Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

異なる境地に至る学び

2024-01-15 | 
週末はペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの中継を観た。一つは生中継でベルリンから、もう一つは昨年の11月の東京からの二種類である。

前者は、デテュユ―の交響曲とバルトーク「木彫りのプリンス」のプログラムである。初日の地元の批評では大絶賛されていて、首席指揮者に就任してから最も素晴らしい演奏会だったともあった。

その意味するところは、その新しい響きであり、戦後の同時期の前衛とは一線を画していて、ブーレーズの様にはならなかった作曲家の作風である。その細やかな演奏は、昨年の九月の音楽祭におけるイレーッシュの作品の世界初演の様子を思い起こさせる。その曲を演奏する為にあれほど面倒な事をしてと思っていたが、そうした骨の折れる「練習」は決して無駄にはなっていなかったという事だ。

ぺトレンコ指揮のプログラミングはこうしたカリキャラムが構成されていて、演奏会を開きながら聴衆を含め皆が学ぶようになっている。そうでなければこうした演奏は不可能だった。当地のラディオは初日のお客さんの反応も絶賛していた。

そして詳しくは機会があったならと思うが、交響曲第一番の一楽章「パッサカリア」はブラームスの第四番の四楽章から続いている。その四番は東京公演からの中継録画がNHKで初放映された。サントリーホールでの11月24日の実況中継録画であった。

こちらの方は、ネットで特殊な条件で観た為に結論的な事は今は語れないのだが、その映像に合わせたミキシングが為されていて、音だけを聴くと違和感があった。なるほど杮落とし後に反響板などが修正されたというが、舞台上の音がよく聴こえる。反面当時日本で信じ込まれていた二秒という長い残響がホールトーンとして録られていて、その影響をあまり受けないようにサブのマイクロフォンが強く捉えられていて、メインとの間で違和感が生じている。しかしこの映像はこの週は見逃し配信されているので繰り返し再生することになると思う。

カメラアングルは多くの奏者を抜くようなコンセプトでそれなりに音楽的にという意思が制作者にあったのだろうが、なによりも全体的な纏まりが悪かった。ベルリンのフィルハーモニーを手本としたといわれるのだが音響は全然異なる。このホールでは到底メインのマイクロフォンでは十分な音は録れないのだろう。

ベルリンの生中継の為に曲目解説でペトレンコが語っているのだが、こうしたベルリナーフィルハーモニカーが今まで一度も演奏していないにも拘わらずとても重要な作品であるのとは反対に、「英雄の生涯」の様に楽団の肉と血となっている曲を指揮する場合は異なっていて、それでもアジアツアーで最後にはまた異なる境地に至って自らも学ぶことがあったと態々付け加えていた — 明らかに日本での反響などを意識している。

そしてバルトークのバレー曲などは、楽劇「影のない女」のおとぎ話と同様に舞台化するのがとても難しいが、それ以上に音楽自体が語るものが細やかで遙かに超えているというのである。先日シュトッツガルトとの音楽表現比較で私が述べたことそのものの事であり、ペトレンコは私が書いたものを刻一読み込んでいるとしか思われない程である。まさしくこれこそが音楽的な内容でその表現の目的。



参照:
意識的に忘れた録音 2024-01-13 | 歴史・時事
机上の年末整理など 2023-12-31 | 文化一般
コメント (2)
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