(承前)二楽章の調の長短の妙を味わった。そしてモデルとなった「テューレの王」のツェルターはメンデルスゾーンの先生で偲んだのであった。同時にナポリ周辺での感興がそこに添えられる。ムーティ指揮での秀逸はやはりそこでのヴァイオリンのカンタービレであり、バスのリズミカルな支えが如何にも旅人のそのデュアルな視座を明らかにしつつ、目前の環境に心象風景を浮かび上がらせる。その和声的であったり律動的な精妙さはまさしく19世紀のモーツァルトである。
著名なユダヤ人学者モーゼス・メンデルスゾーンの孫として豊かなメンデルゾーン銀行の家庭で育ったプロテストタントの作曲家は、そうした素性から飽くまでの品の良い作曲家であるという評価があって、現在でもそれが継承されている。そのように、次の三楽章での鳥の掛け合う囀りに続く、トリオのホルンとファゴットの掛け合いがこれまた絶妙であり、カトリック教会の鐘とかとされるのであるが、明らかに二重構造の中にあるのはその長短の構造からしても明らかだ。
モーツァルトの「フィガロの結婚」などにおいてもその舞台が南欧であるほどに余計にそうした文化的な二重構造が聴こえてくるのだが、メンデルスゾーンにおいてもここではゲーテの「イタリア紀行」に従うと同時に、そこに明らかに異なる視線の存在を感じさせる。
終楽章のサルタレッロの踊りこそはまさしくイタリアの舞曲であり、ゲーテが彼の地での感慨を綴ったような観察者のジャーナルであるとともに、それによって初めて自己への客観性が得られる。そこに有名な「外国語を理解しないものは母国語も知らない。」という名言が浮かぶ。
ナポリ出身の指揮者ムーティがこの曲を十八番としたのは勿論その故郷南イタリアの舞台があるからであるのは当然として、やはりこうした視線の錯綜が取り分け興味あるものであったことを示すに足るのはその多層的でジャーナリスティックな演奏実践であったことでよく示された。例えばダイナミックスのつけ方で、それが遠近法にもなるという、まるでベアヴァルトの交響曲のような効果となる。
音響的な美しさは最終的には感覚的なものであったとしても、そこには芸術たる節度があってこそ初めてこうしたデュアリズムの構造が浮かび上がる。それはその清潔で明晰なアーティキュレーションとして、メンデルスゾーンの質の高さが示されることになる。
ここまで聴くと、翌日の二つ目のツアープログラムにあるプロコフィエフ交響曲五番が如何に立派に演奏されるかが十分に想像できた。
そして一曲目のグラス作曲「オクタゴンの勝利」は、白銀分割のカステルデルモンテの城をイメージしたもので、作曲家自ら献呈した指揮者ムーティが子供の頃に家族とともに遠足に出かけてその壁を攀じたという追想をインタヴューした印象として語られる — 映画「薔薇の名前」のロケ地でもある。これ程素晴らしい最後のシーズンオープニングのプログラミングはなかったであろう。そこでハープを含む八種類の楽器群がミニマル音楽をアンサンブルする。その終わり方もいいが、中々味わい深い作りになっていて、楽器法的にも興味深い作品である。(続く)
参照:
引き出しに閉じる構造 2007-01-11 | 文学・思想
「ある若き詩人のためのレクイエム」 2005-01-30 | 文化一般
著名なユダヤ人学者モーゼス・メンデルスゾーンの孫として豊かなメンデルゾーン銀行の家庭で育ったプロテストタントの作曲家は、そうした素性から飽くまでの品の良い作曲家であるという評価があって、現在でもそれが継承されている。そのように、次の三楽章での鳥の掛け合う囀りに続く、トリオのホルンとファゴットの掛け合いがこれまた絶妙であり、カトリック教会の鐘とかとされるのであるが、明らかに二重構造の中にあるのはその長短の構造からしても明らかだ。
モーツァルトの「フィガロの結婚」などにおいてもその舞台が南欧であるほどに余計にそうした文化的な二重構造が聴こえてくるのだが、メンデルスゾーンにおいてもここではゲーテの「イタリア紀行」に従うと同時に、そこに明らかに異なる視線の存在を感じさせる。
終楽章のサルタレッロの踊りこそはまさしくイタリアの舞曲であり、ゲーテが彼の地での感慨を綴ったような観察者のジャーナルであるとともに、それによって初めて自己への客観性が得られる。そこに有名な「外国語を理解しないものは母国語も知らない。」という名言が浮かぶ。
ナポリ出身の指揮者ムーティがこの曲を十八番としたのは勿論その故郷南イタリアの舞台があるからであるのは当然として、やはりこうした視線の錯綜が取り分け興味あるものであったことを示すに足るのはその多層的でジャーナリスティックな演奏実践であったことでよく示された。例えばダイナミックスのつけ方で、それが遠近法にもなるという、まるでベアヴァルトの交響曲のような効果となる。
音響的な美しさは最終的には感覚的なものであったとしても、そこには芸術たる節度があってこそ初めてこうしたデュアリズムの構造が浮かび上がる。それはその清潔で明晰なアーティキュレーションとして、メンデルスゾーンの質の高さが示されることになる。
ここまで聴くと、翌日の二つ目のツアープログラムにあるプロコフィエフ交響曲五番が如何に立派に演奏されるかが十分に想像できた。
そして一曲目のグラス作曲「オクタゴンの勝利」は、白銀分割のカステルデルモンテの城をイメージしたもので、作曲家自ら献呈した指揮者ムーティが子供の頃に家族とともに遠足に出かけてその壁を攀じたという追想をインタヴューした印象として語られる — 映画「薔薇の名前」のロケ地でもある。これ程素晴らしい最後のシーズンオープニングのプログラミングはなかったであろう。そこでハープを含む八種類の楽器群がミニマル音楽をアンサンブルする。その終わり方もいいが、中々味わい深い作りになっていて、楽器法的にも興味深い作品である。(続く)
参照:
引き出しに閉じる構造 2007-01-11 | 文学・思想
「ある若き詩人のためのレクイエム」 2005-01-30 | 文化一般