(承前)ベートーヴェン交響曲八番ヘ長調のユーモア、ウィットについてはしばしば言及される。その弁証法的な叙述がヘーゲル哲学との同時代性を示しているのは間違いない。そうした「通常」とは異なり、終止で始まるだけではなく、そこにつけられた極端なアクセントやコントラストなど、二楽章の六度の和音の刻み、ハンスフォンビューローに言わせると「眉を顰めるべきな」スケルツォの遅れた木管とティムパニーの強調などが、従来の「通常」の作法を浮き彫りにして、そうした交響楽活動自体を認知させるという効果を生じる。
夏のベルリナーフィルハーモニカーツアー公演ではこの交響曲が都合三回演奏された。最初のザルツブルクのは聴けていない、二回目のルツェルンでの演奏は補聴器による雑音が酷かったとされ、上階の席でも音が入ったことが認識されて指揮者も上を見たりしていたのだが、距離があったお陰で鑑賞上の大きな弊害とはならなかった。三回目のルクセムブルクよりも名演になりえたのは偶然ではないだろう。
それはルツェルンの音響の明るさが幸いした面もあるのかもしれないが、大きな空間でコントラストの激しさは増長される傾向にあって、この楽曲の主旨がよく伝わったからに違いない。一種のエコーチェムバー効果のようなものかもしれない。対象への距離感という意味にもなる。
こうした構造的な視座を、ボッフムでのアンデルセン作曲「トリオ」は当然のことこの交響曲のアイデアをも抱合しているからこそ、この若い作曲家の作品が早くも歴史の中で位置づけられることになっている。それのみならず、グバイドリーナ作曲「レヴューミュージック」、そしてヴェルトミューラー作曲「シュリマージ」も同じことを明らかにしていた。
上の三曲が同様に音楽の歴史の中で八番交響曲の様に二百年後に演奏されるとは誰も信じ難いが、「トリオ」の再演が歴史的な意味を持つことはこれらの相互する連環から最早明らかである。奇しくも指揮者エンゲルが将来へのユートピア的なヴィジョンであるかもしれないと語った意味はここにある。
ビッグバンドと大管弦楽は「ペンギンと白熊の様に決して遭遇しない」というテーゼは、その音響からしても明らかであり、ソヴィエトのタタール人女性の作曲家がモスクワの映画音楽を作っていた時にこうしたグルーヴな曲を書いて、それでもコーラスの扱い方等とてもミスティックな風情は、その二群の楽器群においても受け渡しに大きなコントラストを与える。1960年代の「ナポレオンソロ」などの米TV音楽と最初の鐘の音とのそれ以上に大管弦楽が剝き出しのままに「映画音楽」を奏するとなると可也衝撃的であるということで、スタディオ管弦楽団が適度にスイングして演奏するのとは違う激しいコントラストがそこに生じる。
Sofia Gubaidulina - Concerto For Two Orchestras (w/ score) (for orchestra and jazz band) (1970)
今回のその徹底した運弓による弦の扱い方などは全く異なる筈のクセナキスの演奏のそれとも共通点を導き出すことになる。バーゼルの世界一大きな現代音楽管弦楽団シムフォニエッタの力量はその明晰な演奏法への徹底した合意で明らかで、この点でもその前の週のベルリナーフィルハーモニカ―によるクセナキス演奏に酷似した。即ち映画音楽などのあのどげつい厚かましい音響を実感する行為とクセナキスの正確な演奏を体験する事とはその止揚される結論というところで殆ど差異がないということになる。つまり交響曲八番において求められた認知と相似する。(続く)
参照:
クリックトラックの接点 2023-09-25 | 音
ブラームスの先進性から 2023-09-06 | 音
夏のベルリナーフィルハーモニカーツアー公演ではこの交響曲が都合三回演奏された。最初のザルツブルクのは聴けていない、二回目のルツェルンでの演奏は補聴器による雑音が酷かったとされ、上階の席でも音が入ったことが認識されて指揮者も上を見たりしていたのだが、距離があったお陰で鑑賞上の大きな弊害とはならなかった。三回目のルクセムブルクよりも名演になりえたのは偶然ではないだろう。
それはルツェルンの音響の明るさが幸いした面もあるのかもしれないが、大きな空間でコントラストの激しさは増長される傾向にあって、この楽曲の主旨がよく伝わったからに違いない。一種のエコーチェムバー効果のようなものかもしれない。対象への距離感という意味にもなる。
こうした構造的な視座を、ボッフムでのアンデルセン作曲「トリオ」は当然のことこの交響曲のアイデアをも抱合しているからこそ、この若い作曲家の作品が早くも歴史の中で位置づけられることになっている。それのみならず、グバイドリーナ作曲「レヴューミュージック」、そしてヴェルトミューラー作曲「シュリマージ」も同じことを明らかにしていた。
上の三曲が同様に音楽の歴史の中で八番交響曲の様に二百年後に演奏されるとは誰も信じ難いが、「トリオ」の再演が歴史的な意味を持つことはこれらの相互する連環から最早明らかである。奇しくも指揮者エンゲルが将来へのユートピア的なヴィジョンであるかもしれないと語った意味はここにある。
ビッグバンドと大管弦楽は「ペンギンと白熊の様に決して遭遇しない」というテーゼは、その音響からしても明らかであり、ソヴィエトのタタール人女性の作曲家がモスクワの映画音楽を作っていた時にこうしたグルーヴな曲を書いて、それでもコーラスの扱い方等とてもミスティックな風情は、その二群の楽器群においても受け渡しに大きなコントラストを与える。1960年代の「ナポレオンソロ」などの米TV音楽と最初の鐘の音とのそれ以上に大管弦楽が剝き出しのままに「映画音楽」を奏するとなると可也衝撃的であるということで、スタディオ管弦楽団が適度にスイングして演奏するのとは違う激しいコントラストがそこに生じる。
Sofia Gubaidulina - Concerto For Two Orchestras (w/ score) (for orchestra and jazz band) (1970)
今回のその徹底した運弓による弦の扱い方などは全く異なる筈のクセナキスの演奏のそれとも共通点を導き出すことになる。バーゼルの世界一大きな現代音楽管弦楽団シムフォニエッタの力量はその明晰な演奏法への徹底した合意で明らかで、この点でもその前の週のベルリナーフィルハーモニカ―によるクセナキス演奏に酷似した。即ち映画音楽などのあのどげつい厚かましい音響を実感する行為とクセナキスの正確な演奏を体験する事とはその止揚される結論というところで殆ど差異がないということになる。つまり交響曲八番において求められた認知と相似する。(続く)
参照:
クリックトラックの接点 2023-09-25 | 音
ブラームスの先進性から 2023-09-06 | 音