ヒッチコック監督「眩暈」へのオマージュとしての公演のヴィデオを観た。2020年に西部ドイツのヴィッテナーターゲで初演されたブリース・パウセ作曲の室内管弦楽団編成に音声録音など加えた作品であった。そこにアロタン・セルゲイのサウンドインストレーションがつけられていて、2021年のヴィーンモデルンのメインの演目となった。制作はパリのIRCAMであったので、その6月のポンピドーセンターでの収録がバイノーラル録音の映像として残った。
ここまで書いても分かるように、慣習的な催し物ではないので、聴衆は一体何がそこで体験できるのかが直ぐには分からない。勿論こうした芸術祭に出かける人は知的な好奇心が高く、新たな経験を期待して集う。どうしても玄人の割合も増える一方、通常の催し物以上に知識や経験よりも感性や洞察力が問われるところも多い。
それは上のヴィデオをダウンロードしておきながら今迄通して観ていなかった私自身さえにも言えて、催し物に行けば様々な情報を文字通り全身で受け取るのだが、既に生中継されたそれをオンデマンドとして如何に受け取るか。更にこの収録がヘッドフォーンでの視聴を推奨していることから、どうしても機会が必要であった。
一度通して、居眠りしながらも流してみて、少なくともインストレーションのネオン管の様なデジタル配置のパターン化されたその点灯の組み合わせ方と色合いが、一定のリズムと構造を感じさせて、ワーグナーテューバがふらふらと吹かれ、それがオリジナルの映画につけられたヘルマンの音楽を想起させるようなその心理的構造を想像させる音楽は、新たな次元で効果を上げていた。
新しい脱構造の音楽構造について既に言及したのだが、ここでも原作の映画の極一部が暗示されるように数回短く投射されるだけなのだが、なんとなくヒッチコックのスリリングさと落ちの様なものが築かれている。そこにこれまた専売特許である第一人者のエンゲル指揮の豪快な鞭が入ることろで一体何がと思わせる緊迫感は見事である。逆にそれによって、前半のだらだらと流れる部分の意味合いが明らかになってくる。
劇音楽とは何か、音楽の構造とは何かと考える時にこうしたエンゲルの指揮を体験することで多くのことが認知されるだろう。何故ティテュス・エンゲルが21世紀の前半を代表する指揮者であるかの根拠がそこにある。
指揮者でもあったハンス・ツェンダーがシューベルトを扱って作品にしたり、上の様なだらだらのプロジェクターがつけられたりの企画は前世紀からあった。しかしそこにはどうしても付き纏っていたノヴァーリス賛などの浪漫があったのだが、ここには微塵もない。
ヴィーンでの公演は2021年ということで、コロナ下で行われたことで、直接の影響は限られていたかもしれない。しかし指揮者アバドが始めたこうした新しい音楽への音楽祭はこうして漸く新ヴィーン楽派の一世紀後のその音楽芸術の形が示された感がある。モダーンとされる音楽祭でこうした成功が祝されるのは取り分け意味深いことであろう。
AROTIN & SERGHEI / BRICE PAUSET: Vertigo / Infinite Screen - Klangforum / Ircam / Wiener Konzerthaus
AROTIN & SERGHEI Infinite Light Columns / Infinite Screen, IRCAM - Centre Pompidou
参照:
追従を許さない様式 2024-02-25 | 文化一般
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般
ここまで書いても分かるように、慣習的な催し物ではないので、聴衆は一体何がそこで体験できるのかが直ぐには分からない。勿論こうした芸術祭に出かける人は知的な好奇心が高く、新たな経験を期待して集う。どうしても玄人の割合も増える一方、通常の催し物以上に知識や経験よりも感性や洞察力が問われるところも多い。
それは上のヴィデオをダウンロードしておきながら今迄通して観ていなかった私自身さえにも言えて、催し物に行けば様々な情報を文字通り全身で受け取るのだが、既に生中継されたそれをオンデマンドとして如何に受け取るか。更にこの収録がヘッドフォーンでの視聴を推奨していることから、どうしても機会が必要であった。
一度通して、居眠りしながらも流してみて、少なくともインストレーションのネオン管の様なデジタル配置のパターン化されたその点灯の組み合わせ方と色合いが、一定のリズムと構造を感じさせて、ワーグナーテューバがふらふらと吹かれ、それがオリジナルの映画につけられたヘルマンの音楽を想起させるようなその心理的構造を想像させる音楽は、新たな次元で効果を上げていた。
新しい脱構造の音楽構造について既に言及したのだが、ここでも原作の映画の極一部が暗示されるように数回短く投射されるだけなのだが、なんとなくヒッチコックのスリリングさと落ちの様なものが築かれている。そこにこれまた専売特許である第一人者のエンゲル指揮の豪快な鞭が入ることろで一体何がと思わせる緊迫感は見事である。逆にそれによって、前半のだらだらと流れる部分の意味合いが明らかになってくる。
劇音楽とは何か、音楽の構造とは何かと考える時にこうしたエンゲルの指揮を体験することで多くのことが認知されるだろう。何故ティテュス・エンゲルが21世紀の前半を代表する指揮者であるかの根拠がそこにある。
指揮者でもあったハンス・ツェンダーがシューベルトを扱って作品にしたり、上の様なだらだらのプロジェクターがつけられたりの企画は前世紀からあった。しかしそこにはどうしても付き纏っていたノヴァーリス賛などの浪漫があったのだが、ここには微塵もない。
ヴィーンでの公演は2021年ということで、コロナ下で行われたことで、直接の影響は限られていたかもしれない。しかし指揮者アバドが始めたこうした新しい音楽への音楽祭はこうして漸く新ヴィーン楽派の一世紀後のその音楽芸術の形が示された感がある。モダーンとされる音楽祭でこうした成功が祝されるのは取り分け意味深いことであろう。
AROTIN & SERGHEI / BRICE PAUSET: Vertigo / Infinite Screen - Klangforum / Ircam / Wiener Konzerthaus
AROTIN & SERGHEI Infinite Light Columns / Infinite Screen, IRCAM - Centre Pompidou
参照:
追従を許さない様式 2024-02-25 | 文化一般
ハリボ風「独逸の響き」 2015-07-27 | 文化一般