(承前)今回の制作で最も感動したのはポルポーラのその音楽だった。恐らく母音の当て方の話しはその根源にあるかもしれない。バロック後期の長短の調のシステムが誘う色合いだ。その和声に特徴があって、声の調子が変わる様に音楽が色合いを添える。あのイタリア語の響きが変わる様に作曲されている。新聞評にもダカーポへの裁量に言及されていて、ただでも長いオペラが長くなるのだが、繰り返しにはテロップが隠される効果もあり、よりその調子の移り変わりを待ちかねて確認する作業が楽しめる — 指揮者は経済性と表現する。ヘンデルにはあの唐突感はない。なぜならばそうしたイタリア語の声の調子替えが抑々ないからだ。
なるほどこうした符牒の替えは古典派以降は厭われたから、当然のことながらカストラートも希少となった時代には、こうした作風は上質とは思われなくなったのもよく分かる。今回の批評にも嘗ての大歌手ファルネリが初演時に歌った曲をファッジョーリが歌ったのをして十年前のナンシーでのウエテルからすれば衰えていてとあり、ヴィヴラートの連なりでメロディーラインが弱くなったりとの言及もあるのだが、全体としてのその息つくことのない長い歌唱は絶賛される。個人的には、恐らく往時はもう少し声にも張りがあって、鋭さもあったと思うのだが、そうした声の力や技巧よりも声を使っての表現力という事ではずば抜けていたと感じた。
手元の資料を調べると、フランクフルトの会ではカウンターテノールのジャロウスキ―は幾度も聴いており、又知人であるショルの歌唱もオペラでも聴いている。しかし、ファッジューリほどの表現の細やかさとその深みは知らない。ファルネリの歌自体は想像するしかないのだが、映画「ファルネリ」でのイメージが浸透して仕舞った影響はあるのかもしれない。因みにあの映画の音楽を担当していたというのが今回の指導者のエマニュエル・アイムという事のようで、この世界では第一人者である。
共演した初演時に大歌手セネジーノの歌ったウリセーのベノジァンは声もあり、当時の去勢された歌手がその体格によってはとても力強い声を出していたことを想像させるに十分であった。
ファッジューリとデュオを歌った若いニュージーランド出身のバルトリともザルツブルクで共演しているノナーエの声は素晴らしかった。成程批評にある様にまだそのテキストの明瞭性など磨くべきものがあるのは当然であるが、今回の公演ではその歌声や若々しい舞台姿を、ヴェテラン感溢れるファッジョーリと組ませたのは最大のキャスティングの勝利であった。
批評にある様にアイム指揮のアストレー楽団の演奏がモノトーンになる傾向があるとしてもやはり批評の様にその指揮は見事であって、リズム的な面白さとその和声の響きが全体の中でのテムポ取りと共に舞台と一体になる。まさしくバロック音楽劇場の指揮として、アーノンクールやヤコブス、ガーディナーなど様々聴いてきたがこれ程のバロック効果を上げる指揮者は知らず恐らくラモー周辺を得意とするクリスティーとはレパートリーも違って、代表的な指揮者になった。年齢も60歳過ぎには見えなくて、知って吃驚した。エンゲルもパリ近郊のバロック楽団を振っているとは知っているが、これだけの専門的な見識を持たずにはやはりバロック音楽の音楽劇場指揮も容易ならざるというのを実感させてくれた。餅は餅屋である。
OPÉRA | POLIFEMO | Bande-annonce
参照:
乾かないレチタティ―ヴ 2024-02-05 | 音
一先ずガラガラの席を 2022-11-02 | 雑感
なるほどこうした符牒の替えは古典派以降は厭われたから、当然のことながらカストラートも希少となった時代には、こうした作風は上質とは思われなくなったのもよく分かる。今回の批評にも嘗ての大歌手ファルネリが初演時に歌った曲をファッジョーリが歌ったのをして十年前のナンシーでのウエテルからすれば衰えていてとあり、ヴィヴラートの連なりでメロディーラインが弱くなったりとの言及もあるのだが、全体としてのその息つくことのない長い歌唱は絶賛される。個人的には、恐らく往時はもう少し声にも張りがあって、鋭さもあったと思うのだが、そうした声の力や技巧よりも声を使っての表現力という事ではずば抜けていたと感じた。
手元の資料を調べると、フランクフルトの会ではカウンターテノールのジャロウスキ―は幾度も聴いており、又知人であるショルの歌唱もオペラでも聴いている。しかし、ファッジューリほどの表現の細やかさとその深みは知らない。ファルネリの歌自体は想像するしかないのだが、映画「ファルネリ」でのイメージが浸透して仕舞った影響はあるのかもしれない。因みにあの映画の音楽を担当していたというのが今回の指導者のエマニュエル・アイムという事のようで、この世界では第一人者である。
共演した初演時に大歌手セネジーノの歌ったウリセーのベノジァンは声もあり、当時の去勢された歌手がその体格によってはとても力強い声を出していたことを想像させるに十分であった。
ファッジューリとデュオを歌った若いニュージーランド出身のバルトリともザルツブルクで共演しているノナーエの声は素晴らしかった。成程批評にある様にまだそのテキストの明瞭性など磨くべきものがあるのは当然であるが、今回の公演ではその歌声や若々しい舞台姿を、ヴェテラン感溢れるファッジョーリと組ませたのは最大のキャスティングの勝利であった。
批評にある様にアイム指揮のアストレー楽団の演奏がモノトーンになる傾向があるとしてもやはり批評の様にその指揮は見事であって、リズム的な面白さとその和声の響きが全体の中でのテムポ取りと共に舞台と一体になる。まさしくバロック音楽劇場の指揮として、アーノンクールやヤコブス、ガーディナーなど様々聴いてきたがこれ程のバロック効果を上げる指揮者は知らず恐らくラモー周辺を得意とするクリスティーとはレパートリーも違って、代表的な指揮者になった。年齢も60歳過ぎには見えなくて、知って吃驚した。エンゲルもパリ近郊のバロック楽団を振っているとは知っているが、これだけの専門的な見識を持たずにはやはりバロック音楽の音楽劇場指揮も容易ならざるというのを実感させてくれた。餅は餅屋である。
OPÉRA | POLIFEMO | Bande-annonce
参照:
乾かないレチタティ―ヴ 2024-02-05 | 音
一先ずガラガラの席を 2022-11-02 | 雑感