久しぶりのマーラ―交響曲三番。何故あまり演奏されないか、その答えは、特にこの交響曲に特徴的な創作家の回想の構造となっているからのようだ。
一楽章の冒頭のブラームス交響曲一番四楽章の歓びの動機でありシューベルト交響曲の大ハ長調の冒頭であってもそれがどのようにかがそのものが謎解きにならない限り分かりにくい。そこに次から次へと繋がる恐らく子供の時に耳にしたであろう軍楽や、葬送のマーチそしてトロンボーンのレチタティーヴがこの楽章における「パンの目覚め」て、「夏が行進してくる、バッカスの行進」となるとその大古感はとても個人的な観想でありついていけない。勿論そこにはアーニム・ブレンターノの「不思議な魔法の角笛」やニッチェの「ツァラストラ」真夜中の歌に準ずる。
そして後半部になる二楽章のメヌエットがネオロココで「花が私に語りかける」となると、その趣味性が問題となる。つまり、マーチ・民謡・歌となるアンチ交響曲構造がこの交響曲の形式となっている。交響詩三楽章「森の動物が語り掛ける」、そして四楽章の「オーメンシュ」がヴァ―クナーにおけるエルダの地叫び、そして子供の世界の先にフィナーレとして歌が連なる。アンチオペラとしてリゲティ「グランマカーブレ」が有名であるが、同様なのである。
いつものバーデンバーデンでのシマンスキー氏のレクチャーでは、これが美学的に説明されていた。つまり19世紀の浪漫派の歴史の中では交響曲は主要な創作から外れて、メンデルスゾーンの「スコッチ」や「イタリアン」の様に絵葉書交響曲になる。つまり後期浪漫派の中でのブルックナーの九番のような調的な先鋭性からするとこの曲におけるニ長調の全音階的なそれはメタ交響曲つまり交響曲の為の交響曲でしかなくなる。例えばショスタコーヴィッチのソヴィエトの墓標としての交響曲の手前であるかもしれない。
そこで今回安く購入しておいた評判の良いアバド指揮ヴィーナーフィルハーモニカーの1982年の制作録音を聴いた。没後10年らしいが素晴らしい演奏だった。参考にバーンスタイン指揮の二種類の録音を少し流した。何故アバド盤が素晴らしいか、それは上の「記憶」になる前提となる回想世界がそこにあるからだった。バーンスタイン指揮盤に致命的に欠けるものだ。
そこで当晩のチェコフィルの演奏はその意味からボヘミア出身のマーラーの音楽世界とは無関係だった。少なくともあのような音楽伝統はヴィーンの宮廷劇場監督のそれではない。正直ボヘミヤとモラヴィア音楽文化に関してはよく分からない。しかしこの首都の名門がドイツ人指揮者と外交問題に発展するような問題を起こして、そして海外ツアーなどではお国ものしか演奏できないことは明らかだった。
指揮者ブシュコフと楽団との関係性も明らかに始めからロールプレーをしていて、それ以上には一歩も動かないことがよく分かった。ラトルが振ってもそれは変わらない。要するにローカルの文化圏でしか存続しない。そのローカルは帝都ヴィーンとは異なるだけで、その弦楽の伝統などもピンとキリの話しで、管楽器陣もこれでは難しい表現などは不可能だ。ペトレンコ指揮フォアアールベルクの下手な管弦楽団でも少なくとも何をやろうとしているかはしっかり補えられたが、この楽団の横着さはヴィーナーフィルハーモニカーの様に商業価値でも測らないことで、最早何ら意味をなさない。世界一流へなんて夢は昔から幻だったのだろう。スークのヴァイオリンやスメタナ四重奏団とは違うのは当然。
参照:
指揮科教授のバイロイト 2019-08-19 | 音
特産の弦の表現力 2023-09-12 | 文化一般
一楽章の冒頭のブラームス交響曲一番四楽章の歓びの動機でありシューベルト交響曲の大ハ長調の冒頭であってもそれがどのようにかがそのものが謎解きにならない限り分かりにくい。そこに次から次へと繋がる恐らく子供の時に耳にしたであろう軍楽や、葬送のマーチそしてトロンボーンのレチタティーヴがこの楽章における「パンの目覚め」て、「夏が行進してくる、バッカスの行進」となるとその大古感はとても個人的な観想でありついていけない。勿論そこにはアーニム・ブレンターノの「不思議な魔法の角笛」やニッチェの「ツァラストラ」真夜中の歌に準ずる。
そして後半部になる二楽章のメヌエットがネオロココで「花が私に語りかける」となると、その趣味性が問題となる。つまり、マーチ・民謡・歌となるアンチ交響曲構造がこの交響曲の形式となっている。交響詩三楽章「森の動物が語り掛ける」、そして四楽章の「オーメンシュ」がヴァ―クナーにおけるエルダの地叫び、そして子供の世界の先にフィナーレとして歌が連なる。アンチオペラとしてリゲティ「グランマカーブレ」が有名であるが、同様なのである。
いつものバーデンバーデンでのシマンスキー氏のレクチャーでは、これが美学的に説明されていた。つまり19世紀の浪漫派の歴史の中では交響曲は主要な創作から外れて、メンデルスゾーンの「スコッチ」や「イタリアン」の様に絵葉書交響曲になる。つまり後期浪漫派の中でのブルックナーの九番のような調的な先鋭性からするとこの曲におけるニ長調の全音階的なそれはメタ交響曲つまり交響曲の為の交響曲でしかなくなる。例えばショスタコーヴィッチのソヴィエトの墓標としての交響曲の手前であるかもしれない。
そこで今回安く購入しておいた評判の良いアバド指揮ヴィーナーフィルハーモニカーの1982年の制作録音を聴いた。没後10年らしいが素晴らしい演奏だった。参考にバーンスタイン指揮の二種類の録音を少し流した。何故アバド盤が素晴らしいか、それは上の「記憶」になる前提となる回想世界がそこにあるからだった。バーンスタイン指揮盤に致命的に欠けるものだ。
そこで当晩のチェコフィルの演奏はその意味からボヘミア出身のマーラーの音楽世界とは無関係だった。少なくともあのような音楽伝統はヴィーンの宮廷劇場監督のそれではない。正直ボヘミヤとモラヴィア音楽文化に関してはよく分からない。しかしこの首都の名門がドイツ人指揮者と外交問題に発展するような問題を起こして、そして海外ツアーなどではお国ものしか演奏できないことは明らかだった。
指揮者ブシュコフと楽団との関係性も明らかに始めからロールプレーをしていて、それ以上には一歩も動かないことがよく分かった。ラトルが振ってもそれは変わらない。要するにローカルの文化圏でしか存続しない。そのローカルは帝都ヴィーンとは異なるだけで、その弦楽の伝統などもピンとキリの話しで、管楽器陣もこれでは難しい表現などは不可能だ。ペトレンコ指揮フォアアールベルクの下手な管弦楽団でも少なくとも何をやろうとしているかはしっかり補えられたが、この楽団の横着さはヴィーナーフィルハーモニカーの様に商業価値でも測らないことで、最早何ら意味をなさない。世界一流へなんて夢は昔から幻だったのだろう。スークのヴァイオリンやスメタナ四重奏団とは違うのは当然。
参照:
指揮科教授のバイロイト 2019-08-19 | 音
特産の弦の表現力 2023-09-12 | 文化一般