先日のサントリーホールでのテロ行為の余波が続いているようだ。袖にいた人がショックを受けているようで、舞台という無防備な所での威力行為はやはりルール違反だ。私の様に社会規範やマナー云々の束縛の嫌いな人間でもこうした迷惑行為を超えた暴力行為は聞き逃せない。
前記の場合はそもそも芸術行為や表現行為とは一切関係ない ― 今やどんな「素人評論家」でも表現するメディアを持っているので、表現法を吟味することになる。しかし直ぐに思い出したのは、舞台演出家で若くして逝ったシュリンゲンジーフの活動で、そのものアクションアーティストが職業である。フルクシスやヨゼフ・ボイスなどを継承する形で活動していたので、映像で暴力沙汰なども残っている。
芸術やその表現に求められているのはまさしく既存の概念を超えた発想や感性であることは間違いないのだが、その現実社会を見渡せば小説よりも奇なるような為政者が権力を掌握していていて、そうした社会通念が通用しない。そのような環境において劇場空間などで現実の限界を問うてみても致し方ないのは疑問の余地が無い。ポストモダーンの20世紀のあれはもはや現在には通用しない。
昨日の車中のラディオの夕方のフォールムの時間は、ベルリンの国民劇場でフランク・カストルフの後任に選ばれた監督の問題が主題であった。その事情は知らないが、月末にはカストルフ演出のヤナーチェックのオペラがミュンヘンで掛かり、中継されるので楽しみにしている。そのカストルフもバイロイトではジークフリートの剣代わりに自動小銃をぶっ放せその合成音をぶち鳴らした。あれは、注意書きが配られたように音の暴力以外のなにものでもなかった。
Exzerpte der Hölle – Frank Castorf über AUS EINEM TOTENHAUS
個人的な体験としては、先の復活祭で指揮者登場の時にか拍手の中で正面バルコンから声が掛かったのを聞いた。「パルシファル」二幕前だったろうか、その(感動した一幕の)演奏が気に入ったよとかなにか肯定的なものだったが、一寸驚いた。オペラにおいては、12月のプッチーニのヴィデオストリーミングでは「O Mio Babbino Caro」で初日のラディオ中継時には拍手が小気味よく行かなかったので、どうも女性のサクラが入って一声掛けていたのを思い出す。日本でも歌舞伎などでは有名であるが、あのような絶妙のタイミングは楽譜を研究していてヴォイストレーニングをしていないと出来ないだろう。ああいうのを聞くと素人の出る幕ではないと思う。そしてミュンヘンの人材は羨ましいと思った。
G. Puccini - O mio babbino caro - Anna Netrebko
いづれにしてもお子ちゃまではないのだから、何かを表現しようと思う者は熟慮の上にその表現の影響や効果を、その社会的な責任をとるだけの覚悟が出来ているだろう。兎に角、そういう恥さらしで無粋な人間が日本からベルリンくんだりまでやって来て恣意行為をするのである。
左の歯の欠けた箇所の残りの歯とその歯茎の調子がとても良い。普通に固いものも噛んでいるが、もう少しで意識から消えそうなぐらいに好調で、あと一週間ほど様子を見て好調が続くならば、歯医者に判断して貰おうと思う。二年間苦しんだのが嘘のように炎症が引いて来ている感じだ。歯学的にあり得ることなのだろうか?関連しているらしい右の鼻も調子よくなって来ていて、このまま治ってくれると健康上の一つの危惧が消える。もう一つ関係は無いが、先週土曜日から金曜日まで走らなかったにも拘らず、左の腸部が痛むことも無く調子が大きく崩れなかった。座業時間が少なかったからかもしれないが、運動不足でもそれほど健康状態が悪化しなかった。涼しくなると肩などが痛むことがあるが、今年は全く使っていないのでそれも無くて助かっている。
昨年のプッチーニの写真を見て思い出した。先日のネットのインタヴューでエルモネーラ・ヤホが私生活を喋っていた内容をである。ツイッター繋がりで気になった訳であるが、同郷の学生時代からの男友達とロングアイランドに住むようになったようで、その彼がIBMに勤めているエンジニーアという事で、なるほど彼女が端末を使いこなしている意味が分かった。そのネット活動時刻も旅行中を除いてはなるほどとニューヨークタイムだと思った。そして彼女が軍人家庭出身だったという事で、なるほどそう言えば昔付き合っていた女性の父親は海軍将校であって、なんとなくその雰囲気に共通点を感じていたのでこれも合点が行った。
Ermonela JAHO dans BUTTERFLY " un bel di vedremo " AVIGNON
Ermonela JAHO the death of BUTTERFLY
参照:
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般
明るく昇っていく太陽 2017-04-18 | 文化一般
前記の場合はそもそも芸術行為や表現行為とは一切関係ない ― 今やどんな「素人評論家」でも表現するメディアを持っているので、表現法を吟味することになる。しかし直ぐに思い出したのは、舞台演出家で若くして逝ったシュリンゲンジーフの活動で、そのものアクションアーティストが職業である。フルクシスやヨゼフ・ボイスなどを継承する形で活動していたので、映像で暴力沙汰なども残っている。
芸術やその表現に求められているのはまさしく既存の概念を超えた発想や感性であることは間違いないのだが、その現実社会を見渡せば小説よりも奇なるような為政者が権力を掌握していていて、そうした社会通念が通用しない。そのような環境において劇場空間などで現実の限界を問うてみても致し方ないのは疑問の余地が無い。ポストモダーンの20世紀のあれはもはや現在には通用しない。
昨日の車中のラディオの夕方のフォールムの時間は、ベルリンの国民劇場でフランク・カストルフの後任に選ばれた監督の問題が主題であった。その事情は知らないが、月末にはカストルフ演出のヤナーチェックのオペラがミュンヘンで掛かり、中継されるので楽しみにしている。そのカストルフもバイロイトではジークフリートの剣代わりに自動小銃をぶっ放せその合成音をぶち鳴らした。あれは、注意書きが配られたように音の暴力以外のなにものでもなかった。
Exzerpte der Hölle – Frank Castorf über AUS EINEM TOTENHAUS
個人的な体験としては、先の復活祭で指揮者登場の時にか拍手の中で正面バルコンから声が掛かったのを聞いた。「パルシファル」二幕前だったろうか、その(感動した一幕の)演奏が気に入ったよとかなにか肯定的なものだったが、一寸驚いた。オペラにおいては、12月のプッチーニのヴィデオストリーミングでは「O Mio Babbino Caro」で初日のラディオ中継時には拍手が小気味よく行かなかったので、どうも女性のサクラが入って一声掛けていたのを思い出す。日本でも歌舞伎などでは有名であるが、あのような絶妙のタイミングは楽譜を研究していてヴォイストレーニングをしていないと出来ないだろう。ああいうのを聞くと素人の出る幕ではないと思う。そしてミュンヘンの人材は羨ましいと思った。
G. Puccini - O mio babbino caro - Anna Netrebko
いづれにしてもお子ちゃまではないのだから、何かを表現しようと思う者は熟慮の上にその表現の影響や効果を、その社会的な責任をとるだけの覚悟が出来ているだろう。兎に角、そういう恥さらしで無粋な人間が日本からベルリンくんだりまでやって来て恣意行為をするのである。
左の歯の欠けた箇所の残りの歯とその歯茎の調子がとても良い。普通に固いものも噛んでいるが、もう少しで意識から消えそうなぐらいに好調で、あと一週間ほど様子を見て好調が続くならば、歯医者に判断して貰おうと思う。二年間苦しんだのが嘘のように炎症が引いて来ている感じだ。歯学的にあり得ることなのだろうか?関連しているらしい右の鼻も調子よくなって来ていて、このまま治ってくれると健康上の一つの危惧が消える。もう一つ関係は無いが、先週土曜日から金曜日まで走らなかったにも拘らず、左の腸部が痛むことも無く調子が大きく崩れなかった。座業時間が少なかったからかもしれないが、運動不足でもそれほど健康状態が悪化しなかった。涼しくなると肩などが痛むことがあるが、今年は全く使っていないのでそれも無くて助かっている。
昨年のプッチーニの写真を見て思い出した。先日のネットのインタヴューでエルモネーラ・ヤホが私生活を喋っていた内容をである。ツイッター繋がりで気になった訳であるが、同郷の学生時代からの男友達とロングアイランドに住むようになったようで、その彼がIBMに勤めているエンジニーアという事で、なるほど彼女が端末を使いこなしている意味が分かった。そのネット活動時刻も旅行中を除いてはなるほどとニューヨークタイムだと思った。そして彼女が軍人家庭出身だったという事で、なるほどそう言えば昔付き合っていた女性の父親は海軍将校であって、なんとなくその雰囲気に共通点を感じていたのでこれも合点が行った。
Ermonela JAHO dans BUTTERFLY " un bel di vedremo " AVIGNON
Ermonela JAHO the death of BUTTERFLY
参照:
創作などは理解不能 2018-05-10 | 文化一般
明るく昇っていく太陽 2017-04-18 | 文化一般