Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

恥知らずの東京の連中

2018-05-18 | 文化一般
フランクフルト市立オペラに行くことになった。ティケットを押さえた。36ユーロである。オペラは嫌いとか、ジンタは御免とか言いながら、なんとオペレッタに出かけるのだ。レハール作曲「メリーウィドー」である。もしかするとオフェンバッハも「こうもり」も知らないので初めてのオペレッタかも知れない。昔エディンバラ音楽祭で観たフェタとかスペイン物が一番軽かったぐらいだろうか。勿論ミュージカルなどに金を掛ける人間ではない。

他の公演の追従を許さない選択理由は、見逃せないほどに特筆すべき音楽劇場上演となりそうなぐらいのその批評やその語り口の熱さである。つまり、オペレッタ全盛期のそれらがシェンク演出「こうもり」のそれなどを含めて、本当にそれらの公的劇場で上演されるだけの価値があるのか、つまり反対にヴィーンでの様に観光客に金を落とさせたり、またはミュージカルの様に大ヒットする可能性などの商業的価値が無いので、税金で制作される意義が問われる。

内容に関しては想像するしかないのだが、重要な枠組みとして、オペレッタ自体を上演してそれをお客さんが娯楽とする以上に、初演当時制作された映画を撮る形でもう一つ枠を広げることで、舞台上で描かれる世界が逆に純粋な芝居となっているようだ。この方法は劇中劇の目眩まし効果よりも、例えば科白を殆ど切ってしまうような方法で、更にその音楽創作の直截な効果を浮かび上がらせる効果になっている様。
Franz Lehár: DIE LUSTIGE WITWE


兎に角、劇場に座ってその舞台に細かに描かれる機微を追って行かないと何とも言いかねるのだが、ここ暫くのクラウス・グートの演出は注目される業績を残しているらしく、初日の反響から舞台の完成度が更に期待されるに十分なようだ。そして主役のマルリス・ペーターセンがこれまた絶賛されていて、私が行く上演にも間違いなく出て欲しいと思う。女流指揮者のマルヴィッツも次期ニュルンベルクの監督らしく、とても評判が良い。個人的にも、ペーターセンの「ルル」以外でのオペラ歌手としての力量と、久しぶりに聞くフランクフルトの座付き管弦楽団の響きと1100席ぐらいの劇場の響きなどを、ミュンヘンの経験から再び精査することになる。

ブラームスのニ短調協奏曲は第二楽章になって改めて驚愕した。更にこんなに難しい曲とは気が付かなかった。LPのルービンシュタインの演奏が凄みを増す。演奏技術的な問題ではなくここではそのもの作曲家が弾いているようにしか響かず ― 恐らくヨハヒムから伝え聞いたそのものだと思う ―、若くしてこんな音楽の書けるこの作曲家を見直した。なるほどベートーヴェンのパガテルなどの手本があるとしても、立派である。録音でのメータは管弦楽団の技術程度に拘わらずとても丁寧に打ち合わせ通りに音型を丹念に描いているようであり、三楽章になるとここぞとばかりに老ピアニストに助け船を出す。とても価値ある録音になっているのだが、来週フィラデルフィアがネゼセガンの下で楽譜通り正しく演奏するとこれは大変素晴らしいことになるだろう。但し心配は、グリモーが神経質に弾いていくとなると、そのテムポやその間に指揮者は堪えらずにいつものようにスイングしてしまう危惧が拭えない。ブラームスのシンコペーションとその類似音型など、とんでもないが私には簡単に読み分けられていない。もう少しお勉強しないと何もしないのとあまり変わらない。同時にシューマンの交響曲との関連などがハッキリしてくると、これはなかなか考えられたプログラムであると分かるようになってきた。

フィラデルフィアの今回の欧州・イスラエル公演が紛争の中で催されることになったのは偶然ではなく、まさにこの時に合わせてフィラデルフィアのユダヤ人組織などの協力で企画されたもので、そもそも頗る政治的な活動である。当然のことながら現在のイスラエル政府は人権上大きな問題を抱えていて、北朝鮮政府と互角であろう。イランなどよりも遥かに問題が大きい。だから私が放送予定について紹介した呟きに「セーフイスラエルアメリカン」などのハートが付くのは心外だが、やはりそこからフィラデルフィアでも大きな抗議運動が起きていることなどを知るに至る。交流を閉ざしていけないのは外交も然りである。

狸寝入りをしているのは罪で、それどころか日本人の様にザッカーバークや引退する女流ピアニストのユダヤ人達に好きな様にもて遊ばれているようでは話しにならない。またバイロイトのカテリーナをこともあろうに「フィデリオ」演出に招聘する勘違いを見逃す訳にはいかぬ。まだ2015年から三年しか経っていないのにも拘らず、腹違いの姉であるパスキエ―女史追放への支配権争い劇で、バレンボイムやペトレンコからその「非人道的な行い」に対して声明が出されたことも忘れたのであろうか。そうした企画をする連中はヴァークナー家にすり寄ってそのお零れに与かろうとする下卑た連中に違いない。この「フィデリオ」制作だけで如何に東京の二国が社会センスの無い非芸術的な組織であるかという事が世界に知れた。スポンサーのトヨタは恥ずかしいと思わないか?



参照:
録画録音した中継もの 2017-08-31 | 音
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
カロリーだけでなく栄養も 2017-12-12 | 生活
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする