Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

自由や世界観の体臭

2008-04-17 | 生活
「のぞみ」には生まれて初めて乗った。新幹線には当初から乗っている。その前には「こだま」と呼ばれる特急にも乗車した記憶がある。しかし「ツバメ」は知らない。

「のぞみ」の最新車両N700を選んで乗車した。やはりまだ新しい車両なので比較的満席に近いと言うことだった。元々鉄道ファンでもなんでもないが、最新の科学技術には興味があり、一度ケンブリッジに滞在中の日本国鉄のエンジニアーにも「新幹線の伸び悩みの元凶」についてのお話を伺ったことがあり、その世界競争に興味がある。

一本しかないパンダグラフのみならず、その走行音などに違いを感じさせる。実際、外から見ていて新幹線は、在来線の日本の車両を代表するかのようにその猛烈な加速度で行き過ぎた軽量化を感じさせるのである。

例えば在来線における駅での特急通過速度は湘南地区などでは大変危険な高速であり、駅での死傷事故が盛んに言われているが、客観的にみてあの混雑した狭いプラットホームでは、もし国鉄の管理者責任を問われても諸外国の通例としては司法係争となるのではないかと思えるほどだ。

あの通勤混雑における日本の過密化と秩序は見ものである。そして、より進む車両の軽量化と恐ろしい加速度に度肝を抜かれた。

N700もネット上で試乗記が散見されるように、乗り心地において特に500系との比較において賛否両論ある。今回も帰路は後者に乗ったのでそれを踏まえて纏めると、N700は大変進化はしているようだが、手放しで絶賛は出来ないと思われる。

何よりもその走行感はグリーン車に隣り合わせる車両でも、殆ど中型の旅客機のようにエアーポケットに入るような浮き上がり感が強く、人に言わせるとトヨタ車のようなふわふわ感がある。これは、そのトヨタ車のように外から見ていても顕著な上下動は、そのサスペンションの作り方や車体の剛性のみならず空力上の考え方のような気がするのだがどうだろう。

兎に角、N700の走行感は大変気持ちが悪く、― 500系で比較的顕著な ― 執拗に避けられている車両間の連結きしみ同様に否定的に感じられる点である。その点から、ドイツのICEは重々しく、良く言えば安定感、悪く言うと鈍重さがあるように思われる。

それにしても新幹線が実営業上世界一加速減速度が大きいといわれる阪神電鉄のような加速度が必要なのか、また関西人の歩く速度の異常な速さはその経済地盤沈下とは反比例して更に早くなっているようで「なんだろう」と思わせる。阪急電鉄のブレーキの鉄の焼けたような匂いも構造的な問題のようで完全な環境破壊にしか思えない。

日本人の特に女性の歩く姿勢は、随分と向上したように思われる一方、今でもその足元からは「ぽっくり」のような歩行音が聞かれて、巷で散見されるそのマスクのように面白い。流石に百年以上の靴の使用の歴史や生活習慣の変化が変えたものは大きいように思われるが、その体臭のようなものはなかなか変わらないのも事実であろう。

そうした体臭こそが、例えば顕著である就寝前の入浴習慣や食生活などの生活習慣から来る民族的なものであるとも言えるが、結構そうしたものは変化するものとなかなか変化しないものとがあり、ライフスタイルや生活環境と相俟って国民性を基礎から形成している。

だからこそ、民族性や国民性などと言われるものは、元来上から定義するものではなく下から形成されているものが多い。ただ、銀座で偶々居合わせた日本で最も大阪弁の流暢な外国人女性を尻目に、「自由への闘争」や「世界観の形成」をアジテートした際にも、その前者に反応するか、後者に反応するかの性質はおそらく国民性と言われるもので、戦後教育を更に徹底させて自由主義教育を施すことで前者への意識を高め、民主主義教育を徹底させることは後者への覚醒を促すことになる。

再度技術的な洗練の方向や市場の好みの傾向に目を向けるとき、明らかに後者の世界観に左右されるものが多く、俗に言われる「文化の相違」がその環境の捉え方の相違によって生じていることに違いない。
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吹き溜まりのような島国

2008-04-16 | 
外国人観光のメッカの感のある鎌倉の大仏を見学出来て幸いであった。その膝元の参道の道の狭さや車の交通量に驚いて、空気の悪さに閉口した。

観光客相手の店が並ぶ中、何の変哲も無い蕎麦屋に飛び込み、簡単に昼食を済ませ、いよいよ大仏参観料を支払う。

なるほど野外に鎮座している大仏は、「大魔神」の様で、背中には窓が開いていて「魔神ガーZ」の様な風采を見せている。奈良の大仏よりも顔が良く見えるのが面白い。

同時に膝元に集まる人々の様子を観察したりしていると、天気も良くなかなかの観光となった。そのような週末の印象を思いながら、帰りのひかり号に小田原から乗り込むと、流石にジャパンレールパスを使っている外国人観光客に車両が埋め尽くされていた。

大グループは、ポーランド語を喋っているが、大変おとなしい。どうも楊子を口に銜えて歩き回ったりする添乗員は日本語が堪能のようだ。日本人妻を持つ「一寸不良外人」なのだろうか。

別な日に飲み屋で飲み始めると、紙箱を持った頬を赤く染めた娘がなにかをやっている。どうも金を集めているらしい。一瞬顔を見て宗教団体の勧誘かと思ったが、その界隈では「マッチ箱の少女」と呼ばれているらしい。

本人に質した訳ではないが、その丸顔の愛らしい顔つきからして東欧系の少女なのだろう。オーソドックスでなくフランシスカーナなのだろうか?こうした事情は何とも不可解だが、托鉢をするブロンド娘はプロテスタントの国々では殆ど見かけない。

イタリアの交差点に集まる物乞いにしてもいかにもジプシー風の者が多く、フランスのそれも少し違う気がする。確か、駅前でも外国人が新聞を売っていたような気がするので、日本は中国や朝鮮半島からの平時は目立たない同化している外国人を含めると世界の吹き溜まりの感がある。

それも経済的に地盤沈下が激しい関西に見られるとなるとやはり日本の経済力と社会の特殊性がこうしたものを招いているようだ。

訳あって銀座でカウンターを叩き、アジ演説をやらかしたが、親中派としての中共批判や親朝鮮派としての朝鮮文化批判ともならない日本の食生活の実状への警句すらタブーとなっている東京が異常なのである。

ドイツにおけるポーランド人の労働者の姿を恥と思うポーランド人の友人もいたが、日本におけるそれらの姿を見ると英国におけるそれらの姿よりも抵抗があるのではなかろうか。またまたポーランド人たちへのお土産話がふえた。

そして、そうした吹き溜まりを拵えているのは他でもない日本社会なのである。経済程度は大きく異なるが、文化程度はそれらに近いので、こうしたコントラストが甚だしく浮かび上がるような気がする。
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日本語喋ってるでー

2008-04-15 | 生活
ニッポンを東進した。その可能性はあったのだが、計画は立てていなかった。だから、ジャパンレールパスと呼ばれる日本人などが欧州大陸で使えるユーロレールパスの日本版を購入して来なかった。

急遽一週間の滞在延長をしたので、友人たちを訪ねて湘南へと鎌倉へと向かった。そうなると交通費が問題となる。予てから興味のあった金券ショップで安く乗り継ぐ方法である。通常ならば、最寄の駅から新大阪駅へと向かって、そこから新横浜へと新幹線に乗り、横浜経由で鎌倉へと行くのであるが、先ずは京都までお昼に乗れる「とくとく切符」を買い、そこから新幹線に乗ることで節約しようとしたのである。

その新幹線の切符は最寄の駅では入手できず、結局京都駅前で金券ショップをバス関係者に教えて貰う。横断歩道を渡って見つけた店は閉まっていたが、自動販売機が置いてある。なるほどどうしても乗りたいのぞみの指定席券が安売りされている。

どれほど自由席に比べて高いのか安いのかが分からず、ボチボチやってくる人たちに尋ねた。予約は緑の窓口で出来ると言うことで券を買った。12250円は、通常料金より千円ほど安い。

喜び勇んで京都タワー撮影を堪能しようとカメラを取り出していると、道行く日本のおばさんに「タクシー乗り場は何処ですか?」と声をかけられた。

「いえ、一寸分かりません」と答えると、後ろから来た二人づれの男性の声が聞こえた。

「日本語喋ってるで」

「なんかアジア系やとは思ってたけど、日本語喋るとは思わなかったな」

こうして日系人は京都で新幹線の最新車両にわくわくしながら乗り込むのである。
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芸者の銭洗い弁財天

2008-04-14 | 
天候に恵まれて初めての鎌倉見物を堪能した。なんと言っても外国人の訪問地としても最も有名な日本であって、大仏さんは見逃せない。

ツールストインフォメーションで、お決まりのコースを教えてもらい、早速江ノ電に乗る。北鎌倉のお寺参りなどよりも何よりも大仏さんである。

京都からのぞみに乗って、それ程掛からずに到着した鎌倉の印象は京都の貴族文化とはまったく異なるものであった。

大仏さんからそのハイキング道を、足を汚さぬように歩いて、見つけた銭洗い弁天さんの光景は、大仏さんとはまた異なる強い感嘆を与えた。

線香と共に売られている、笊の意味が分からなかったが、興味深くみていると老若男女が洞穴の中に流れる清流に、紙幣やコインを入れてお金を清めているのである。

見るからに小市民層の人々は、「一体なにか悪いことをしてお金を儲けたのか?」と想像しながら観察した。

やはり東洋人にとっては、お金を儲けることは罪悪であるようだ。もちろん、それだからこそプロテスタントやシトー会などの考え方が西洋には存在するのである。

しかし、どうしても彼女らが弁財天を守り神とする芸者とは思えなかったが。



参照:
ミニスカートを下から覗く [ 文化一般 ] / 2007-09-17
エロ化した愛の衝動 [ マスメディア批評 ] / 2007-01-04
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春雨じゃ,濡れて参ろう

2008-04-11 | 雑感
狭い所で傘などさすなと言いたい。小雨にも拘らず、コートを羽織っているの拘わらず、皆律儀に傘をさしている町並みは、マスクをしている人々以上に笑える。

それにしても、やはり気がふれるような社会らしく、町を歩いていて怒鳴っている者がいても、一瞬びっくっと驚きながら、誰かが刺されたりしない限り、町の日常風景は変わらない。

何も無かったような顔つきで道を行き交う人々の方が異常で、非人間的である。日本国において気がふれていない者ほど、冷血的で非人間的な動物に違いない。

怒鳴っているオヤジさんの方が遥かにヒューマニティーに溢れているような気がする。このようにちょかちょかと動いている社会は、蟻の生態を観測するときに見えるそのものであるようだ。

先進国として最も市民のゾンビ化が進んでいる社会のようである。顔が似ている、何もかが一体化してアシミレーションしている社会である。
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気がふれぬ中にお暇する

2008-04-10 | 生活
そろそろ、お暇する時期かと思っている。見るもの聞くもの珍しさは、珍奇さでしかなくなってきた。これ以上長居してもいけないような気がしてきた。はやばやとホームシックである。あの美しい、ワイン街道、ああ、我がプファルツ!

文化の典型としての食生活にあって、いよいよワインの底がつくとなると、致し方ない。胸がむかつき気味で、胸の痛みへと繋がりそうである。食事が合わないと言うことは、水が合わないことで、空気が合わないことでもある。

それにしても、食生活をみるとそこの文化の全てが分かるような気がする。一体、肉料理も麺類もなべも何もかもにキムチやら何やらが入る日本の朝鮮化は解せない。幾ら帰化人が為政者となって築いた日本文化と言っても、今更の先祖帰りのような食生活は一体なんだろう。

自宅のワイン街道と比べて惨憺たる野菜の供給は、BLOG「ザ大衆食つまみぐい 」のエンテツさんが農水省の食料自給率を偽装とする異なる視点から検証している。

しかし一体あの細切れにされた屑のような野菜の高値はどうしたことか。あんなものを食していてバイオなどとはおこがましい。泥がついたものはそこで捨てれば良いではないか。兎に角、供給量や購買量はドイツの半分にも至らないであろう。結局、煮ても焼いても、日本人の野菜摂取量は少ないようであり、白米で腹を膨らましているだけではないか?

魚も思ったほど良くない。生で食せるだけ新鮮なのだろうが、その量や質は都市部では限られているような気がする。その価格から予想したほど消費されていない気がする。

切り身の魚などは、重量あたりの価格も重量も明示せずに売りつける生協などをみて、それを店頭で質問しても真っ当な回答が得られず、腑に落ちない気楽さは一体何なのだろう。消費者保護どころか消費者を愚弄しているとしか見えないのだ。

如何につまらないものにつまらない金を投じた生活をしているのか、日本社会の不思議さはそこに凝縮されているかの感さえある。

止むを得ず ― なかなかこの表現には正直不可思議な感慨があって、この時間あのバルティック海にさしかかろうとしていたかと思うと、あの美しい欧州の空が目に浮かぶ ― 滞在を延長したが、これにて寅さん映画ならば上演時間は既に一時間を優に越えて終幕へと向かうころである。

電車に乗ると、押し迫る家並みに気分が悪くなり、町を歩けば、目に飛び込んでくるアジア的な奇抜な看板は目に突き刺さり痛く、横断歩道やスーパーでは、馬鹿な音が流れ耳が痛い。

よくも気がふれないことよ。

昼食は、鰈の煮つけと米にぶっかけそば。夕飯は、切り身にしていない鰹のたたきと1993年物のマルゴーか。
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最終電車の未知を乗継ぐ

2008-04-09 | 生活
興奮状態でタクシーに乗り込む。駅で降りると、急いでもと来たような階段を駆け上がる。そこは暗闇でシャッターが下ろされ、駅へとは侵入できない。急いで足を踏み外さないよう階段を下りて、明るい方へと向かう。周りは既に、「最終」へと急ぐ人がちらほらする。難波までの切符を求め、改札口で呂律の回らぬ口で、梅田まで到着の可能性を質問。手許にあるものなどを確認してもらうが、難波への連結までの情報しか定かではない。

何れにせよ、そうこうするうちに、一台見逃して、難波行き最終に乗り込む。難波への最終から梅田までの到着は問題がなかろうが、一体何時に着くことか。兎に角、難波での南海電車から御堂筋線と大阪のメインルートに乗り込むか、どこかで大阪環状線に乗り込む方が早いのかも自信無く、梅田到着を目指す。

難波乗換えすら往路では経験せずにいたので、南海と御堂筋線の乗り換え距離すら想像がつかない。まさか難波の町を歩く筈は無いが。

難波に到着時にも、梅田への最終電車連結への場内アナウンスが流れる。急いで切符を買い、再び改札で、東海道線への連結を尋ねる。最終電車の時刻を知り、梅田駅から大阪駅の乗換えを急いでくださいと言われる。

梅田乗換えは、多少の土地勘があるので、最前列に近い、それらしい人の集まる場所に乗り込む。この辺りとなると、流石に酔いは興奮状態へと達している。

最終電車のオンパレードである。場内放送が「最終電車」を繰り返し、梅田駅は走る客がに溢れる。改札を出ると、「阪急乗り換えはお急ぎください」と場内放送。もちろん、可能性の高い東海道線最終を目指す。

階段を駆け上り、最終電車の快速に飛び乗る。意外に空いており、腰掛けてやっと落ち着く。向かいの座席には二人の女性が同じ白いコートを羽織って喋っている。間に合って、こちらも余裕が出ると、車内アナウンスのアクセントが気になってくる。

独特の符丁とは別に子音などの発音がおかしいのである。そうなると何度聞いても気になる。我慢がならない。向かいの女性方は一向に気にかけずにおしゃべりをしている。

「一寸失礼しますが、このアナウンスおかしいと思いませんか」

「いいえ、聞いてませんでした」と、小顔の娘さんは思いのほか落ち着いた対応で答えた。

「ほら、中国人が日本語を喋るような」と私見を開帳すると、それには答えなかったが、通路を挟んで隣りのはす向かいに座っている男性は首をかしげて考えていた。どうも、気になる人はいないようである。

実は、この若々しいお二人が気になっていたのである。最終電車で帰ると言えば、こちらと同じ酔っ払いとするのが我々の感覚であって、「この時間に一体何処で働いていたのだろうか」と考えていたからである。なるほど、ああした言葉使いをするのは、学生ではなく、結構まともなお勤めなのだろうと感じた。それにしても、おかしな社会である。

こうして無事最寄の駅に到着して、夜道を徒歩で進むと煌々とコンヴィニエント・ストアーの光が輝き、駆除灯に集まる害虫かのように人を誘う。なにやら、即席中華麺を買って帰宅する。
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天下茶屋から堺の茶屋へ

2008-04-08 | ワイン
堺筋線天下茶屋駅で南海電鉄に乗り換える。そこから準急に乗ると乗り換えずに目的地の泉北高速鉄道に乗り入ることが出来る。かなり未知の世界で、大阪の有名な住宅地である帝塚山周辺には恥ずかしながら招かれたことも足を踏み入れたことはない。

目的地では、日本食とワインをテーマに緑家さんに席を設けて頂いた。本来ならばワインバーなどの御馴染みのところがあるようだが、それではまた違う方へと批判が向かいそうなので ― 決して日本のイタリア料理などが悪い訳ではないが ―、食材などを考えるとやはり平時の日本食材を試したいと無理をお願いして、ご友人の馴染みの店に御願いした。

ワインも先ごろトリアーから到着したばかりのリッター瓶で始まり、ナーへやラインガウ、ラインヘッセンを交えて、四人で六本だかを空けた。先ず記録しておかなければいけないのは、刺身の魚を味わうと最もスレートの土壌がベストマッチすることを確認できたのは最大の収穫であったことである。

兎に角、醤油で口を壊したくないので、塩を盛って頂いて、出来うる限り醤油味を避けた。そうすることで、繊細な味わいが、口内に幾らか昼に食したマムシの油が残っているとはいえ、楽しめたのは言うまでも無い。

日本食には余り新鮮さの際立たない古酒が良いと言うことで、これも経験上の感覚を確認できた。詳しいワインのラインナップは、主催者の報告にお任せするとして、一言だけ記憶から印象を記しておく。

ナーへの土壌は、詳しくは分からないが、スレートに独特の味が開いた2006年産のリースリングは、ドイツならばサラダなどの食前に合わせられる特殊性と面白さがあり、一人で一本空けるよりもどこかに挟みたい種のワインであった。謂わば、本国では大量需要は期待出来ないが魅力的なリースリングであろう。

シュロース・ライハルツハウゼンの古酒も結構な価値のあるようなもので、なおかつ十分な新鮮さが喜びを与えてくれた。あの長い渡り廊下を通るホテルでの夜を思い浮かべる。

その後、緑家さん愛好のグリューンハウスのリースリングを初めて飲ませて頂く。なるほど、スレートの味が大変海産物にも合い、これならば日本酒感覚でも飲めると納得。しかし、ご本人が指摘したように酸の出方が今ひとつで残糖感を招いた。逆に、それ程、少なくともこの次点までは、我々の口がかなり厳しい判定を下していた証明でもあろう。

その後に開けられたケラー醸造所のGCワインは、流石にバランスが取れていて美味く続けざまにお代りをすると、この辺りから酔いが回ってきて呂律が回り難く感じてくる。

いよいよ無礼講で、ご出席のお嬢さんが現地で購買した取って措きのシュペートブルグンダーへと流れ込む。いよいよクライマックスは近い。これもあの暑い2003年産とあり14度のアルコール以上にやや丸みが増していてグラマーラスさが好みの問題となる。

こうなれば醤油でも何でもありと、レンコンやら泉州名産の水茄子の塩気を批判しつつ呑み進める。すると、机向こうに水泳の授業後の午後の授業であるかのように机に伏せるお友達が見えたかと思うと、こちらも急に効き出して、急に胸がムカついた。

良く思い出せば酒を飲んで、胸が悪くなったのは四年前の寿司などを食べたあとであった。そのときは、その酒量以上に飲んだ酒の質を問題にしたものである。しかし、数日前に辛口の日本酒を最後にあおった節は決して悪くなかったのである。そして今回、超高級のリースリングを飲んでこのようになった原因は食事であると推測される。

つまり、刺身を塩で食したために、醤油の殺菌効果がどころか、わさびの効果も期待できなかったことが、消化を難しくしたようである。しかし寿司を普通に食べても消化が悪いことは何度も経験していて、生ものは幾ら新鮮であってもやはり消化に厳しいと改めて勉強した次第である。

そして、気を取り直してこれからいよいよ興奮状態で本格的に飲もうと考えたのは束の間、最終電車のためにタクシーが待ちかねていたのであった。(続く)
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大阪のまぶし飯三様

2008-04-07 | 料理
初めて堺に行く途上、これまた初めて阪急京都線淡路経由で大阪地下鉄谷町線に乗り込んだ。日本橋で降りて予めネットで調べていた所望の鰻屋へ駆け込んだ。

鰻も日本旅行経験者には比較的評判のよい食事である。だから話の種にも一度は食べたいと思った。鰻の店は何処にでもあるが、価格が高い食事でありやはり大阪で食してみたかった。

関東とは異なり蒸して油を落とさずに焼く関西焼の鰻は、たれの味が強いとどうしても飽きてしまう。そこで食したものは「ひつまぶし」と呼ばれるもので、「マムシ」ではないが、鰻が小さく切られて、ご飯の上にのっている。

それを三種類の食べ方に分けて楽しむ方法をジックリと聞いて、これを食した。四席に加えて二席の上がり席があるほどの小さなお店であるが、折から込み合うこともなく、ドイツ並みにゆっくりと給仕を受けて、何事もマニュアルで済ます日本には珍しく接客態度が個人的なお店で感心した。

こういうお店ならば少々価格が高くとも満足が得られるのである。普通に山椒の味でこれを試したあと。わさびとねぎをまぶして食する。そして最後には、ねぎわさびのうなぎ飯に出汁をかけて出汁茶漬けとなる。

この出汁が、蕎麦における蕎麦湯のような効果をあげて結構なのだ。そして、一匹の鰻を尾の先まで飽きさせずに食せる。味の変化のみならず、たれの嫌味が感じられないので後味も悪くはなかった。欲を言えば、もう少し鰻自体に味があればと言うものだが、街中一食2200円で日本製天然の鰻は無理であろう。

ちなみに大阪で鰻食を呼ぶ「マムシ」は、やはり「まぶし」とその形状を掛け合わせた遊び言葉のようだ。
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エッフェルよりも通天閣

2008-04-06 | 文化一般
通天閣の足元まで行った。有料三十分の待ち時間で、上に登る時間はなかった。

本場エッフェル塔の足元で宿泊した経験はあるが、通天閣を間近に仰ぎ見たのは初めてである。

細部の仕事は比較にならないが、外見は若しかすると本物よりも美しいかもしれない。恐らく日本にあるこの手のものとしては独特の位置を占めるだろう。

そもそも美しいと言ったって、簡単に定義できるものではないが、ここで感じるのは、なんと言ってもあの界隈の雰囲気を象徴していてなおかつそれを作っている芸術性ではないか?

すると本物のエッフェル塔の現在にはそぐわない古きよき時代感覚や京都タワーや東京タワーのウルトラマンが似合う珍奇な近代性など、もしくは東ベルリンのTV塔などの異質感とは全く異なる文化的な土壌にこの通天閣は立っているように思われる。これほど美しいキッチュな塔は、近代でも珍しいのではないか。

それがパリのパロディーや安易な物まねになることなく、南の象徴となっているのは素晴らしい。

うなぎやから今や寂れた日本橋の電々タウンに向かおうとして、方向を失った。そして、他の人が若いペアーに道を訊いているのに答えているのを見て、続けて私も尋ねてみた。

「電々タウンはどちらでしたか?」

「電々タウンって、電気街ね。それならあの交差点を右に入っていけばええ」

「ああ、黒門市場のとこね」

「そうそう」

「有難う御座います」

「ほら、俺、結構詳しいやろう」と連れの女性に自慢する男の声を背中に聞いて、すかさず後ろ向きざまに突っ込んだ。

「ほんまに、おうとる?」

前回の大阪訪問時に道を聞くと、自転車に乗っている親仁がニコニコしながら反対方向を指差して親切に教えてくれたことを思い出した。

プファルツの言葉のピンポンもなかなか絶妙なものがあるが、大阪のそれの文化的な複雑性はそれに勝るとも劣らない。

あの通天閣の姿に、その独特の文化を見てとっても誤りではなかろう。
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ない、ありません!

2008-04-04 | 生活
「はい」、「いいえ」の話題の続編である。どうしても同じような状況になると耳を硬くして、最後の語尾の否定を聞き取ろうと緊張する。

今度は間違いなく肯定で尋ねられた、そして肯定で答えた。その理解した様子をみていて安心して緊張が緩んだのか、次の質問の答えが大きくずれてしまったようだ。

「生協の組合員書はお持ちですか¬?」

来た来たと内心思った。

「ない!」と元気良く否定した。

理解されたようである。それでも、あとになっておかしな返答だったとやっと気がついた。

もちろん、この「無い」にはNOやNEINやNONがなんとなく含まれているのだが、日本語で「無い」と叫ぶのは出来の悪い学童の受け応えだと今思っている。帽子を被って、障害を持ったおじさんとは思われなかっただろうか?

そういえば、なんとなく日本人化していて余り目立たない西欧人らしき者たちが、カメラをぶら下げてサンフランシスコと書いたキャップを被っている私を独特の表情で注目している視線を感じた。

今後は地元の宣伝を書いた帽子などを身に着けて旅行したいと思った。日本には、自宅のワイン街道よりも多彩な人がたくさんいるように感じている。少なくともワイン街道の自宅付近ではフランス人がバケットを焼いているお店は無い。やはりドイツは田舎なのだろうか?
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近代社会の主観と客観

2008-04-04 | 雑感
日本の新しい出入国管理の実際を見て、必ずしも微笑みの国とは言えないようである。それはなにも外国人に対するものだけでなくて、印鑑を使用するような事務処理は歴史的文化背景を曝していて腹立たしい。

先に記事にした受け応えの問題も単に日本語の文法の問題ではなくて、高度な文化的な問題であることに気がつく。主情的な感覚を尊ぶ文化においてはそこにとってつけたような論理が接木のように近代社会が出来上がっている様子がこうしたところに見て取れるのである。

この点に、日本の近代の問題が凝縮しているようである。

偶然にも「ドイツ観念論」と名づけた思考への批判コメントがあったが、まさにこうした主観と客観のあり方に近代があるのだろう。今でもVERNUNFT(理性)が大書きされるドイツ社会との相違であろう。

大といえばざるの大盛りを大ざると書いてあるので、「おおざる」と言うと「だいざる」と発音するのが正解であったようだ。

書店の店頭に学ぶつまらない書籍は数々あれど、なにか重要な事が社会の話題になっていないようにしか思えないが、ただの旅行者の観察に過ぎないだろうか?
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ハイ、そう思います!

2008-04-03 | 文化一般
食後スーパーで、助六寿司を買った。助六寿司とはなにかをすっかり忘れていた。お好み焼きを1300円ほど食して大変不満であったので口直しに買ったのである。

日本人は声をそろえて、お好み焼きは世界で受けると力説する。しかし、お好み焼きが美味いと感じたことは今までなく、きっと今後もないだろう。

味付けの強いものや油気でべとべとするものはますます苦手になっている。それでも隣で食べている焼そばが美味そうと思ったからモダーン焼を注文したのだ。全くしつこくてモチャモチャとしてどうしようもない。メガネだけでなくセーターまでに油を飛ばされて大変不愉快である。

しかし、あのがんがんに冷やして五百円以上取る生ビールはどうしたものだろう。美味しくなく、器ともども冷たすぎる。強い風が吹いて外は肌寒いと言うのに、何たることか。

だから260円の助六を抱えて、レジへと向かった。レジのお姉さんが、「お箸は要りませんか」と尋ねるので、元気よく「ハイ」と答えた。さて袋から取り出して、ウイスキーを片手に、口直しをしようと思うと、箸が入っていない。いい加減なレジと怒ったが、よく考えると言葉が通じていないことに気がついた。

「ハイ、要ります」と言ったつもりが、日本人は「ハイ、要りません」と理解したようである。

前回の日本滞在に比べるとこうして毎日日本語を書いているので少々自信があった。だから、銀行の女性アドヴァイザーが説明する事象の肯定と否定の言い間違いをその内容から訂正させた。

しかし、こうした単純な受け答えゆえに、平素から慣れていないと切り替えが難しい。

脂っこい粉物を食した翌朝は、テラスにてザウマーゲンなどをたっぽりとブランチとした。ヴァイマールのエレファントホテルの中庭での朝食に勝るとも劣らない。ついでながら、食べるとおかしな時刻に眠くなったが、この朝食後は力あふれる。

それにしても、ワインにせよ飲食は、ドイツに比べて日本では何もかも不味く感じるのは重い空気ゆえではないだろうか?

ハイ、そう思います!
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水平線を越える視界

2008-04-02 | マスメディア批評
TVのないところに滞在している。お蔭でつまらないものを見ずに済んでいる。ケーブルで入っている独第二放送のニュースなどが見れなくて残念かと思ったが、よく考えれば自宅でも見ることはない。ラジオは聞いているが、それもウェッブラジオでお馴染みのものだけで、むしろそれを聞いているほうがこちらの都合に合わせることが出来る。

反対に新聞も一切ないので、ネットをよく調べなければ、一万キロメートル離れた自宅にいるときよりも日本の情報が入りにくい。

よく考えてみるがよい、一体我々が受けている情報とは、生活に関わるから関心をもたれるのだが、実はそうした実用的な用途以外に、我々の視野が及ばない地平線の向こう側の様子を伝えることから可視出来る世界観を形成している。そのように考えると、その情報の質とか伝え方が大変重要なものであることが分かる。

そこで、独第一放送のHPからラジオのストリームを選んで結局何時車で聞くような放送を聞いている。新聞は、これもまた購読紙のRSSリーダーを読んでいれば事足りる。それにしてもネットの発達で視界が変わったことを改めて実感させるのである。
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時差ぼけ日誌四日目

2008-04-01 | 生活
時差ぼけ日誌四日目・五日目。

三日目の夜は普通の床に入ったが朝早く目が覚めた。四日目の夜にザウマーゲン晩餐会第二夜を催した。

早目に始めたが結局夜遅くに散会した。そして酔いの中を零時には床に入った。

そして、目が覚めたのは9時になってからである。カーテンを通して日が強い。約束の10時には遅れないように、急いで準備をして着の身着のまま出かけ、要件をこなし昼食とする。

昼食にはさわらの焼き魚定食としたが、割り箸ではなかなか魚が捌けない。何とか食して勘定を済ませると急に眠くなる。

さて、この眠気はどうなることか。
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