Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ただの天才音楽家の死

2024-02-10 | 文化一般
SNSでの小澤征爾死去第一報は11時30分頃だった。朝日新聞は日本時間の19時付けとなっている。先ずはオーストリアでお昼ごろに第一報が配信され出した。ドイツでは日本特派員のいるSWRも13時のニュースが第一報だった。通信社などBRなどが伝えたのはそれから後だった。フランスは比較的早かったようだ。

しかしフランクフルトアルゲマイネ新聞は15時過ぎには訃報記事を先ずはネット配信している。ヴェテランのコッホ氏が書いている。

副見出しは、多面的で直接的な舞踊的なエネルギーの指揮者、バーンスタインの熱狂とカラヤンの完璧を合一化した小澤征爾死すである。1989年のカラヤンの死後誰が頂点に立つかのメリーゴ-ラウンドとなった。スーパー指揮者で管理能力があり、カリスマ性もあり、年寄り過ぎずしかし経験豊かな指揮者として、マゼール、メータ、レヴァイン、アバド、ムーティ、ハイティンク、小澤が繰り返し上った。小澤は既に1987年にその権力闘争や情報戦に堪え切れずに脱落した一方、アバドに白羽の矢が立った ― 個人的印象からすれば、バレンボイムが動いていた。

そうした態度が、小澤への親近感を高めた。その形ややり方は、小澤は頂点の立場にあるべき存在であったが、独墺のレパートリーに縛り付けられるのを望まず、そこを諮らせようとした。それは彼の出所よりもその教育やオリエンティーリングによるものだった。それは、インド人でヴィーンでアバドと一緒にスヴァロフスキー門下として、古典派や浪漫派を学び、そしてシェーンベルクの楽派を学んだメータとは全く異なり、遠く欧州のそれから離れていたからだ。

バーンスタインの度を越えた熱狂は、指揮台上でのサーカス的なヴァイタリティ―とその多様性をものとした小澤において、日本的な自制で必ずしも結びつかなかった。その背景にカラヤンによる指導によって完璧性へ向かったとしている。

トロント後のサンフランシスコでのヒッピー文化や西海岸の多様性がその髪型や服装だけでなくてクロスオーヴァーのレパートリーに見られて、西欧の聖杯を持つでもない模倣にはしなかったとしている。70年代に彼の指揮を経験した者は、その侍と座敷わらしを併せ持ったような直截的な指揮に、画像記憶をした学究的な総譜からの耳と指揮による完璧性を勘違いした。ボストンでの長い活動のあとルーティン化は免れず。

そこでは、その舞踊的なエネルギーや唸りの自己解放までいつまでも若々しく活動したそうした指揮台上のショー的な面ともう一方ではクセナキス迄、リゲティ―や武満の初演、テューランガーリア交響曲の最初の録音、そして決して偶然ではなくてパリでの「アシジの聖フランシスコ」の初演は賞賛し尽くせない偉大な功績だった。

勿論ベルリン、ヴィーン、フランスや英国でのベルリオーズ、オネゲル、ストラヴィンスキーの模範的な演奏だけでなくて1984年からの日本での活躍の三大陸での活躍が、ヴィーンの記念碑的な「オネーギン」の上演を含めて何一つリング劇場の歴史に足跡を残さなかった原因と結論している ― 故柴田南雄が昭和時代に既に「腰を落ち着けることがなかった」とそれを指摘していた。そして小澤はただの音楽家だったと結んでいる。これは私がいつも区別している、演奏家、音楽家、芸術家の相違そのものを指している。



参照:
Er war ein Meister dreier Kontinente, GERHARD R. KOCH, FAZ vom 9.2.2024
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
達する聖フランシスコ 2023-05-29 | 音
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