Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

農民国から帰宅する都会人

2010-05-17 | アウトドーア・環境
フランスのジュラの片田舎から帰って来た。ジュラに限らず人も少なく、田舎が殆どであるフランスでも、殆ど観光対象とならないこの地域を機会があって訪れた事自体が価値があったとしか言えないであろう。

千メートルに近い高地にあるため、我々と同じようにフランスのアーチェリーのナショナルチームが合宿していたぐらいで、サナトリウム構想の効をなさなかったような田舎である。

フランスのこうした田舎から帰ってくると、如何に自分が住んでいるプファルツが都会的な生活圏であり、その気候の良さと、豊かさに驚くばかりである。

リヨンからの仲間とも出会ったが、なるほど彼女や彼らから都会的な臭いはするのだが、やはりフランスは富みに限らずなにもかもがパリに集中している如何にも農民国であるのことを毎度の事ながら思い起こす。
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対話を喚起する報道の趣味

2010-05-16 | マスメディア批評
承前)ジャーナリズムの世界というのは、知的な作業であると同時に、絶えず批判的な視点をもって物事を表現することに違いない。その視点が必ずしも客観を装わなくとも、読者の立ち位置を読者に認識させることが出来れば十分なのであろう。インディペンデントなどと叫んでも、スーパーマンも決して中立でありえないのと同じで、それは経済的にヒモツキではないという背景を語っているだけでしかない。やはりそこには趣味の良さが要求される。

「客人を迎える者は、茶会の儀式が始る前にその手を清める。水を意味する薬指をすり合わせて、日本語で空手水と呼ばれるやりかたで水を得るのである。

茶会においてバランスが大変尊重される。清められた状態で清浄化された精神は調和を創造する。茶人は、茶碗の最も美しい面を客人に向けて置き、客人は四分の一回転それを時計周りにして、茶を飲み干す。

ビュルシュタットで紹介された遠州流の茶は、武士道によって形作られている。遠州流は、外面的な美を追求するだけでなく、なによりも内面的な美を追求する。それを綺麗寂という。

嘗ては、茶会は只の精神的な交流ではなかった。侍は、それをインディアンのパイプのように使ったと、ファン・デン・ベルク会長は説明した。」

ヴォルフガンク・ヴェーネと称する髭を生やした五十過ぎのジャーナリストによって綴られたこの記事は、最初に紹介した市長の政治状況を最後に間接的に結びつけてジャーナリスト的に上手に纏めている。当方が準備した訳文を十二分に利用した文であるが、その分十分にその内容を広く多くの人に読ませるだけの効果を挙げており、大変賢明なやりかたである。

少なくとも、同時通訳になんらかの意味を見出したり、予め質問することで自分の判らないことまでを適当に語る愚行を避けている。読者の中に、実際に職人的な緊張と緩和の芸術的緩急の弧を体験した者が存在と重ね合わさることで、こうした記事がなによりもの文化的な紹介となるのである。そこからはじめてやっと対話が始ることを断わって措きたい。(終わり)
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芸術を理解するには趣味が肝要

2010-05-15 | ワイン
承前)芸術を理解すると言うことは、その営みの背景にあるものを理解することに他なら無い。そのためには如何に他者の創造の中に自分の想像力を羽ばたかして駆使出来るかという課題でもある。こうした想像力は学んで得られるものでは無いであろう。そして如何に天与に恵まれていたとしても絶えず自らを取り囲む環境に開かれた心を持っていない限り、一寸したその場の変化を関知出来ないであろう。要するに鈍感であってはいけないのである。さもなければ、文化勲章を首にかけて潤沢な軍資金で偽物を掴まされるのが関の山である。

実はワインの品評にも良く似た状況はある。このサイトのモットーであるようにワインなどは元来趣向品であり、美味いか不味いの主観的判断に全てが任されるものなのである。それには偽りは無い。それでも、農産物も商品である限りは、それ相応の価値が付けられて対価として市場で取引される。その価値を正しく値踏みすることは、玄人とか素人とかの違いでなくて、やはりそれが分かるかどうかの違いなのである。

農業の営みの背後にあるものは必ずしも農民の汗だけでは無いのである。ここからの考え方が、避けて通れ無い資本主義グローバリズムの考え方であって、質という基準を設けるだけで、それは集約型の延べ労働力の評価だけでは済まなくなってくる。農業は、その土地の気候や土壌やそして長年培われた食生活までを文化として含有しているからこそ、その生産品の質を評価する場合、一筋縄ではいかない対象なのである。

例えば自然科学の助けを借りて、比較的簡単にその土壌の組成を説明できたとしても、そうした地質学的な知識や考察を最終的な味覚に結びつけるどころか、それがどのように出来上がったワインの化学的な組成に関連付けられるかの自然科学における体系すら知らない。それは多岐に渡っており一対一の対応をしていない限りそうした現象を可逆に直線的に結びつける作業は不可能となるが、そうした作業を洞察力と呼ばれる直感と想像力によって為してしまうのがそれこそ趣味の世界なのである。(続く



参照:
無愛想なリースリング モーゼルだより
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共感とは異なる心的な理解とは

2010-05-14 | 
承前)それでは心的な理解とは何ものかと考えるべきであろう。その好例が、他の茶会を経験した元コメルツバンクの銀行勤めの女性の感想に明確に示されている。それを引用すると、次のようになる。

 ― 茶会はとっても気に入り、そしてとても興味深かった。私には、兎に角、あの間がしばしばなにか落ち着かなかった。きっとそれは必要な通訳から来ていたようです。それで、それも初めのうちだけであとは全く耳に入らずうわの空だった。それで茶人をじっと観察していると、その動きの意味するものが良く分かった。予め十分に「誘いの文章」を読んでいたからですよ ―

ここに書かれていることの意味は、要するに人の営みの背景にある信条とか習慣化したそれを理解しようと努力することで、その核心にある精神の機微が、心の動きが見えてくるということになる。もっと月並みな言葉で表現すると、「心」が見えるとなる訳だが、それはただ単に無声映画のテロップのように何処からともなく「心の呟き」が無作為に浮かび上がってくる訳では無いのである。

そのためには十分にその実態が言語化されて把握認識されていなければいけないのであるが、何処かの世界的な文学者の言葉と記憶するが、「熟慮して推考して言い尽くされたと思ったそのあとから湧き出てくるような殆ど言語化から解放された時点から文学が始める」と似た状態が求められているのではなかろうか。まさにここからはじめて芸術の世界が始るのである。

そのためにも知力を尽くして言語化して、科学的に抽象的なものを捉え尽くすことに努力を惜しんではいけない。そのための対話でしかないといっても良いかも知れない。(続く



参照:
知を求めること、理解者との相関 (「断想」    _since 2004)
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語学的な差異と記号論的なそれ

2010-05-13 | 文化一般
承前)日本語の原稿から、その真意を伝えるために、そのドイツ語訳制作に大変骨をおった。それは、本当の意味での翻訳なのだが、文学的な意味でのそれでは無い。嘗ては才能も無いのに同時通訳めいた業務上の通訳をした経験もあるが、今回関わった伝える内容はそれから最も隔たったものであった。その難しさは、内容が分ければ分かるほど難しさが理解出来るもので、とてもではないが同時通訳の専門家志望者にやらせれるようなものではなかった。つまり、日常言語で語れば語るほど真意から離れて行く質のものである。新聞の批評を読み進もう。

「空間は、客人を迎えるために特に準備されている。清めのための空間は、日常的な空間ではないのである。通常は、小さな潜りだけが壁に開けられている空間である。その空間は、初めは仕切られた領域として特徴つけられているものであった。茶室では、非武装の空間として侍も刀を外したのであった。敷物である畳みの黒い縁によって分けられた空間なのである。茶道具のための領域、客人が踏み込む領域、座る領域と決められている。その茶道具は、袱紗という特別な布で清められる。」

ここまで読めば分かるように、既に「清める意味」や「清めの概念」を如何に神道を越えて理解を深めることが出来るか、これも一つの課題であった。もちろん神道に関して一冊も専門書を読めばその影響するところは学のある者には明らかなのであるが、殆どの日本人にすらその日常生活への影響や生活感への密接な関係は十分に意識されていない概念なのである。

事後芸術家に書いた手紙の中で、「こうした伝統的であり保守的な考え方は、客観的な視点を土台とすること無しに、其の侭伝え得ない」と述べたが、まさにその通りであって、こうした殆ど心情的な感覚はかなり精緻な民族学的な解説が必要になるのである。実際に、茶室における非日常の空間を、何処にイメージするかで既にその意を汲むことが如何に困難かが分かるだろう。カトリック教会の祭壇ならまだしも、プロテスタント教会自体が全く非日常の空間で無いことを考えただけでも理解して頂けるに違いない。聖書を足踏みする感覚と対極にある。そこに「清め」と来れば、それを実感するためには大変な努力が必要となる。

それも多神教的な信条告白を含めて、宗教的では無い空間に、「神々が舞い降りる」とすると、混乱そのものでしかない。そうした漢心でもある陰陽の微妙なバランスを取りながら、想像を膨らまして貰うしかないのだが、その「神々」を「神格」と一般化しただけで遥かに心的な理解が得られ易くなったであろう。その語学的な差異が、記号論的な差異でもあるのだろう。(続く



参照:
アメリカかぶれ (雨をかわす踊り)
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日常の営みを認識するということ

2010-05-12 | 文化一般
伝統文化だけでなく、身近にある日常文化と呼ばれるものを正しく、その文化圏以外に伝える作業はとても難しい。その難しさには様々あるが、両者に共通しているのは継承している文化をその担い手自体が十分に意識出来ていないことにあるように思われる。

それが、先に芸術家と団欒した節に出て来た話題となる。つまり、「日本の文化などは縁遠すぎ過ぎて、棒にも足にも引っかからない」となる。まさにその通りであって、例えば同じ一神教の中でも激しい葛藤があるからこそそれが新たな理解への足掛かりとなる対話が生まれる訳で、対話が無い所には本当の理解などはありえないとなる。

対話自体が他者の理解のためにだけ必要なのではなく、まさに自己の信条や考えを整理整頓する基本になることに他ならない。要するに対話の無い所にはまともに扱うべき対象もないとなる。

具体的にそれを詳しく述べるにはここでの少々の雑文では綴り尽くせる筈はないのだが、その考え方を言語化するかしないかするとする次元ではなく、学問所謂自然科学を基本とするその考え方への認識と対照化こそが当初からのこのBLOGの基本主題であるから、可能な限りなにやらを綴っていくしかないと考える。

好例として、先の茶会において、その意図を最も汲んだヴォルムス地方の新聞記事からそれをみて行くのが良いかもしれない。その「瞑想と内的清め」と題した新聞記事の内容は、以下のようである。

「歴史的市会議場にて水曜日の午後に注目すべきことが起こている。二階のその広間では、アルフォンス・ハーク市長が小さな舞台の上で気持ち良く胡坐をかいで座っている。心地よく落ち着き、そしてお香が香る。線香がかすかな炎を燻らし、辺りに極東の香りを燻らす。
アルフォンス・ハークは、緊張を解いて心地よさそうだ。彼は、日本のお菓子を楽しみ、黒い茶碗を手に取る。市長は、頭を垂れ、上等の御茶である抹茶を三度に分けて飲む。ハークは、どうして次期自治体選挙後の連立交渉の秘密会合ではないのか。否、彼は今、日本の茶会の招待客なのである。」

「ラインネッカー独日協会アンドレ・ファン・デン・ベルク会長の紹介で謂れ深い遠州流がビュルシュタットを訪れている。茶人堀内議司男師匠は、日本の瞑想と内的清めの茶を紹介する。その茶の心とは、他を歓迎して受け入れることである。千年の流れの中で、その儀式やその流れは、日本固有の神道のみならず、禅を初めとする仏教や道教・儒教の影響を受けている。」(続く



参照:
異文化の非日常をかける少女 2010-05-07 | 女
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土産の土産話を聞かせてね

2010-05-11 | 
何時まで経っても天気が優れない。これで十日以上はおかしな天気となった。最後に本格的に快晴となったのは四月二十九日であろう。温度も低く、室内で干している洗濯もので冷えるので、乾かすためにヒーターを全開した。

フランスへの旅行先も同じような状態である。寧ろ、アルプスの壁にぶつかった北から貼り出した気団が雲を齎しているようで、落雷などもありそうだ。それも高地へと上がれば雪か結氷となる。

自分の車で現地へと向うのではないので考える必要はないのだが、峠を越える場所などは天候しだいかも知れ無い。まさかこの時期になって、冬タイヤが必要などと思う者は北欧以外にはいないであろう。衣服も考えてしまう。しかし、一昨年のクルニーもあまり天気には恵まれなかったが、とても強い南国の陽にやられた日もあった。

そのような状況で楽しみにしていた石灰岩の登攀が、天候の急変でもない限り難しくなって来ている。白い肌に陽が射せば早く乾くのだろうが、黒く色のついたようなでこぼこの湿った石灰岩は滑りそうで気持ち悪い。天候が完全に悪ければ、ケーヴィングの場所もあるだろうが、これもビショビショになるのはかなわないなという感じもする。

フランスへ持ち込むリースリングは購入した。人数分は十分に無いかも知れないが、超辛口の三グラムの残糖値の2009年産ヘアゴットザッカーながらブルゴーニュの連中をボンと言わすだけの質の高さは間違いない。誰に飲ますかは詳しく語っていないのに、その土産話を聞かせてねと言ったのはなぜだったのか?

結局、飲んだ呉れの旅となりそうな気がするのである。
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模範的旧制高校生のような日曜日

2010-05-10 | 生活
今日は天気が良ければ登りに行く用意をしていた。生憎、天気予報通りに、朝からパラツキ、一時は強く降って、完全に断念した。既に昨夜、山小屋の祭りとかでプファルツ登攀協会の関係で泊まりがけで出かけている者がいたので誘われていたが、ワインの試飲会があったのでもちろん行かなかった。天候もあまりぱっとしないことも分かっており、二桁になるかどうかの天候では体を動かしても調子を崩し易い。

その間、考えていたのは本日はフランス語の復習に勤しむつもりであったが、これも結構眠くなりなかなか進まない。気が向く度に少しづつは復習するのだが、半日かけてなした量としてはこれまた心許無い。夕飯に一杯飲めばまたまた学習能力は落ちるが、なにもしないよりはマシであろうか。

勉強もしなければいけない、酒も飲まなければいけない、運動もしなければいけないと、なんだか「模範的な旧制高校生」のような気持ちになって来ている。
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隠れビオデュナミニに驚愕する

2010-05-09 | 試飲百景
茶会に来てくれた二人を試飲会に案内した。名門醸造所のそれであったので喜んで頂けたようである。まず試飲出来る量が違うと驚いていた。自己の地所だけでも四十ヘクタールあり、さらにブルグンダー種を中心に他の場所で造っていれば、三十何種類のワインが居並ぶのは当然である。

2009年産はバッサーマンヨルダン醸造所では本当にアイスヴァインはなかったようである。その中でアイスヴァインを収穫したクリストマンは一体。要するに2008年の甘口を欲しい者は確保しておくべきだろう。もしくは2007年産を買いそびれた者は今が最後のチャンスである。2010年はもはやあまり期待出来ないので、来年の飲み代を確保しておくことは重要ではなかろうか。

ホーヘンモルゲンの2006年から2008年への飲み比べをやったが、2006年は飲み干すべき熟成に達していて今ならまだ美味い。2007年は閉じているがその清楚さが結構良くなっている。2008年は開きっぱなしの雰囲気と共に今後が楽しみである。

それらに比較すると2009年産は、平均点はかなり高いが、熟成への期待ではそれほど大きいとは思われない。要するに数が限られているだけ早めに購入しておくべきものであろう。但し、2008年産に比較すると、なにも高級のそれでなくとも質が高いので、手ごろな物を見つけだすのが肝要かと思われる。

地下で流していた映像にビオデュナミの牛の角の風景が写っていたので驚いて外回り主任のケラー氏に聞いて見た。数年前からビオデュナミだというので驚いた。どこにも書いていないからだ。月齢に合わせて仕事をしているのは良いとして、元々が信心なだけに隠されていたと思うと、まるでハリウッドのホラー映画を見るときのように「お前もか」と驚愕しない訳にはいかない。

オーナが変ってから秘教のようなものが隠されていたのは心外であるが、醸造親方メル氏の明言はそれを覆すほどであった。要するに再び木樽の割合を増やしているという宣言である。これは、かなり心強い宣言で、もし偉大なグロース・ゲヴェックスを提供しようと思えばこれは欠かせない。さらにアウフデアマウワーのような天然酵母発酵へと踏み出すためには木樽は欠かせないだろう。しかし、前任のヘーネ氏からの反動でステンレスに拘った醸造から木樽への流れは自然なものであり、紆余曲折が多いこの名門中の名門醸造所の姿を浮き彫りにしている。何はともあれこれで安心して2009年産のグランクリュも予約注文出来るのである。

2009年産で質問も受けて尚且つ興味深かったのがレモン風に酸味の強かったヘアゴットザッカーだろうか。どちらかというとフォン・ブールのそれに近づいていて、爽やかさが加味されて来ている。先方のキーゼルベルクが良くなって来ているように、此方のこれが良くなってきて、尚且つ色の薄いそれを軽やかに造って来ている事から若干個性が弱まりそうで心配な反面、微妙な選択が出来る喜びもあろう。

今年からの新規ウンゲホイヤーSの良さは変らずその価格13ユーロも素晴らしいが、グラインヒューベルも明らかに残糖を残したそれからプリュミエ・クリュ風へと方向を変えてきた。あとは、スクリュー栓で何処まで瓶の熟成が期待出来るか、さらに自然な熟成が出来るだけの醸造になっているかが評価のしどころであろう。

その件を再び代表のハウク氏に質問して、さらにフロインドシュトックの行き先を尋ねて見た。驚いたことに予約販売でスペインなどに出ているらしい。それもグランクリュなのである。付属のレストランでは飲めるようなのだが、是非此方にも廻して欲しい旨を伝えておいたので何時か再会出来るかもしれない。ウンゲホイヤーが再び復活した様にである。
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掻き回されている言語脳

2010-05-08 | アウトドーア・環境
先週までは独日友好関係に従事していたが、来週は独仏友好である。前者に比べると後者で個人的に貢献出来る事は限られているのだが、それでもフランス語が使えれば使えるほど重要さが増す立場にあるので、これまたなんとかしたいのである。

リフレッシュ半ば、定着半ばで、なんども挑戦しながらの今までのフランス語学習状態の域を出ていない。何処まで有効的に使いこなせるかというと甚だ心もと無い進展具合なのだ。まだまだ直前まで、それどころかフランスへの車中でも勉強して行き、向こうでも使いながら少々習ってやろうとは思っているのだが、過去の記憶が掻き回された状態であるので、おかしな感覚を得ている。

例えば単語などは、同じ意味の言葉があったとしてもドイツ語との使い方が少なからず異なる場合があって、不思議な感覚を齎している。それはかなり感覚的なものであって、あまり語学的な感じがしない。要するに言葉が一対一で対応している限り、その思考法においては、あくまでも言語的な脳を活かせば良いのだが、それとは異なる具体的感覚が伴う言葉使いがあるように感じるのである。これは、ある意味ドイツ語の勉強にもなる感覚であって、大変興味を持っている。

いづれにしても、言語能力の脳の容量増強が出来るような新鮮な脳とは異なっているようで、本当にこうした語学勉強が定着して身につくのかどうかは皆目判らない。現時点で最も興味深く感じる事は、たとえ未だにその語彙は限られるとしてもどのようにしてドイツ語の単語を定着させてきたかという方法なのである。その方法自体に上の感覚が絡んでいるから不思議な感じに思えるのだ。

実はそこまで考えると思い出すのが、ドイツ語の学習において出来る限り日本語の単語と一対一の関係を使わずに身につけようとしていた時のことであり、それが未だにある種の名詞を中心にドイツ語語彙の不足の結果となっているのだが、奇しくも同じような感覚をドイツ語とフランス語の間の感覚で再会するとは思わなかった。

なるほど、冒頭に語ったように必ずしもそうした対応させた語彙の修得だけでは、一対複数の関係になり、つまり今度は逆事象への対応が困難となる恐れもある。また反対に、日本語と欧州語との関係とは異なり、欧州語間でのそれは熟語等を駆使することで可能とはなるのには違い無いだろ。

それならば英語についてはどうかというと、フランス語を学ぶと英語のラテン語流れの言葉の裏打ちというか舞台裏が見えるようで受験勉強以来永らく忘れていたような単語を思い出して面白かった。これなどは殆どフラッシュバック効果のようなもので、脳のどこかにひっそりと納められていたかと思うと、まるで片付けもの中に古い写真に思いがけず再会した以上に感動する。

こうした効果を含めてまるで言語を司る脳が掻き回されたような状態となっている。
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異文化の非日常をかける少女

2010-05-07 | 
茶会の総括をしたいが、仕掛け人としては批評記事が出揃う前には纏める訳には行かぬ。そこで外回りをもう一度回想すると、茶会の追っかけ少女達の存在は欠かせないだろう。ミドルティーンの普通の女の子達で友達同士で百キロ以上離れたところまでやって来ていた。ポップス歌手やスポーツ選手の追っかけと全く変らない。出待ち入り待ちだけでなく中にまで入ってしまう熱心さには驚いた。

もちろん通常のそれでないから黄色い声をあげたりはしないのだが、茶人かたにも遠慮がちにご挨拶しなければ気が済まないようなのである。追っかけは、それ以上の年齢層にもいないことはないが ― 少なくともオートグラムを貰いに行くのは年寄りでも同じである  ―、一種の思春期症候群の一つでもあるのだろう。そしてその心理を素人なりに考えてみると、それは親や家庭環境から逸脱した新しい世界への興味でもあり自らの家庭環境の世界と異なれば異なるほど彼ら彼女らを魅了する対象であるに違いない。要するに未知であるのは自らにとってだけではなく自らを育んだ環境にとって未知であると言うことだろう。

まさにそこに仕掛け人としての狙いがあるわけであるが、大人に取っては最終的には知的関心を満たして呉れればそれで良いのである。というか大人にとっては知的な理解が介在せずには、全く異なったものに遭遇して全身全霊で理解することなのは出来ないのである。同じように日本人が芸術的な西洋音楽を理解するときも、そういう差異はあるのではないか?それが五感を働かしての体験でなければならないのは、またやはり十代のしなやかで感受性豊かな受動態でなければならないのは、例えばグスタフ・マーラーの長大な交響曲などは理解するには一神教のそれもヘブライズムのそれを受け入れるには、あまりにも知的なアプローチではなかなかその全体像の把握に至らないのと同じような現象である。反対にそうした知的な文化や歴史などへの理解の援助がなければ、ある一度ばかりの珍しい経験となるだけであって、それ以上には異文化体験や芸術的な本質への理解に至らないのも同じである。

話題は変るが、所謂ホームシックの病体についての新刊本の紹介が新聞に載っている。ホームシックが最初に問題となり死の病として名文化されたのは1688年のヨハン・ホーファーの書物とされる。田舎を離れた女中が自らの子供をを殺めたり放火をしたりとするその病に至る現象を指す。それはもともと傭兵に出たスイス人の病気だったようで、それが二世紀ほど経ってノスタルジーと結びついて文学や音楽、造形芸術として好まれる題材となったのは承知のことであり、その病人の代表としてスピーリスのハイジが挙げられている。

ホームシックの土台にあるその帰るべき所は何処にあるかというと、上述したその環境にあるのではないだろうか?つまり、まだ環境としてしか与えられていない世界観を自らのそれとする過程において、他の環境への全身全霊での遭遇や対応が可能となるのであって、男性は女性に比較して、青年は少女に比較してそうした未知のものを受け入れられる可能性が絶望的に小さくなってしまうのは断わるまでも無いことであろう。

特に上の少女達のように漫画によって異文化への興味を膨らますという行為自体が、かなりその読者の日常生活における一種の狭間のようなある種の深遠の淵が底知れず開いているような非日常のブラックゾーンとの交感であるに違いない。それは対象とするものの本質とは全く関係無い次元での体験であるかも知れないが、芸術への理解力とか想像力は所詮そうしたものであることも認識しておく必要があるだろう。
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ボルドーワインで温まる五月

2010-05-06 | 生活
先週は茶会で登れなかった。その前も会合で早めにあげた。今日は朝からとても寒く、昼ぱらぱらと降り、陽が出ても風が強く、石切り場には人影がなかった。湿っぽい岩肌にこの寒さでは怪我するのが精々だろう。週末に可能性があるのでそれに賭けても良いが、結局雪は降らなかったというものの気温が摂氏一桁台というのはやはり寒く、陽が強く照り注がない限り温度上昇は期待出来ない。

ここ数年は四月から六月が最も暑い夏が続いたが、今年はまだまだ夏になっていない。六月から七月にかけて暑くなって八月の第一周ぐらいで秋に入って呉れれば正常だろう。それにしてもこれだけ寒い五月はあまり経験した事が無い。

昨晩は寒かったのボルドーの1998年ものを空けた。食事は手作り胡麻ソースの中華風ヌードルであったが、なかなか楽しめた。何といってもボルドーの陽射しの詰まったワインは内側からゆっくりと心を温めて呉れる。流石に今日はそのワインも酸っぱくなっている。今も風が吹き荒れている。
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有難うでは済まない政治の世界

2010-05-05 | 雑感
色々と礼状や事後処理に忙しい。特に名刺を交換しただけでなく、お約束通りに市長などからメールが来ると、それは有難うでは済ませ難い。その地方新聞を読むと次期市長選挙後の連立政策に忙しいと書いてあった。全てが政治の世界の中での専門家の遣り口を見ているとなかなか面白く勉強になる。

元来そうした社交や政治が苦手な人間にとっては、そうした逸早い反応を示す市長の考えや意志などを図るのも苦手なのであるが、政治家は圏外からでも一人でも支援者が欲しいと考えるものなのであろう。

その市長とは、町出身のオペラ歌手がミラノのスカラ座に出演した時に招待されたことを話した。バリトン歌手で今年にはバイロイト出演が決まっていると言う。要するにその市長さんはファンクラブの代表者のような立場なのだろう。

出しものは、「ドンカルロス」だったというから、「カルロスではないから」と向けると、思い出せないらしく暫らく考えていたので、助け舟を出して「ロドリーゴ」と思い出させてあげた。

長期に渡って市長を務めているから、「そりゃ信任が篤いのですね」と評すると、当日も予算審議があって政治的に難しい時期であるから、心から喜ばずにはいれなかったのだろう。その市長さん、日本の長野かどこかでフルマラソンを完走したと言うからなかなかの兵と思われた。

此方の方は、なにも今年バイロイトに招待して貰おうとは思わないが、先ずは間延びしない内に礼状を認めなければなるまい。
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炭酸水を吟味する無礼な男

2010-05-04 | 生活
神奈川県に住んでいる友人からメールが届いた。東京ミッドタウンとかにあるドイツ村を訪ねて、写真を送ってきた。

向こうからは何年かにしか一度しかメールを遣さない無礼な男であるが、自分の住んでいた町の祭りとなればどうしても新妻に見せたかったのだろう。

もちろんフィーアヤーレスツァイテンのヴァインショーレを飲んだに違いない。それが本物かどうかは彼ならば分かるだろうが、結局薄める炭酸水に何を使っているかである。

もしかするとヴルストマルクトに通っている回数では彼の方が多いかもしれない。私自身は、街道沿いで開かれる毎週末のワイン祭りの制覇を考えた年もあったが、一度未知の町を見てしまうと普段の静けさの無いワイン祭りには興味をなくして、世界最大のワイン祭りも縁遠くなってから既に十五年以上経つ。

写真を見るとなかなか雰囲気だけは美味く拵えてあるようだがどうなのだろう?



参照:
ワインところで日本週間開催式 2010-04-12 | 生活
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とても面白い文化的な繋がり

2010-05-02 | 文化一般
プファルツで著名な彫刻家とお会いした。近所ではダイデスハイムの「ガイスボック噴水」でとても有名である。日本でもその作品は紹介されている。なぜか、息子さんが日本学を勉強しているという。

「驚きましたね」というと、お母様は「私達の方が驚いている」と語っていた。ご夫妻が日本に招かれたのも息子さんが子供の時であり、同行していない。それでも芸術家の家庭の中に、なにかを残したのだろう。

それも文化には興味があるようだが、経済関係の勉強を進めて行くかも知れないと話していた。中国ではなくて日本でなければならないのが面白い点である。

「寄り道は大事だからね」というと、「十分に寄り道はしてきた真っ直ぐ行きたい」と話していた。

日本には福岡で一月ほど日本語を習ったらしいが漢字八百語ほどしかはいっていないらしい。いずれにしてもご夫妻ともども日本総領事に紹介した。

ご両親とも芸術家であり、「それでも芸術家の素養があるのじゃない」と話しておいたが、そうした繋がりでなにか面白い文化的な発展があればと思う。
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