排出されるのか?やはりドイツはバロックにおいてはどうしてもそのプロテスタントの音楽実践の流れが近代の音楽に結びついてしまったおかげで、その束縛から解き放たれないのかもしれない。
そして、初期のカンタータ「キリストは死の絆につかせたまえり」のその響きと音楽的構造の提示は画期的だった。これほどのカンタータは今まで経験したことがない。流石のヘルヴェッヒ指揮の演奏でもこうした過去のそれを直接引き継いだ果実としてのバッハがそのもの現代社会の音楽実践としては表れていない。
これほど音楽的にも優秀で知的にも抜群な演奏家がここにいた。フランクフルトのこの会、最近は定期会員も減り、その一方で決して安くない、だからそろそろと思わないでもない。なによりも年間の半分もその催し物に出かけていないのだ。それでも今回のような演奏会はティケットが手元になければフランクフルトに居なければ絶対出かけないものである。そしてそのような高質の音楽に出合えないのである。
当日は大ホールでは、月曜日にパリでアリアドネ公演を歌ったヨーナス・カウフマンがどさ周り楽団とプッチーニを歌っていたようだ。そのお蔭で駐車場にはなかなか入れなかった。偶々工事の人が寄って来て「アルテオペラ行くんなら、駐車場所教えてあげようか?、あんたは先の親爺と違ってフレンドリーやから。」と教えてくれて、無料で停めて、出入りがいつもより早く出来た。なにも無理せずになるがままに任しておく方がよい機会が得られるということだろう。勿論自己意志では、大ホールのコンサートのようなものには一銭も払わないのは決まっているのであるが。
参照:
復活祭への実存の二週間 2013-03-19 | 暦
復古調の嘆き節の野暮ったさ 2010-03-30 | 文化一般