Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

シャンペンの泡の様に

2024-01-02 | 
大晦日は演奏会に続いて時差配信の喜歌劇「こうもり」を観た。個人的に今年試してみようかと思ったぐらいで、年末年始でこれを訪ねたり、時差生中継も観た記憶がない。本年少なくともモニターを通して適った。勿論古いアーカイヴ公演とは異なって数時間の時差乍ら同時性と同時に、それ以上に零時に舞台が進んでいるのがとても嬉しかった。つまり花火の音を聞いて、おかしな思いに浸ることなく、舞台に入れる喜びはなによりもだ。因みに本番の劇場では12時まで誰も働かない。

しかし番組が終わるのは午前様でアルコールも入っているのでうとうとした。だから後半は若干冗長感を感じたのは事実でそれが演出の責任なのか何かはじっくり繰り返して観なければ分からない。

但し音楽に関しては、想定程は悪くなく、それなりに公演として劇場が湧いていた感じも分かった。なるほど指揮者のユロウスキー監督がこの作品にはこの手の演目でありがちの様には一曲たりとも下らない曲はなく、その管弦楽法はモーツァルトと同じぐらいに魅力的とするものは活かされていた。逆に指揮者としてそこにコンセプトをおいたというのはそれ以上の核心には至らなかったということになる ― なにかベルリンのペトレンコのコンセプトと同じような言い訳感がある。勿論ヴィーナー風の演奏をリードできる筈もなく、ミュンヘンの座付き楽団の特徴を活かすことが肝心だった。

その意味からは現在のドルニー支配人の体制で招聘される中途半端な指揮者とはその演奏水準は異なるのだが、羽根の生えたようなシャムパンの香り漂い泡が弾けるようなシャマンテからは甚だ遠かった。本人も語っていたように英国での上演でのそれを思い起こさせる文化的な相違が著しかった。

余談ながら前任者のペトレンコもクライバー指揮を意識して振ったのだが、出かけなかった。やはり中々その先駆者には到底及ばないと思ったからだ。ペトレンコはヴィーナーヴァルツァーも現存指揮者の中では最も上手に振れる人だとは思うのだが、それでもそこに才能を注ぐほどではないだろうと考えたからだ。

ユロウスキーは、賞に輝いたプロコフィエフ「戦争と平和」で評価されたが、そのリズムも管弦楽バランスも重いと感じた。音楽がもう少し魅力的になっていたならば舞台の演出への認識も少し変わっただろうということである。

なるほど演出的には、ドラッグクイーンとかを女性のカンカンの代わりに入れたり、ズボン役をカウンターテノールの役にしたりで性的な社会的な位置づけの変換を前提としているのも今日的であり、ローマ教皇が男性ペアーを認める時代の当然の認識である。

それゆえに音楽的にもそれだけ魅力的でないと舞台の説得力も発揮することがなくなる。まさしくそうした指揮者の仕事が賞を獲得しているティテュス・エンゲルの第一人者との差である。なるほど、エンゲルが急遽受け入れて飛び入りした新制作「ジュディッタ」との音楽劇場とは異なり、伝統的な制作であるから、音楽的な説得力で示すしかなかったのではあるが。

全く異なるが、昨年のクリスマス前にエンゲルが指揮した再演「ヘンゼルとグレーテル」とのウケ方を思い起こせば、やはり新制作でありながらそこ迄は全然湧いていない。
Die Fledermaus - Tritsch-Tratsch-Polka




参照:
言葉通りの「お試し」 2024-01-01 | 音  
幕が閉じてのその熱気 2022-12-25 | 音
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする