Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

降臨しないケントの棒

2018-05-21 | 
聖霊降臨祭日曜、雨が止むのを待って峠を攻めて、戻って来てシャワーを浴びると本格的に降って来た。あとはどうとなれ、私はシューマンのお勉強をするだけだ。ネットでコンサート中継などの情報を貰って時間と気持ちが向くときはその内容を聞いてみる。つまり、冷やかしで見聞きするのだが、因果なものでどうしても真面目にその内容を吟味してしまう。だから、見られた演奏家などにはお気の毒な判定が下されることが少なくない。誰も期待していなくても自動的に精査することになる。手元に楽譜があれば取り出すが、ネットからDLするほどの無いことが殆どで、最後まで見聞きすればそれはそれなりに価値があったという事になる。

ケントナガノには失望した。何度も書いているが、ザルツブルク時代から少なくとも一般受けするヤンソンスよりもナガノの方を評価していた。だからこちらでは殆ど売れずに叩き売りになるCD類を結構購入している。ファンまでは行かないでも可成り聞いている方だと思う。特にオペラでは小澤が出来なかった程度の高い上演を熟しているのでその経験と力量を評価している。

ザルツブルクの大劇場ではピットで頻繁に、フィルハーモニーでは後姿も観ているのだが、TV画面では初めてだった。イェテボリの交響楽団を振ってのマーラーの三番である。最初から管弦楽団が程度に達していないことが明らかだ ― 先日同じようにNHKFMでヤルヴィ指揮のフランス放送管と知って早速聞くとどうしようもなく下手な演奏だったので、まさかこんな演奏と思っていたら、父親ヤルヴィの指揮だった。つまり息子のパーヴォとは月と鼈の力量で、パーヴォや弟は一流の教育も受けていて、その世界が違うことが分かった。つまりイェテボリの交響楽団とはその程度の楽団だったと分かった。
Mahler’s homage to nature


それでも周知の様に当時はヴォルヴォも健在で現在の様に中華資本ではないのでそれなりに経済力があったのだろうが、コンツェルトマイスタリンやその陣容の年齢層などを見ると明らかにその斜陽がハッキリしていた。これならばストックホルムの放送管弦楽団の方が良いのだろう。少なくとも対岸のデンマークのそれの方が今は技術的に上だと分かった。

しかし問題はそれだけでなくて、ケントの指揮はあんなにふにゃふにゃしているとは思わなかった。あれではまともに演奏出来なくても仕方がない。小澤などの天才に比較しようがないが全く駄目なので、なるほどコンサート指揮者としては二流以下だと分かった。なるほどオペラ指揮者としては交響的に鳴らすパッパーノなどと共通するアピールをするのだが、舞台の上に出ると怖気づいたようにしか振れないのが彼ら「ピット内弁慶」の特徴で、如何にオペラ指揮者と呼ばれる人たちは二流のコンサート指揮者かというのが如実に示される。

楽譜を見ないながらも、主題の音型も明白に奏させられないのは指揮の技術以外のなにものでもなく、それどころか楽譜を十分に読み込めているのかどうかも怪しい。これならばサロネンは勿論のことブロムシュテットにも追いつかない。ミュンヘンなどでもコンサート指揮をするので興味を持っていたが、全くそれを聞く価値などは無いことが知れた。残念至極だ。そもそも二十年ほど前に見せていた身体の張りのようなものが指揮台でなく、以前その青白い顔のプロフィール写真を変えろと警告したのだが、実物も変わらず精が無い。体調でも悪いのだろうか?そんなことでは到底ブロムシュテットに追いつけない。

それに引き換え、ヘッセンの放送管弦楽団でシュミットの四番を振るヤルヴィのヴィデオも観たが、あの弱体の管弦楽団がアルテオパーで充分なプレゼンスで演奏しているのに驚いた。近くにいても、精々ダルムシュタットでべルント・アロイス・ツィンマーマン演奏会などでしか聞いていないが、その放送局の規模に見合った予算の中で、合弁されたザールブリュッケンのそれに毛が生えた程度の楽団である。だからあの難しい曲を中々聞かせるパーヴォ・ヤルヴィの実力に脱帽した。少なくともヤンソンスよりも偉くなるのは間違いないと思う。 
Schmidt: 4. Sinfonie ∙ hr-Sinfonieorchester ∙ Paavo Järvi


   

参照:
バーデンバーデンの調印 2018-03-29 | 文化一般
予定調和ではない破局 2018-01-31 | 文化一般
元号廃止などと昔話 2018-05-04 | 文化一般
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