Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

マトリューシュカ交響曲

2024-02-03 | 
先週土曜日の実況生中継の映像がアーカイヴされた。週末にちらちらと確認してみたい。先ずは、拍手など土曜日の内容を確認する作業をした。なによりも最後の拍手で三日間の定期公演の中でただ一度指揮者を呼び返した時だった。そこはアーカイヴからカットされていた。想像するにああした呼び返しはいつものそれとは違っていて、恐らく中継が終わっていたものと想像する -— フェードアウトは観たことがある。

そして自身で映したヴィデオを確認すると最初から一人頑張っていた叔母さんに深く礼をしている。如何にその拍手を確認していたかがよく分かり、それを顔を合わせながら手伝って上げたのも私だった。ミュンヘンでのそうしたサークルを思い起こした。

実に定期公演の三晩目に初めて明らかに演奏実践が創作内容に嵌まったのだった。詳細はアーカイヴを流しながら再確認してみたいと思うのだが、前半の室内交響曲一番も初日のそれに比較してもただでさえ粒よりに演奏するのが難しいソロ演奏をよりリスクを冒し乱れを顧みずに演奏させたのは大合奏の時には聴かれないものだ。

まさしくこの楽曲が交響曲であり乍らなぜ室内楽編成となっているかのその本質を示した。こうした激しさによって初めて今や大交響楽団の演奏では失われたベートーヴェンの交響曲のその本質を超えるものが示されたことになる。大雑把な言い方をすれば、嘗ての楽聖の交響曲は現在はシェーンベルクの交響曲で初めて実感されると考えてもよい。

前半のこの交響曲においてその作品が漸く初めて正しく演奏されたことになる。ここで、中継にあったキリル・ペトレンコへのインタヴューを初めて観る。そこではマトリュシュカのような構造とされているものとその和声が音色ではなく構造として使われていることが語られる。四度の音程に関して二度を対峙させる。更にブラームスを参考として言及している。

そして後半の「ヤコブの梯子」についての言及となるのだが、その音楽の核に迫る。つまり、全曲はユーモア溢れる「変顔」に溢れているというのである。しかしそれはグロテスクではない。そして和声に関しても、室内交響曲二番を容易な回帰とはしていない。

そこで、「モーゼとアロン」とこの「ヤコブの梯子」の宗教的な曲において何故完成されずに、しかし最後まで試み続けられたかの質問に答える。とても難しい問いかけであるがとしながらも、そして自らのテキストは完成していることをして、明確に回答している。

それは、テキスト自体がプロテスタントからの帰宗前に自らの手で書かれ、キリスト教的であったからとしている。だから誠実な作曲を完遂出来なかったとなる。これ程明白な回答はない。

もう暫くすると、2025年復活祭のプログラムが発表される。先ず、「モーゼとアロン」がなされるだろう。そして今回の公演はその為の予行練習だったと思う。演出は、昨年の「影のない女」と同じリディア・シュタイヤーではないかと思っている。

余談ながら、ザルツブルク復活祭のバッハラー総裁がうろうろしていた。演奏会に来たというよりも歌手陣を含めての打ち合わせに来ていたような感じだった。
Applaus / Schönberg: Kammersymphonie Nr.1 - Die Jakobsleiter




参照:
日帰り旅行の空気圧 2024-01-12 | 雑感
第二次ベルリン紀行準備 2024-01-22 | 生活
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