Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

19世紀のイタリア紀行

2024-01-17 | 
ムーティ指揮はコロナキャンセル直前の前回のツアー以来だった。殆ど前回の並びの席で今回も聴いた。シカゴの弦楽陣がよくなっていた。尤も前回は「オランダ人」序曲、ヒンデミート「画家マティス」と新世界だったが、今回はグラスの新曲に続いてメンデルスゾーンの「イタリア風」であった。

なるほどシカゴも人数を絞って中規模迄刈り込むんでいたからだが、久しぶりにフィラデルフィアを超えて大管弦楽団でベルリナーフィルハーモニカーに匹敵する弦楽陣の表現力を聴いた。前回とは大違いであり、恐らく通常以上の準備も出来ていたのだろう。ベルリンでその規模でどこまで行くかは若干疑問がある。

この曲で今後これだけの演奏が聴けるかどうかは疑わしかった。どれぐらいに素晴らしかったかというと、通のお客さんから私を含めて第一楽章のあとにブラーヴォ―が飛んだのだ。交響曲で曲間に拍手したのは初めてだった。

一楽章でのその響きの素晴らしさは、コーダ部では拍手が来るだろうと思っていたぐらいだから、どれだけ特別なことだったか。管楽器の所謂混合音色がその滲んだ音響を響かすだけでなくて、そこには蒼空があって、そして趣があるのだ。だからシカゴのあの乾いたつるつるしない澄んだ響きが清涼感を与え、制御された金管のエッジが通る。

ムーティの指揮は自由自在の制御からのピアノとのダイナミックスが遠近法感を与えていて、そしてその天性の活き活きとしたリズム感をカラヤンを模倣するルバートによって、和声的な陰影を余すことなく伝える。嘗てアバド指揮ではそうしたイタリア建築におけるニッシュの光と影のコントラストのようなものが語られていたのだが、ムーティ指揮においてはそこ迄は至らないべたな色彩感しか語られることはなかった。

ここ数年の欧州での指揮においてもどちらかというとその思わせぶりなそぶりゆえにその音楽の深みを削いでいた様な評価が多かった。それゆえに今回の楽曲への熟知ぶりととても丁寧な仕事ぶりは驚愕であって、これだけの演奏をしたイタリアのマエストロを知らない。ジュリーニ指揮にはこのような天性のものはなかった。

こんな枯れて渋い音色を出しつつ対位法的な扱いで更にその和声的なぶつかりあいも得も言われぬ興となっていて、尚且つ活き活きとしたリズムがそこに刻まれる。このような音楽を初めて聴いた。

二楽章の主題はツェルター作曲の歌曲「テューレの王」似の旋律とされて、作曲家がイタリア旅行前に亡くしたその作詞家ゲーテを思いを寄せ偲ぶアルプス以北の芸術感が語られている一方、当日未明に昨年のシーズン初日として実況中継された録音を聴いて、ムーティ指揮ではそれは明らかに異なるなと感じていた。実際にナポリ地方の印象がそこに重ねられるとなる。

やはりそれにおいてはその長短の調性の扱い方などもどうしても19世紀のモーツァルトと呼ばれたように、この作曲家の作風でもあるのだが、より注目したいのはその美しさの構造となっている事だ。一般的には第三交響曲「スコッチ風」が代表作とされるようなのだが、そこではこれ程の音響とはなっていない。(続く



参照:
シカゴ交響楽団のサウンド 2020-01-25 | 音
独墺交響楽の響き 2021-11-24 | 音
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする