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Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

北から張り出してくる寒気

2008-02-15 | 
久しぶりにまた冬らしくなった。朝から霧が立ち込めているが、初冬のような鬱陶しさはない。ヒーターをかければ、直射日光が無くとも、なかなか気持ち良い。

丁度一週間前には、今まで見た事もないほどに、ルートヴィッヒスハーフェンからスパイヤーまで、工場の煙突や原子力発電所の冷却塔から水蒸気が真っ直ぐと空高く上がっていた。

そして今、北海からバルト海上の高気圧が天候を支配しているようだが、寒冷前線の張り出しで、朝の霜が霧化したした気配で、一日中ガスは晴れなかった。一種の大気の潜りこみのような状態であろうか。
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出稼ぎ文化コメディー映画

2008-02-14 | アウトドーア・環境
トルコ語の「出稼ぎ」をキーワードにして、探していた映画のタイトル「メルセデス・モナムー」に巡り合えた。独仏文化放送波ARTEで嘗て観たものだ。途中から観て、最後まで観てしまい、録画出来なかったのをあとで後悔した映画である。

そのスプラスティックな展開とペーソスが強く印象に残るコメディーである。トルコ語原語版がいまYOUTUBEで観られる。吹き変えや字幕が無くとも、主役のイリアス・サルメンの演技は一流でその語りの内容は大体理解出来る。

粗筋は、トルコ最東部アナトニア地方からの典型的な出稼ぎ者(GURBETCILER)を描いているようで、アダレ・アガオグルの原作「Fikrimin Ince Gülü (Delicate Rose of My Mind/1976)」が仏独トルコ合作として映画化されている。

その舞台設定は、ドイツに出稼ぎに来た田舎へと、故郷に錦を飾り予てからの女性に求婚するため、道路清掃をするミュンヘンの町で買ったブロンド色のSクラスメルセデス350SEを走らせる道中ものである。街道の途中の風物やあとにして来た近代社会のドイツからの旅を、そのもの高級車が物質的な世界を代表して、前近代的な世界へと文化のギャップを越えていく物語となっている。

それゆえに、旅は順調にはかどる筈はなく、その悪態をつきながらの車中風景は、故郷から出稼ぎへの道程や、もしくは子供時代の回想が散りばめられる一人旅なのである。故郷へ近づくにつれての一種の興奮状態に、そのものスプラステックな展開となるのみならず、近代社会から離れるに従って、いよいよ物質的な衣装が一つ一つ脱がされて行き、そして故郷に戻る頃には….

一級の文化批評映画となっている。今世紀になってこうして初めてこの映画を見る機会になったと思うのだが、大分自分自身の見る視点が変わってきていることに気がつく。同じような時期に東独の終焉を描いた「ゴー・トラビー・ゴー」シリーズが話題になっていて、このメルセデス映画の真髄を見損なっていたような気さえするのである。特に以前は、この映画の終り方が気に入らなかったのが、今はとてもよいと感じるようになった。


追記:この映画を楽しむためには、当時のメルセデスコンパクトシリーズ、つまり現在のEシリーズがトルコ人車として、トラビが東独人の車として町に溢れ、屋根に荷物を積んで高速道路を走り回っていた状況を知らなければいけない。

邦名メルセデス、わが愛(いとしのハニーちゃん)、ベイ・オカン監督



参照:YOUTUBE
I Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 1/9
II Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 2/9 
III Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 3/9
IV Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 4/9
V Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 5/9
VI Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 6/9
VII Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 7/9
VIII Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 8/9
IX Sarı Mercedes - İlyas Salman Part 9/9

反面教師にみる立ち位置 [ 歴史・時事 ] / 2008-02-13
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反面教師にみる立ち位置

2008-02-13 | 歴史・時事
アンカラとベルリンとの外交問題は内政問題となってきた。メルケル首相が「私はあなた方の首相よ」と言うように、連邦国内にいる十万人を越えるトルコ系ドイツ人に直接語りかける必要が出てきたのは、百七十万のドイツに暮らすトルコ人にエルドガン首相がアンカラの次期選挙を睨んで綱引きを始めたからと言っても良い。

SPDや緑の党では、長くトルコ人票は配慮されてきたが、キリスト教民主同盟ではこれに充分に対応して来なかったばかりか、同化への政治的圧力をかけ続けて来たことが、今回のルートヴィヒスハーフェンでの火災に端を発するトルコでの政治的なネガティヴキャンペーンとなっていて、それを利用するポピュリスト、エルドガン首相の政党AKPが背後に暗躍しているようなのである。

しかし、この問題は世界の各地で勃興するナショナリストの国際政治地図として片付けられる問題ではなく、イスラム文化ともしくは非西欧文化と西欧文化との確執になっているのが解決の困難性となっている。

エルドガン首相は、欧州民主トルコ会議(UETD)の、その五万人のトルコ人会員をオランダやフランス各国からケルンのアリーナに集め、推定三十万オイロをトルコ大使館などから集金して決起総大会を開催した。

「統合は推奨されるが、同化は人間性崩壊である」と厳しく非難し、「トルコは、君を誇りに思う」と西欧における小トルコの砦を高らかに宣言し、ドイツの統合政策を非難し、トルコ語によるドイツでの高等教育の実施をメルケル首相に対しても再三に渡って繰り返したその意味は途轍もなく大きい。トルコ語では統合を「UYUM」と呼び、これは調和することを意味して統合される事ではないようだ。

当然のことながら、それは「統合」という意味の「西欧のイスラム化」への試みである以上に、小トルコはドイツ社会でそのまま隔離・確執を招きゲットー化への流れを加速させる。トルコ人が気勢を挙げるように「昨日はユダヤ人、明日はイスラム」となるのが予想されるのである。

そして、我々はそこではたと気が付くのである。我々の立ち位置は、一体何処にあるのか?主義主張から解放されて、そう1968年の文化革命を経て我々は今何処にいるのか?

一体、我々は、最大公約数的に多文化主義の何を受け入れることが出来るのか?ここでも書いたように、もしくはカンタベリー主教が発言,したようにモスリムにはシャリアが必要ならば、それを受けいれろと言う反面教師なのである。

五百万人にのぼる西欧のトルコ人は、これに対して文化的に何を受け入れ、なにを提供するのだろう?

西欧型社会主義思想は、そのソフト面においても役に立たないことは自明である。ケルンにあるUEDT本部の開設式にはエルドガンとゲルハルト・シュレーダーが並んだ。そして、その日和見なビジネスマン外交の結果に対して前首相は何を言うのか。在独トルコ人出稼ぎ者(GURBETCI)を積極的にドイツ国籍化して一体何が得られたのだろう?最終的には、如何なる民族であろうとも少数民族保護をしなければいけなくなるのである。

CSU党首フーバーは、「エルドガンの考えは統合への害毒である」と、またSPDの国会議員ラレ・アクギューンは、「子供達の体はここで、気持ちはトルコにおいておきたいのだ」と批判する。550人のトルコからのトルコ語の教師にヴィザを与え、五十万人の生徒がトルコ語で授業を受けるドイツ連邦共和国は既に小トルコ化していると指摘される。

そうした事態を避けるために連邦共和国は存続を懸けなければいけない。そのためには、自己犠牲も避けられない。ありとあらゆる政教分離を貫くことこそドイツ連邦共和国の使命ではないだろうか。必要ならば教室から十字架を外さなければならない。

信仰の自由は、あくまでも個人の問題である。しかしその社会のなかでは、トルコ人の五万人の会員を持つ人種主義的宗教的団体ミリゲェーリュスは公安の監視下に置かれる。共産主義者と同じように監視されなければいけないのは当然なのである。エルドガンは、同じようにトルコでクルド民族を監視して尊重するのだろうか?



参照:
„Ich bin auch die Kanzlerin der Türken“,
Die türkische Frage“, Berthold Kohler,
Integration ja, Assimilation nein, Reiner Hermann, FAZ vom 12.2.08
Assimilierung „Verbrechen gegen die Menschlichkeit“, FAZ vom 11.2.08
中野宅にて―日本のイスラム化 (伊斯蘭文化のホームページ)
熱い猜疑心の過熱と着火 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-09
安全保障に反する支援 [ マスメディア批評 ] / 2008-02-10
出稼ぎ文化コメディー映画 [ アウトドーア・環境 ] / 2008-02-14
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牛褒め上手の子を褒める

2008-02-12 | 生活
子供のお客さんがあった。一歳十か月である。生後暫らくして、母親から電話ではその様子を聞いていた。大きな青い目をした男の子とは聞いていたが、父親をよく知らないので、イメージは湧き難かった。

目を手で隠しながら初体面する表情からして、完全にこちらの予想を上回った人物像を示してくれて、聞くところ玄関を入るなり「わあ、すごい家だ」と叫んで子供にすればふわふわな絨毯にご満悦だったらしい。

こちらと言えば、出産のお祝いもしていないので、昨晩からあれやこれやと幾ら包んでやれば良いかなと小さな金にも思案のし通しで、夜も眠れなかったのである。生来のけちな性分に幾らか気前良くみせたいという色気があって、「これだけのワインを我慢すればよいか」などと思いに伏せってしまう人間なのである。

兎に角、機嫌の良い表情の豊かな男の子で、これまた少し無理して買った「牛裏出し革ソファー」の大きな方に母親から離れて座るなり、「これはいいや」と言うのである。

こちらは、子供も居なくあまり子供好きではなくとも、大抵は母親の手前、落語の「子褒め」宜しく、褒めて点数を稼ぐのであるが、何もかも子供に先越されてしまった。こちらは古典の「子褒め」で挑んだのだが、子供の方はこれまた上方落語の「牛褒め」で返したことになる。

こうなると、こちらは相好を崩れっぱなしのみならず財布の紐も緩みっぱなしである。封筒に入れた札を数えながら渡すと、母親は「それはいけません」と固辞するが、子供にやるのだからと言うと、母親は「貰う?」と子供に尋ね、これまた子供は「うん」とはきはきと答える。

封筒の中身を見て「お金」と言い、しっかり握って最後まで放さない。ふと時計を見ると時給としては、こちらと変わらない稼ぎをしている。そもそも、こましゃくれた子供は嫌いで、そのようなときはいつも親馬鹿の顔を見ながら子供の将来を憂うのだが、今回はこちらが人間的に完全に劣っている感じで気遅れしてしまった。

大枚叩いたマウスまで褒められそうになったので、流石にこちらも早めに警戒して「コンピュータープロフェッショナル」と持ち上げておいたが、道路を通るトラックの音に耳をそば立たせ「トラック」と言い当てるのを見ているとまたまた居心地が悪くなる。

ポーランド語とのバイリンガルであるようだが、標準ドイツ語を覚える時期で耳からどんどんと入ってきているようで最近は抽象言語「恐れ」という言葉を覚えて好んで使っているらしい。

先日のブッレッツェルを勧めると、嬉しそうにミニカー共々持込のゴム菓子「ハリボ」と皿に乗せて、それも生え揃って強そうな前歯で噛み切り歯脆さを楽しむ。ホワイトハウスのいい歳とった息子よりも余程賢いに違いない。それに、屑をソファーの上にこぼすようなことはしない見事さなのである。

母親も妊娠を知らずにつわりを感じたそのときを覚えているのだが、隣町からやってくる間に、どこかで時間が飛んでしまったことがあって、その感覚の連続性と非連続性を床の上に座って話したことを思い出した。因みに父親は、昨年十月ごろから独立して、ソーラーシステムを扱っているらしい。
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月謝先払いする酔狂かな

2008-02-11 | ワイン
ブュルックリン・ヴォルフのグーツヴァインをオルツヴァインに続けて空けた。アルコール度12.5は、その価格8.6ユーロからして満足のいく濃さである。

試飲の際気になっていた苦さは、やはり感じるのだが、抜栓直後はオイルを交えたような香りが強くあまり感じなかった。特に食事には、全く苦にならず、むしろ酸味がルッパーツベルガーよりも表に出て快適なのである。

その辺の按配は、如何に高級ワインと言えども食事の相伴と考えると、その評価の与え方が一定しない。試飲の節に話題となっていた、新鮮なワインの強さというか独特の自己主張の仕方が問題なのだ。

食後に口を濯いでから再び飲み始めるとやはり苦味が気になった。その後、醸造責任者と顔を合わせた節に、ルッパーツベルクの甘みとグーツヴァインの苦味について尋ねた。

前者の印象である丸い酸は、実際は2007年度の傾向として充分に尖りがあり、長持ちするワインの特長があると言うのだ。その酸の性質は、個人的にあまり覚えは無いので大変勉強になるヴィンテージだと思っている。そして、その甘みは、その酸とのバランスだけでなく若干はQbAとしての性質によるとしたが、後者の苦味を含めて瓶詰め直後はまだまだワインシックにかかっており、二三週間してからでないと判断は下せないと言われた。

その点から、2007年産のワインを既に15種類ほどは試しているが、全てにそれが当てはまるかと思うと、一見無駄なようなもしくは大変為になる月謝を払っているようなものである。確かに各醸造所やその様々なワインに共通した酸のイメージは、落ち着いていない印象があったのは事実である。これは二月のテーマとなりそうである。

全く話題は変わるが料理に使うヴィーンのドナウ河畔のグリューナー・フェルトリナーのワインが2007年産になっていた。これを茸のスパゲッティに香り付けするついでに試すと予想通り新鮮で再び飲用に堪えるのである。1ユーロ49のこの価値は高いと、食前に飲んでいた6.5ユーロのリースリングのリッターヴァインからこれを変えて飲む。すると、食前酒よりも味がイタリアの白ワインに似ていて、パスタに合って巧いと感激して、杯を進める。しかし、案の定食事が終わる頃には、グラスに残る液体が恨めしくなるのである。

この差が高貴なリースリング葡萄の酒とその他もろもろの白い葡萄の酒との違いなのである。いつまでも飲み飽きない酒こそがリースリングワインなのである。



注ぎ置きの

鮮やかな酒

三口まで

虚酔
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安全保障に反する支援

2008-02-10 | マスメディア批評
ISAF(国際治安支援部隊)のアフガニスタン派兵の問題に関して興味深い記事を読んだ。ライス女史などがNATOの会議の席上、ドイツなどに向けて一層の軍事的国際協力求めたようが、ドイツ連邦国防軍としてのあり方を改めて討議しないといけないとするNATOブリュッセルの政治局責任者ミヒャエル・リューレの紙面一面に及ぶ投稿記事である。

「ドイツがアフガニスタンに派兵するということは、脅迫や危機や国の安全保障の問題ではないのだ」と断定して、「武装した開発援助というのは、もはや虚像でしかない」、それにも拘らず「クラウゼヴィッツの国には、時機を得た議論は見られない」と訴える。

氏の立場からの主張と訴えは全文を翻訳しなければ正確に伝えることは難しいが、それを読んでそこから考えさせられた点を要約する。アナーキストに近い平和主義者から国連信仰に近いタカ派を通じて、またスーパーナショナルな自由主義者から平和信仰の社会民主主義者までに問いかけられている現在の世界が直面している安全保障への視座の一端をここに示せることが出来るだろうか。

ドイツ連邦共和国が1994年に憲法判断を仰いで、コソヴォ紛争に派兵したことは、現在もネット上でも、特に平和主義者やその信仰者からの批判が多い。当然ながら、軍事的な行動には犠牲を伴うが、その例外的な派兵は欧州の安全保障上必要であったと今考えても間違いないだろう。そして、この論文においてもドイツ連邦共和国防軍がボスニアとコソヴォで好意的に受け入れられ、事故による犠牲者しか出していないことが証明として示される。何よりも人道的な派兵の意味は、あの激しい国会での議論やリベラルな緑の党の党大会での騒ぎを経て、国民の自覚の中に刻まれている。

そして、その後短期間のコンゴ駐留や、レバノンでの安全な任務を果たし、今やEUの、NATOの中でドイツ国防軍は最も重要な派遣軍事力となって、バルカン半島からアフガニスタン、ホーン岬からレバノン沿岸まで、その部隊は展開している。

バルカン半島への派兵にてルビコン河を渡った。そして、アフガニスタン派兵は新たなルビコンを渡ることになるのだと言う。しかし、国民も国会も政府もそれどころか国防の責任者ですらそれだけの意識が無いことを警告している。

それはなぜか?そこには、所謂ピースキーピングとしての軍事介入の意味と安全保障の国防の意味の混同があるらしい。つまり、従来の武装した開発援助なり平和維持においては、元来派兵される国際軍は紛争当事者で無く、あくまでも第三者であったが、米国の主張するイスラムテロリストとの戦いは紛争当事者でしかないと言うのである。

開発援助のためにダムを作り学校を作ることこそが、タリバンやイスラム原理主義者と戦うことになるとする、西欧社会民主主義者の信念と信仰こそがテロリストの攻撃対象となるとして、そこで開発援助も平和維持もお互いに矛盾すると言う考え方である。

つまり、「世界への貢献」こそがイスラム原理主義者との戦いの当事者となることであり、それは「世界への貢献」に軍事介入する当事国の安全保障政策と相反することとなる。更に、ドイツ連邦共和国国防軍のハード面の老朽化は激しく、今後こうした「世界の警官」としての軍事的貢献は不可能とするのが専門家の意見だと言う。

そして、ここには安全保障を軍事・外交・内政などのあらゆる政治活動を組み合わせた考え方が一般化していて、社会工学として軍事介入が予算化されている事態は、軍事介入に批判的な従来の国防や安全保障の専門家にとっても根拠となっていることが指摘される。当然のことながらそうした軍事介入は、直接の軍事的な反撃ではなく核武装による攻撃どころか近代社会のネットやエレクトロニクスの社会基盤への攻撃が予想されるために、国防軍が国内で活動する事態が構想されていることをも指している。そこでは、平和的な紛争解決と総合的な安全保障とが背中合わせとなっているのである。

テロ被害にあった合衆国への義理でアフガニスタンに派兵している国防軍の意味と今後の不可能な軍事的国際貢献の現状をもって、本格的に議論される必要性を主張している。それが、本当の安全保障政策であることは間違いない。

国際会議において、判らない英語の同時通訳のヘッドフォーンを外し、ニタ笑いして七千人の派兵を決める国防担当者の無責任さを問うている。



参照:
Am Rubikon der Kampfeinsätze, Michael Rühle, FAZ vom 4.2.08
Kurzmeldungen zur Friedens- und Sicherheitspolitik,
Winfried Nachtwei (Bündnis 90/Die Grünen)
グローバリズムの領域侵犯の危険 [ 歴史・時事 ] / 2004-12-10
保守的な社会民主主義 [ 歴史・時事 ] / 2007-11-13
脱資本主義へのモラール [ マスメディア批評 ] / 2006-05-16
人のためになる経済 [ 文学・思想 ] / 2005-04-11
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熱い猜疑心の過熱と着火

2008-02-09 | マスメディア批評
ここ暫らくの新聞記事などじっくり読んで整理したいものが多い。ルートヴィヒスハーフェンでのトルコ人火事焼死も第一報から社会問題化する気配はあったが、外交問題となったのには驚いた。

昨日曜日の市内の火事で、死者九人は激しい空爆を受けた約二十五万人を誇る同市内での戦後最悪の火事となった。当日は家の前をカーニヴァルの行進が通るので招かれた客人を含めて通常以上の人間が建造物にいたようで被害を大きくしたらしい。

住人である二人の子供の目撃や前々からの脅迫電話を伝える情報もあることから、極右の狂人の放火の疑いも持たれ、大問題となったゾーリンゲンでのトルコ人焼き打ちの事件と重ねられた過熱報道がトルコ国内で反独感情に火をつけたようだ。

そしてそれが地元のトルコ人社会にも飛び火して、サボタージュをしたとされる有志消防団までが危険に曝されて、警察の護衛を受けたとされる。

現場にやって来たトルコ政府エルドアン首相は、トルコの大学での女子学生の頭巾を認めるなどの内政問題を抱えており、余計にこの事件を政治問題化したがっていると言われている。ルートヴィクスハーフェンにて、「我々は双方とも一神教を信ずる」と今後の友好関係を強調するのが今のアンカラの政治姿勢を示唆している。

さらに、ヘッセン首相ローラント・コッホの選挙前の移民に対する問題発言は、本来は政敵であるラインラントプファルツ首相SPD代表のクルト・ベックの「早期の事故判定」をも外交問題とする国際状況を醸し出したようである。

特にYOUTUBEで観られるような救助消火作業のサボタージュ指摘は、その実状よりも政治的な煽りが前面に出ているようで、ここにもアンカラの問題が映しだされているようにしか見えない。

消防救助活動における実際の初動活動の遅れはなんとも言えないが、その時刻からしてカーニヴァルに待機していた者が殆どであろうし、態々遅れて活動に入る状況などは考えられない。更に映像を見る限り、アマチュアが初期のものを映したものは皆無で、一挙に下階からの炎が上階を包んでいる様子で、既に火事が認知された時点で火が廻っていたのは頷ける。

階段が焼け落ちて、三四分試みたと言う中からの救助作業が出来なかったとするのも、木造の階段であれば納得出来る。しかし、昼間に突然これほど火の手が挙がったのは、ガスや油などの発火しか考えられないので、原因は建造物全体の倒壊の危機が避けられてから解明されるだろう。

それにしても、トルコの恐らく近親者などの様子を映す映像を見ると、放火されて見殺しにされたと信じた様子を伝えるトルコのメディアの報道の過熱が強く窺える。

米国の同盟関係にあるトルコのこうした様々な映像を観るだけで、如何に米国風民主主義や西欧社会主義風民主主義がこれらの諸国に容易に根付く可能性が殆ど無いことが知れるのではないだろうか?

因みに犠牲になった家族らは、イスラム・アレフ派に属し、これはドイツ国内で八十万人居るとされるリベラルな信仰グループでトルコ本国では正式に認められていない。つまり、今回急遽放送中止になったSWRのTV事件簿で取り上げられるような、リベラルな二世と狂信的な本国からお迎えされたトルコ人妻などの家庭にしばしば起きる、アジア的不条理の世界での家族不和による近親殺害や家族心中などとはあまり関係ないようである。それだからこそカーニヴァルの行列を高みの見物としようとして客人を集めて楽しみにしていたのかと思うと、犠牲者をはじめ被災者には大変お気の毒でもあり、原因究明が待たれる。



参照:
Ludwigshafen - 9 Tote bei Hausbrand
Ludwigshafen - 9 Tote bei Hausbrand 2
Großbrand in Ludwigshafen
Neun Tote bei Brand in Ludwigshafen am 3.02.08
Ludwigshafen - Almanya'daki yangın - Erdoğan
Ludwigshafen - Almanya'daki yangın -ikinci Solingen vakasi mi
Ludwigshafen - Almanya`da ölen ailenin ardinda kalanlar
ブレッツェルピーの脚質 [ 生活 ] / 2008-02-07
ドイツ語単語の履修義務 [ 女 ] / 2007-07-16
文化に見合った法秩序 [ 文化一般 ] / 2007-07-06
法に於ける信教の自由 [ 歴史・時事 ] / 2007-06-23
民主主義の政治モラル [ 女 ] / 2007-05-05
映像投稿ポータルの価値 [ マスメディア批評 ] / 2007-03-20
鮨に食い尽くされた鮪 [ アウトドーア・環境 ] / 2006-08-27
土耳古系人の信条告白 [ 歴史・時事 ] / 2006-05-01
お得意さん向けの壁 [ 雑感 ] / 2005-04-14
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模範的オルツヴァイン

2008-02-08 | ワイン
今週購入の2007年産のワインをじっくり賞味する。ブュルクリン・ヴォルフ醸造所のルッパーツベルク産のリースリングである。

戦後の民主化されたドイツワインの指導的立場にあったことは、断わるまでもないが、バイオダイナミックスを信奉するA・クリストマン醸造所のシュテファン・クリストマンが、後継としてVDPの会長の座についた事から、再びドイツワインの模範を期待される立場となったドイツ最大手の個人醸造所である。

上のワインについて触れる前に、それが属する先ずはVDPのカテゴリーを説明しておく。ルッパーツベルクというの名が示す通り、これはオルツヴァイン(ORTSWEIN)と呼ばれるカテゴリーである。

その規定は、所謂グーツワインとは変わらなく、VDP推薦の伝統的で名産の葡萄種が少なくとも八割方を占めている地域が限定され、一ヘクタール当たり最高75ヘクトリッター以下の収穫率に切り詰められなければいけない。

つまり、ルッパーツベルクを命名するということはリースリングヴァインでなければいけないのである。そしてその地所から出来上がる葡萄の特徴は、ここでも度々繰り返している。

さて上のワインの特徴は、何よりも丸みのある酸と優しい旨味である。アルコール度が12.5に至っているとは誰も思わないであろう。それにグランクリュ地所ライタープファードの特徴である青林檎系の香りと味が清々しさを与えつつ甘みを醸し出して、尚且つグランクリュのホーヘブルクやガイスビュール特有の味の濃くがある。

特にライタープファードは、十年以上を懸ける土地の浄化中であって、その地所からはグランクリュワインの醸造は自己規制されていることを考えれば、この瓶の中身に含まれている質の高さが想像出来るだろう。

アルコール度とその糖化からしてシュペートレーゼ級であるのは間違いないが、それ以上に凝縮度が高く驚いた。ドイツワインはこの方向に進むのかと少しショックを覚えた。

更に、今後は一切のリッターヴァインやセカンドラべル等の大量消費ワインを断念して、ラインナップはグーツヴァインから始まりオルツヴァイン、そして名地所の名を戴いたラーゲンヴァイン(LAGENWEIN)と並びグローセスゲヴァックス(GROSSES GEWAECHS)で頂点を築くカテゴリーに沿って商品が供給される。

そのように聞いて、何だ昔と同じではないかと思い出す者は、かなりリースリング愛飲年数が長い。以前の辛口や半辛口や甘口がなくなってスッキリしたのは更に昔に遡るだろう。

その分、極甘のトロッケンベーレンアウスレーゼなどは、2007年産も楽しみであるが、甘い辛いの判断以上に内容量の凝縮度こそがそのワインの価値を決めることになる。

上のワインに関して言うと、その酸の丸さがその量感を感じさせないので、化学的データを見ないとなんとも判断しかねる。しかし、小売価格の9.3ユーロはお買い得品に違いない。最終判断は醸造責任者にインタヴューしてからにしたい。


写真は、ルッパーツベルクの町を背景にした小さな丘の上のホーヘブルク周辺。
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ブレッツェルピーの脚質

2008-02-07 | 生活
結局、未明の四時近くまでCNNを観てしまった。結果は、番組開始の二時間以内には大勢は判明してしまっていたのだが、合衆国内部の時差によるカウントダウンなどがあるとどうしても待ち受けてしまう。

難しいお話は色々あるようだが、そのようなことをあまり考えれないほど寝不足となった。これまでの予備戦でも世界中の関心を集めることはあったが、子ブッシュ政権の世界に及ぼした影響を考えると、米国大統領の政治的基本姿勢には今まで以上に注目している。

世界の文化に与える影響は、誰がなるにしても今まで以上に大きいような気がするがどうであろうか?西洋が一枚今になって事に当たるだけでなく、先進工業国の置かれている世界の共通の政治課題を議論して行くその土台が築かれることが望まれる。

夜更かしグッズとしてピーナッツに加え、子ブッシュ大統領がホワイトハウスで喉に詰めて倒れたスナック菓子のブレッツェルの袋を開いたのである。塩からいのはしかたない。それでもピーナッツを混ぜて食すると柿の種ピーナッツのように止まらなくなるのである。別けて食べるよりもお腹に優しい感じがする。

あまり長寝も出来ずに、朝起きて、CNNをつけるついでに、ZDFのいつもの選挙の顔の面々がワシントンから伝えているのを聞いた。民主党の最終結果の代議員の数の差が百以下にあることで、僅少さとなる意味を説明していたようだ。

オバマ候補が尻上がりに力をつけて来ているので、ヒラリー候補よりも可能性は高まってきている感じはする。さらに、共和党の方も最終的な対戦相手によって、戦略を替えて行かないといけない難しさがあるとすると、大外回りから最後の直線にオバマが追い込みを懸けることが出来るのだろうか?

マサチューセッツ選挙区のCNNの解説は面白かったが、ブルーカラーに信頼されるヒラリー像も興味深い。ラテン系に食い込めないオバマ候補の事情は知らないが、トルコ系ドイツ国籍者を頭に描くと、必ずしも緑の党が支持される訳でなく、自由党の右翼などに近しいものが多いのは同じではないかと考えた。

このように世界が共通の課題に直面する時だからこそ、「教育や社会に平均化や持ち込むのは誤りで、均質化こそが罪悪に違いない」と考えながらカウチブレッツェルピーナッツと相成ったのだ。



参照:
Primaries and Caucuses (CNN)
Super Tuesdayの中学校(虹コンのサウダージ日記)
亀田の困った話?! (壺中山紫庵)
イングランド教育の不思議+イスラム雑感
(小林恭子の英国メディア・ウオッチ)
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謝肉祭の熟れた火曜日

2008-02-06 | 試飲百景
銀行に行くとカウンターは閉まっていた。町が静かだと思うと、カーニヴァルの火曜日であった。半ドンである。買いものはスーパーが開いていたので、静かな中を用が足せたが、パン屋でパンを取りに行くことは出来なかった。帰りについでに醸造所を覘く。

こちらも思い掛けなく週前半から店を開けるようになって、さらに2007年度産が店頭に並んでいた。昨日から売り始めたと言う。

ピノノワールを楽しんでいた英国人の二人組みをやり過ごす。いよいよ、2007年産のグーツヴァインから始める。途中、夫婦つれが入ってきていたので、旦那でなく奥様と試飲をご一緒する。

オイリーな匂いは、ヴァッヘンハイムからバート・デュルクハイム間に広がるケーニックスヴィンゲルト、フックスマンテル、マンデルガルテン、ルーギスガルテンなどが交じっているようだ。気になった苦味が昨日飲んだ安物のリッターヴァインと似ている。手摘みでもこのような味が出るとするとその原因は?

そうこう考えている内に、奥様は次のルッパーツベルク・リースリングを試して、甘いと仰る。それで、熟れたワインを持ってこさせる。私がこれから試そうと思う、ルッパーツブルクを片付けられてはいけない。もう一度もってこさせて、じっくりと香りを嗅ぐのだ。

香りも違うが味も違う。しかし、直前にご婦人に甘いと言われるとどうしても気になるのだ。「甘いといえば甘い」。確かに2007年産は、酸が丸い分、甘みを感じる傾向があるかも知れない。その分アルコール度も12.5度と高い。

奥様は、熟れた2005年産の古い葡萄から作ったリースリングを、お気に召されたようである。緊張して力んでワインを試すこちらの横顔を、恐らく口元を大きな目で睨まれる。そちらを向くと、まるで遠くを見ているかように焦点を変えられる。そうなるとどうしても気になってしまう。

「失礼ですが、甘いと仰いましたね。糖が多すぎますか?それとも、酸が弱いからバランスが悪いと思われるのでしょうか?」

「いえ、そうじゃないの。フルーティー過ぎると言っているの」

「なるほど、新しいワインですからね」

「ホラ、こちらのが好いわよ」と声を潜める。

それに対抗するかのように少し大きな声で、「分かります。新し過ぎるのと、熟れたのとは全く違いますからね。私もそちらを試してみます」ときっぱり。

すると奥様は、すこしウインク気味に「そうしなさい。こちらの方が好いわよ」とまた声を潜める。横にいた筈のご主人は完全に黒子状態である。

またまた声を上げて、「なにも 良 い ワインは、 新 し く な い と いけない訳ではないですからね」と敢然と言い放つ。

奥様は、「さ か な に は、 こ の ワ イ ン よ」といよいよコケットに仰るのだ。

こちらは最後まで相好を崩さずにいる。奥様は、帰りがけに背中を向けながら、ご主人よりも大きな声で間をおいて「アウフ、ヴィーダーゼン」と、わざわざこちらに張りのある大きな声でご挨拶なさる。

ご主人も小柄で少し老けて見えるが、彼女が特に後妻さんとは思われない。奥様に試飲をさせてワインを選ばせる、自らは運転を心がける、専門職風の恐らく開業医師風の穏やかそうなしかしどこか弱弱しい声のご主人である。奥様も元看護婦さんと言う雰囲気とは程遠い元「医者のお嬢さん」風である。

今後の発売日程など店の者に聞くと同時に、試飲台の上に出ている英国人が試したピノノワールを舐めて、自宅でじっくり試飲のために上の三本を購入する。二本目に飲んだルッパーツベルガーは、若々しくつとに素晴らしい。ライタープファードやホーヘブルクなどが含めれている。青林檎の味もあり香りもそしてふくよかだ。そしてなによりも果実風味に富んでいる。

当然のこと三本目の2005年産の熟れかけた味のあるグーツヴァインも忘れずに購入した。店のものに聞いた。

「後一年ぐらいは楽しめるかな」、「そりゃ、なんとか」

奥様のイニシャティヴで事が皆すんなりと進んだようである。昨日のローゼンモンタークの朝焼けは情念に満ちあふれていた。
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硬くクネーデルンする

2008-02-05 | 料理
レバークネーデルについて質問があった。調べて見ると最もスタンダードな調理例の写真がなかった。ザウワークラウトを温めるついでにその上に乗せてレバー団子を温めている。

地方によっては、玉葱を炒めてソースにしてこの上に乗せるのが最も代表的な調理例かもしれない。プファルツでは、これとブラートヴルストとザウマーゲンの三点セットをザウワークラウトにつけ合わせるとプフェルツァーテラーとなる。

レバークネーデルには、大きく二種類あるように思われる。一つは大きめでつなぎが多いのか火のかけると直ぐ壊れやすくなるタイプである。これはマッシュポテトを付け合せたり、スープに入れると食べ易い。もう一つは、小さめでつなぎが少なく硬く捏ねて(クネーデルンで)あるので、薄切りにして焼いたりするのに適す。後者はプファルツでも意外と手に入り難い。

写真にあるのは、後者の小振りタイプである。料理の可能性が多くお徳である。



参照:
厚切り咬筋と薄切り肝臓 [ 料理 ] / 2005-12-01
レバー団子/Der Leberknoedel [ 料理 ] / 2004-12-21
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誠心誠意批判するとは

2008-02-04 | ワイン
人の悪口を言うのは好まない性分である。出来る限り直接批判するようにする。勿論自らが直接間接にメディアで批評されると、誰でも神経を尖らす。特に勘違いと言うか適当に批判される時は弁解の必要を感じるのが普通である。

その点からも、ネットにおける批評は、当事者に聞こえる可能性も高く、出来るだけ誠実に批評しようと思う。誰でも気になるので、自ら世に問うたものをネットでリサーチするのは普通なのである。

ネットの場合は、商業や専門的な枠組みがないのは素晴らしいが、殆ど攻撃や嫉妬に当たる、同程度の理解の範疇での議論ではなくこき下ろしに近いものまであるので、正当な批判として受け取れないものも多いかもしれない。そうした愚の衆合に落ちいるだけでは、大衆を代表するオピニオンとはならないのみならず、同時に批判の対象になんら影響を与える事もない。だから批評は的を得ていなければなにもならない。

さて、先日から試したワインの感想を纏めておく。生産者にとっては、単純なワインと言っても、この批判は棘があるかも知れないが、そうした批判をしておくのは重要と思われる。

ゲオルク・モスバッハーのグーツヴァインと呼ばれる一リッターのワインは、決して悪くはない。しかし、どうしてももう一つ上の0.75リッターの本物のグーツリースリングを期待させてしまう商品である。食事を流しこむにはこれで誰も文句は言わぬだろうが、この醸造所らしいフルーティーな香りの特徴が殆ど無い。

勿論大量生産の商品とは異なるのだが、ミネラル質などの凝縮を感じさせないのは少し残念で、これだけを飲んで楽しむには些か物足りない。価格の5.4ユーロは他の醸造所の6.5ユーロとの差を際立たせている。反対に、この価格ならば他の格下の醸造所のものと比較できる。それでも、剥き出しのコルク栓を抜いてから三日ほど経っても充分に飲めるのは大したものだ。

それと比べて、買いつけた葡萄で作ったリースリングは、流石に質が落ちる。機械摘みらしい枝やらが交じったような味の悪さを久しぶりに自宅で飲む。巷で飲むこうしたワインは味を調えられて、悪酔いさせるように作っているのだが、これはその欠点をそのまま出しているだけそれほど悪くはないが、全く旨くもない。食事を流すには気にならないが、これをちびちびやっていると直ぐに嫌気がさす。

そこで、こうした安物を量飲む義務もないので、もう少し良いものを少量飲んだ方が幸せと言う結論に至る。その方が健康に良く、無駄もない。いやいや飲酒するなどは最低である。

さて、いよいよ最も廉価なミュラーテュルガウのリッターヴァインである。この葡種にもっている印象よりも酸が利いていて果実風味が良いと喜ぶのも束の間、如何せんリースリング種の風味や深みがなく、つまらなくなって行く。

緑家さんにコメントで鋭く指摘されたように、リースリング愛好家にとっては、「二割増しでもリースリングを買え」と言うぐらいリースリング種は高貴なのである。ミュラートュルガウをワイン酒場で選ぶ人は多い。リースリングの酸に弱いという地元の人も多く、これを好む人もいるがどうしても半辛口になる。決して悪い品種ではないが所詮つまらない品種なのである。

しかし、トマトソースや大蒜などのパスタを食するなら繊細なリースリングは惜しくて合わない。そう、ミュラートュルガウが良いのだ。そうした飲み別けも重要である。

結局、個人的には現時点では、グーツヴァインは酒代節約精神で買えるが、ミュラートュルガウならばスーパーでの手ごろで単純な南国イタリアワインなどとの競合となる。

勿論そうした判定は、個人個人によって事情が異なる事を前提として下すのである。だから、ワインに、その購買・競争力に相対的な点数などはつけれるでなく、つける意味もない。
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引き出しのグラフ配列

2008-02-03 | SNS・BLOG研究
BLOG「4文字33行」にて「CD整理」と題してその方法が語られていた。面白いと思ったので、自らの場合を、第三者的に解析紹介してみよう。

先ずは、子供時分からのLP盤の収集もあるので、その今後は増殖させないでおこうと考えているLP盤の分類について触れておく。EP盤やSP盤は身近に幾らかあったが収集することはなかった。

各々が作曲エポック順に並べられた所謂ジャンル別になっていて、交響楽(バロック組曲を含む)・管弦楽(声楽つき二十世紀音楽を含む)・電子音楽(実音変調を含む)・鍵盤楽曲(オルガン・ハープシコード・ピアノ・シンセサイザー)・室内楽(弦楽四重奏・三重奏・各種)・ソロ楽器を伴う協奏的楽曲・箱物(バロック・交響曲・室内楽・ピアノ・全集類・オペラ・ルネッサンス声楽・バロック宗教曲)・声楽付きオルガンを除く教会音楽・声楽曲・ポップス・ジャズとなっている。

ざっとみると、やはり古典派ロマン派・近現代音楽中心の分類方法であり、この中ではルネッサンス以前や二十世紀後半の音楽は少数派に過ぎない。

さて、CDの分類は、増殖・発展性があるので、出来るだけ適当にしているのだが、やはりこのLPの分類とは大分異なってきている。

先ず、コーナー別に見ていくと、ゴシック音楽・ルネッサンス音楽・バロックオペラ・バロック声楽が作曲のエポック毎に並んでいる。どうしても量的にルネッサンスではブルゴーニュ・フランドル楽派の並びが中心になっているのは否めない。

その横には今度は、二十世紀前半から中盤にかけて作曲された所謂二十世紀の古典が、その名称の如く器楽曲・弦楽四重奏曲・管弦楽曲が作曲家別に区分けされている。謂わば、上の古典的な音楽のジャンル別への繋がりを幾らか示した折衷的な分類であるが、作曲家が優先される傾向がある。そしてこうした群の扱いは作曲家の作曲の意図であることは言うまでもない。

次にオペラコーナーが別にあり二枚のDVDやCD-ROMが付いたHYBRID-CDが横に並んでいる。もう一つは、企画物など管弦楽団を使った録音類で、バロックから前古典派などからショスタコーヴィッチまでが並べられている。

もう一つのコーナーは、ピアノを中心とする器楽曲や室内楽に、二十世紀後半の音楽やサンプルやアーカイヴが並んでいる。下の方には幾つかのジャズやポップス類も納められている。相対的に見て、基本的にはLPを資料的に補う形となっているので、18世紀から20世紀への音楽作品を除くものが収集の中心となっている。

これに比べると書籍は遥かに複雑だ。アーカイヴや資料的な価値のあるもの棚に並べて取り易いように並べている他は、殆ど比喩ではなしに積んである。嘗ては、本棚に仕舞っておくのが好きであったが、積読が増えるに従い、分類があまり出来なくなってきている。

整理分類の基準はどうしてもヒエラルシーの活用でしかなく、上の例では18世紀から19世紀音楽に顕著に表れたカテゴリー別けに踏襲して、一方そうしたヒエラルシーを逸脱するパラメーターの多項化に伴ってポリヒエラルシーな分類方法が必要になってくる。

音楽の芸術的評価を齎す美学がこうした分類の差異を必要としているのに比べると、尚更書籍においては初めからそのような評価基準が成立しない。そのような事を合わせみて、その実際はその人の関心どころや視点を示すようで我ながら面白い。
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誕生日ワイン会の計画

2008-02-02 | 生活
地元の高級ワイン団体VDP-PFALZが百年祭を催すことは既に伝えた。詳細が判ってきて、この間に自らの誕生日祝いも一緒に片付けてしまおうと言う魂胆が湧いてきている。さらに今年訪れる人があれば出来るだけ、こうした特別な機会を利用したいと思っている。

先ずは三月初めの協会百歳の誕生日パーティーがワイン山のイルミネーションと共に開かれる。これは入場料を支払えばおなじみのワインが飲み放題で、ソフトドリンクなどと音楽バンドが込みとなっている。ワインだけで充分もとがとれるのは分っている。お祝い事である、この入場料では主催者の持ち出しであろう。

その翌日は、ダイデスハイムの五件の醸造所の門が開かれ、様々な試飲が晩まで続く。そしてイルミネーションが輝く夜には、また新たにワインと食事などが楽しめるのである。その日曜日にはイルミネーションと共に、SWRシュトッツガルト放送交響楽団のブラスセクションが二つに分れて野外曲を様々なグランクリュ地所で演奏する。そして近郊の五つの高級レストランがケータリングをして有料で腕を競う。

第二の山場は五月の例年ならばマイシュピッツェと呼ばれるバートデュルクハイムでのワイン見本市を挟む各醸造所の試飲会と催しものが並ぶ第三週第四週から六月のランダウでの見本市へかけての日々である。その詳細はまだ二月の終りまで待たなければいけないようであるが、この期間は例年以上に期待できる。

既に、ダイデスハイマーホッフでパーティーなどの予定が組まれているが、立食パーティーで99ユーロは高い。しかし、三月に開かれるバッサーマンヨルダン醸造所の貯蔵庫から引き出されるワインを交えての食事会一人390ユーロに比べれば大分廉い。それでも、嘗て四十年ものぐらいはただで飲ましてもらったことを考えると、幾ら資本家が全てを買い取って現金化するといっても、この価格はかなりのものである。

嘗ての最盛期、つまりヘルムート・コール首相が世界の主要元首を招き、奥さんが懇意にしていたレストランで一人130DMほどで二人をご馳走したことからすると、このダイデスハイマーホッフでの価格は決してお徳ではない気がする。

その他、ワインの感応の専門家であるシュテファン・ミヒラー博士、ドイツのソムリエのトレーナーであるマルティン・ダーティングなどの試飲セミナーや地所・醸造所見学など盛りだくさんである。

さて、なにをどのように企画しようか、考えどころである。



参照:
プァルツの真の文化遺産 [ ワイン ] / 2008-01-13
VDPプファルツへの期待 [ ワイン ] / 2008-01-07
グランクリュ解禁の反響 [ ワイン ] / 2007-09-14
平均化を避ける意識 [ ワイン ] / 2006-05-08
政治的棲み分けの土壌 [ アウトドーア・環境 ] / 2005-09-22
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袋を抱えた渡り学生寮

2008-02-01 | 生活
寒の戻りとは呼ばないのだろうが、また温度が冬らしくなって来た。おかしなものであれほど天気が良いときには散歩をさぼっていたのに、こうなると億劫ながら「エイ」と思い、出かけるのである。

今日は先日よりも風も強く手袋が暖かかった。適当に切り上げて、その足でザウマーゲンとレバークネーデルを取りに行く。散々歩きながら四ユーロで何が買えるかと計算していたのである。チーズの入ったザウマーゲンを久々に試す事にする。

家に戻ってくると、道端に車が停めてあり、荷物配達のおばさんがいた。受け取ってくれるかというので、宛名を聞いて受け取る。

「ここは、学生寮?」

「違うよ」

「普通の家、綺麗な家やね」

「うん」

なるほど、こちらは赤いチョッキに野球帽を被っているので学生さんに見えたのか?確かにこの家は、二百年前はショ糖技術の研修所であった訳で、そのような感じがするのだろう。更に出放っている住人は今でも一人者が多く、田舎としては比較的若い。

そして、こちらもきっと学生さんのような顔をしていたかと思うと少し嬉しくなるのである。最近は、流石に「そこの若いお兄ちゃん」とは呼ばれなくなったので、還暦の赤いちゃんちゃんこと間違われたのではないので喜ばなければいけない。

「良かった、これで今日は仕事終り!」

「ご苦労さん」
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