Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

斜陽産業との道行き

2023-10-19 | 文化一般
来年の春の音楽祭の総合プログラムが送られてきた。既にニュースメールからホームページで知っていた内容ではあるが、130頁のA4サイズの冊子で俯瞰するとやはり違う。主催者側からすれば最も示したい全体のコンセプトが浮かび上がる。それはなにもテーマとなって大書きされている事だけではない。具体的には改めるとして、先ずは幾つか席を予約しようと思う選択がそこからも帰納される。

私自身は何度か言及したように所謂催し物に趣味で行こうというのは十代で殆ど卒業した。だから、この演奏者のリサイタルだけは出かけておこうとか、この団体の催し物は体験しておこうとかで選択していた時期もあったのだが、それも放送などを含めてライヴの経験を積んで、厳選されるようになって、粗想定通りのライヴには出かけなくなった。それだけの手間暇かける意味がないからだ。

だからどうしても限定されるが、同時に町興しなども含めて、そこでどのような催しが企画されていて、どのような芸術的な意義が目指されているのかなどには興味がある。勿論それを地元の人や友の会の人などを中心に聴衆としてもどのように支えているのか、それはやはり社会的な意義がそこにあるからだ。

九月に出かけたルールのトリエンナーレの斜陽産業地でのその廃墟での催し物、ベルリンのテムペルホーフ飛行場での音楽劇場公演、所謂場が芸術活動になり、それだけの社会的な意味合いが示されていたのは既報通りである。

フィンランドで古今最も期待された若い指揮者が老舗レーベルと契約を交わした。その内容の詳細は分からないが、案の定としか思わなかった。なぜならばその活動を観察していて、その芸術的な行へが分からなかったからである。既にメディア産業が複製を拡散してスターにしていくというような20世紀後半のカラヤンに代表される様な大管弦楽団の指揮者像は歴史の中に沈んでしまっている。そこで何かを録音して商品として定期的に売り出すという行為が反芸術的で反音楽的な行為になったのにはそれなりの理由がある。

今回のブレーメンの室内管弦楽団での録音計画もモーツァルトの交響曲とか書いてあって如何にもで、商業性だけでそれ以外に何もない。その指揮で今春ショスタコーヴィッチの交響曲を聴いたが、今ここでモーツァルトをどのように指揮しても残すようなものは生まれない。要するに全ての活動で消耗されるだけになる。まさしく売れても消費されるだけなのである。そして商品は定期的にリリースされていかなければ一定の市場を確保できないのである。それだけで音楽行為から弾き飛ばされて、不必要なシリーズなどでその演奏水準が落ちていき、決して創作の本質などに触れることは不可能となっていくのである。そしてその様な興業の市場もコロナ以降は縮小しているのは明らかで、瀕死のメディア産業が興行界迄を道行にしたいと考えているに過ぎない。

キリル・ペトレンコはその天才性から世紀の指揮者ではあるのだが、その指揮も徐々に大人しくなってきていて、よりその創作の内容を聴かせるようになって来ている。最初からアンチマエストロのマエストロと呼ばれたのはそこである。大管弦楽団やオペラ団から最大限の演奏行為を導き出すことにその見識と経験と技量が注がれている。最早20世紀にあったような管弦楽団指揮者像ではない。



参照:
お家芸の指揮棒飛ばし 2023-03-26 | 音
オペラの前に揚がる花火 2023-09-19 | 雑感
コメント
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