Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

ほのぼの家族の領域

2015-07-17 | マスメディア批評
日本国在独大使館から圧力を受けたフランクフルターアルゲマイネが日本の抗議行動を東京から伝える。そこで扱われている写真はパシフィズムの九条護憲派の姿であるが、重要なことは裏表紙上半部の記事の後半に書かれている。今回の問題が憲法に抵触することと、それによって安倍政権の支持率が落ちてきていること、そして自民党の改憲への漫画情報の内容で結ばれている。

その安倍がどこに向かっているかといえば、「ほのぼの家族」と称するリラックスファミリーの母親が修正主義に疑念を呈することから、日本の憲法の歴史について議論が起こる。元旦の朝、家族は丘の上でご来光を待ちわびている。曾おじいさんが日本国憲法は敗戦でアメリカ人によって書かれたもので日本人の手によるものではないと説明する。「日本はこの憲法を維持する限りは、負けた国であり続けるのだ」とため息をつく。家族が皆それに納得したときに、光り輝く陽が昇る。

新聞のテクニック欄にアップルの音楽配信などの状況が紹介されている。それによると一部のエリートなサイトを除くとMP3、AACの配信であり、CD音質に至っているのは特別料金を取ってFLAC配信などをしているところもあるようだが、それもCD音質までに押さえられているらしい。

先日から生放送のVIDEOの音を取り出していたので形式やその音質に関して比較したのだが、この記事を読んでなるほどと思った。当然であろう、メディア自体にSACDソフトなどの市場が出来上がっておらず、要するにハイレゾレーションとして市場開拓をしているに過ぎないからである。

要するにメージャーメディアの方は管理された音質のネット配信はコピー保護などが外されてもある程度の被害規模を抑えられるというMP3コピー保護機構が働いているとする予想は正しいことが分かったからである。それでは、なぜ少々余分に徴収できても、MP3なら幾らでもコピーされても金になればそれでよいが、マスターをそのままコピーされるような状況だけは避けなければいけないとなったのであろう。だから新聞は上手に結んであって、音楽ファンはたとえ手軽にダウンロードできるとしてもお気に入りのものはCDを保持するべきでコピー後に捨ててしまうことのないようにとしている。さてここからが、我々の興味ある領域に入る。

新聞にギリシャ問題の当事者であったショイブレ博士が、それでもやはりギリシャはオイロから出た方が良かったであろうと、今後の難しさを予言している。もっとものことだろう。森の中は摂氏20度を切っていたが、空気が重く、日陰の森に入るとまるで日本の山を走っているような匂いがしてきた。森の湿った樹木の匂いだ。気温の上がり方がは前回ほどではなくても嫌な暑さになりそうだ。



参照:
Die gedehnte Verfassung, Patrick Welter, FAZ vom 15.7.15
MP3でなにを聴くべきか? 2015-07-03 | 音
合理的に物事を処理する時 2015-07-15 | アウトドーア・環境
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なんかとてもかんじよいよね

2015-07-16 | ワイン
2014年産リースリングを購入した。何本目になるかは分からないが例年に比べれば予約分を含めて可也少ない。理由はそれほど魅力的なリースリングが少ないからである。肯定的に評価すれば熟成しないとよさが出にくいからである。要するに日常消費ワインに困っており、猛暑のお陰でビールで凌いでいるだけに過ぎない。少なくとも遠方に四回ほど試飲購入していて、十件の醸造所で購入していても琴線に触れるものが殆どないのである。

三月に樽試飲したあとで、五月の試飲会に行けなかったレープホルツ醸造所に四ヶ月ぶりに出かけた。樽試飲のそれが軒並み良かったので、期待は膨らむ。お目当ては我が家の標準リースリング「オェコノミラート」である。VDPのクラス別けではテロワーものに含まれるだろう。雑食砂岩の石灰抜きである。これがグローセスゲヴェックスのガンツホルンへとグレードアップされる。

なんと言ってもこれの素晴らしさは、石灰の丸みがない角立った酸の魅力で、リースリング愛好の本道である。いつものことながらこれだけを飲んでいてもなかなかその魅力は分からないが、食事に使ったり、飲み続けるとこの沢庵風味の味筋に嵌ってしまうのだ。そして嫌味が一切なく残糖成分が限界の低さであるから、幾らでも酌が進む。そして2014年物はリッター8グラムの酸である。通常ならば一桁以下の残糖にこれだけ十分な酸があれば、酢のように感じるのだが、これには味がある。塩気がある。

しかしこれだけ酸があれば、苦味などが上手にマスキングされている。その苦味自体もむしろ雑食砂岩らしいアーモンド風味である。若干炭酸が残っているようだが、樽試飲の時とは流石に違い、落ち着いている。その分爽やかさは後退していて、大分冷やしてやらないと夏場の飲み物としては頼りないが、アルコール11%の清々しさは格別だ。ただし2013年のスパイシーな香ばしさはないので、どちらかといえば食中酒だろうか。それにしても、この価格11,80ユーロだから文句なしだ。

国会前からの学生のシュプレッヒコールを観ると、明らかに女子学生の声が優勢だ。台北や香港のそれもIWJで観たが、これほど女子が目立つことはなかった。場所によるのかもしれないが、これは注目すべきだ。若い女性が集まると自然に若い男たちも集まってくる。この勢いはまだまだこれから膨らんでいくのだろう。

直接の現場は知らないが全共闘の時代とは大いに違う。あの時代は左翼の特権意識が強かったが、今は違う。その訴えかけの背後には、経済的徴兵と呼ばれるような高等教育大衆化にともなう学費のための兵役があると、嘗てのイデオロギー的な運動とは全く異なり切実な訴えかけでしかない。多くの人はその切実さに放ってはいけない気持ちになるのは当然だろう。そもそも高齢化の社会を軍事国化するなどの議論にもならないことを考えている政府を選んだのは一体誰だ。



参照:
スローフードの塩辛さ 2015-03-09 | 試飲百景
あれこれ存立危機事態 2015-07-14 | 歴史・時事
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合理的に物事を処理する時

2015-07-15 | アウトドーア・環境
フィリップスブルク原発一号機の廃炉問題がラディオニュースで報じられていた。それによると低・中汚染物の一時保管に伴う空気中への散乱を心配する地元と当事者で非公開の協議が行われているということだ。地元のフィリッププスブルクだけでなく近隣の町も説明を求めている。七千トンとかのその程度の廃棄物が分解されて保管されることによる汚染の心配である。廃炉グループ主任がラディオで語っていた場所の問題に相当するだろう。もしそうした廃棄物を完全に遮蔽するとなると更に大掛かりな廃炉作業になるに違いない。そしてラインの中ノ島のようなところにあるのだから河に流れるようなことがあれば更に汚染範囲は広がる。

法規的な問題は、廃炉による放射線管理は通常の管理規定で行われるが、監視機構の含まれる原子力発電法で廃炉作業も行うべきではないかとする住民側の意見で、何らかの監視の合意が必要になるに違いない。要するに原子力は経済的に合わないということに尽きるのだ。

もう一つ聞いたのは、世界では連邦共和国のギリシャへの強い姿勢などがアレルギーを以って受け入れられているのは本当かという話題であった。その答えは必ずしも容易ではなかったが、一方では誕生日を祝った当事者のショイブレ経済相が絶賛されたことでも分かるように必ずしも保守党においても一枚岩ではないということだ。世界に対してそのリーダーシップのあり方を絶えず検証しなければいけないのだ。客観的に、合理的な結論と要求をしただけなのだが、そのものが嫌われるのだろう。



参照:
うちの原発と蕾の加齢 2012-03-17 | 雑感
花冷えにPWRの白い天蓋 2015-04-04 | 暦
カウンター攻撃の自己欺瞞 2015-06-21 | 歴史・時事
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あれこれ存立危機事態

2015-07-14 | 歴史・時事
日本は暑い夏を迎えているようだ。戦後七十年の節目に新たな決断に迫られている。自衛隊の海外派兵に表れる軍事強国化には反対の意見が多いようだが、自衛力に関してはさまざま意見があるのだろう。しかし、今日本で転機を迎えているのはもっと本質的な事象であるというのが、いつものことながら日本のマスメディアでは伝えられていないようである。自らの特権や既得権益を侵すような情報は、特に合衆国との関係で生じる利権情報は、一切流さないのが日本のマスメディアであり、そのことは311以降多くの日本人も気がついたに違いない。

それでもまだまだ安倍政権への内閣支持率が充分すぎるほど高いのを見て感じるのは、つまり懸案の自衛権の解釈問題にのみ焦点が当てられていて、より本質的な安倍政権による「立憲精神の蹂躙」が問題点として充分に報じられていないからではないのか?それは九条云々といった問題ではなくて、そのようなことをものともせぬ政治手法への検証の欠如であり、今なぜ違憲問題が話題となり、強制加入団体の弁護士会が日本全国で反対運動をしているかの大枠が充分に解説されていないからではないのか?その本質から逸脱したところでは、政府の正当性が問われて、国民の民意が問われるところとなる。法治や遵法精神が育っていないからああした総理大臣や政治家が割拠するのか。

非西洋の国において、植民地の網から逃れると同時に自ら近代化した国として、とても稀有な存在である筈なのだが、それから百五十年も経たずに完全にメッキが剥げるようなことになるのだろうか?その近代精神と呼ばれるものが問われているのだ。いかに日本のマスメディアが商業的であるだけでなく、権力を支える為政者のために翼賛的な機構であるかということが分かるであろう。

オーストリアの新聞記事にバイロイト音楽祭を絡めて一連のゴシップが纏められている。時系軸がはっきりしていて面白い。それによると、ベルリンの教会で5月11日に催されたフィルハーモニカ―次期監督推薦への投票は、二時間後に圧倒的多数でペトレンコで決まっていたとある。そして本人に電話すると、ミュンヘンでの仕事を理由に辞退したとある ― これならば楽員の一人に個人的に訊ねれば分かっていた筈だ。しかし実際にはマスメディアは全く異なった情報を流した。そして、その固辞の態度が余計に信頼感に繋がったと書かれており、昨年12月のズル休みキャンセルにも通じる一連の行動への評価となる。その辞退を受けて、繋ぎの監督としてヤンソンスが推挙されたがバイエルンの放送局との契約が延長されて、ネルソンズはボストンに固執した ― これも興味深い。

しかし噂のあったデュダメルの方は問題外であったとされる。それでは下馬評の高かったティーレマンは、既に書いたように執行部での拒絶があったので最初から議論外であったとされる。二番手の繋ぎとして、またアバド就任時も人気のあったバレンボイムが推挙されていて、実際に辞退が申し入れられた。しかしペトレンコが固辞した場合は、再びバレンボイムに白羽の矢が向かったとされる。

そこで、六月以降騒がしくなったバイロイトからの動きの背後が想像できる。先ずは、代表を退くパスクエ女史へと出入り禁止の沙汰が話題となり、直ぐにバレンボイムやペトレンコがそうした動きに警告を発して、重要な役の歌手の首が取り替えられる事態が発生した。五月中に全てが定まっていたことになる。そして、今後ミュンヘンの方は2018年までは年二回の新上演をペトレンコに課す一方、それを延長しても年々任務を減らして行きながら関係を続けたいとしていて、ベルリンへと本拠が移るのは予想よりも早まるかもしれないとされている。



参照:
日本国全権大使の敵対行為 2015-04-21 | マスメディア批評
アルベリヒは南仏に消えて、 2015-06-14 | 雑感
Bayreuther Chaos, Berliner Coup, Gert Korentschnig (Kurier)
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まるで白昼夢のような感覚

2015-07-13 | アウトドーア・環境
ギリシャ危機騒動にマスキングされているのはTTIP交渉への欧州議会の賛成多数採決だろう。ストラスブールの議会は交渉当事者ではないが、最終的に締結承認するために、その意向は無視できないとされる。そして今回の大多数の賛成の条件として、最も問題となっていたISDS条項の除外で、現在推進されているような企業保護の必要性が少なくとも北米や欧州の間では無用であり、その代わり調停機関として私的ではなく公的な機関の設置が必要条件として含まれた。更に懸案となっている大西洋間で大きな隔たりのあるような規制基準、つまり遺伝子操作した植物の栽培、牛へのホルモンの利用、化学製品の許認可などは除外されるというものである。勿論、緑の党や左翼党、反EU勢力に極右はこれに反対しているが圧倒的多数で賛意を以って自由への結論が採択された。

日本もTTPと同時にEUと個別の交渉を行っているというが、なるほどその市場は閉鎖的であるとしても企業保護に特別な配慮が必要なほどの障壁ではない筈だ。つまり、TTPにおいてはある程度の企業保護条項ISDSが有効なのだろうが、それが全てに同じように発揮されるわけではないことは明らかで、こうした例外的な規制基準設置もあらゆる相互関係の中で議論されていくことになるのだろう。グローバル化の波は戻すことが出来ないのは明らかなので、そうした機構作りが必要だとするのがEUの大多数派であるということである。

作家ゼーバルトの遺稿から、実現化されなかったTV用のシナリオをラディオドラマ化したものが流れた。ゼーバルト作品ファンにも、ラディオファンにも聞き逃せない内容だ。ドイツ語学習者には、残念ながらマヌスクプリトがなさそうなので、上級コースとなる。

1980年代に無名のゼーバルトがTV化を持ち込んだり、舞台化やラディオドラマ化も試みたが徒労に終わり、長く忘れられていたもののようで、今回西部ドイツ放送局でラディオ化された。エマニュエル・カントをモデルに据えた、マルティン・オピッツで有名な「夜の帳は近づき」と名づけた原稿である。

PCの前で聞いていると、いつの間にか意識が虚ろになっていた。ラディオドラマの良さはこの時間の移ろい感覚だ。映像ならば自然にうとうととしても、意識がなくなった画面へと戻して、再び確認することがあるが、録音されているにしても、その時刻へと戻して再生するということはなかなかないのではないだろうか?また最初から初めて、また同じようなところで寝入ってしまうことはあるかもしれない。兎に角、視覚よりも聴覚のあのなんともいえない頼りなさと頭脳的な労働の楽しみには限りない可能性を感じさせてくれる。

内容に関しては、そのような訳で何回か流してみないと評価は出来ないかもしれない。しかし、ゼーバルトの書籍にあるような画像を使ったりしての現実とも白昼夢とも分からないようなあの不思議な感覚がラディオの耳からの情報を頭脳内で膨らませることで、もう一つ不思議な感覚に陥らせるそのテクストの正体が暴かれるような気がしたのは私だけだろうか。

森の中も摂氏24度と温まっていたが、なんといっても太陽に一時ほどの勢いがない。我バルコン船上での食事はとても快適だった。手持ちの都合のよいワインも無くなってしまったので、冷えたビールで喉を潤した。なんだかんだとこうして白昼夢のような週末を迎えている。左肩の調子も平素の生活ではそれほど顔をしかめることがなくなってきたので、再び本格的に使うようにしていかなければいけないだろう。



参照:
Jetzund kömpt die Nacht herbey - Ansichten aus dem Leben und Sterben des Immanuel Kant, Von W.G. Sebald (WDR3)
観光資源の無かった田舎の村 2009-07-18 | アウトドーア・環境
観られざるドイツ文学 2007-11-07 | 文学・思想
偉大なるかなローカリズム 2015-06-18 | 生活
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お披露目、忌憚のない感想

2015-07-12 | マスメディア批評
ガーディアン紙の記者がニューヨークから富士山のことを書いている。日本政府高官批判なのかどうか?短い容易な英語なのでご判断は任せる。読んでいるうちに文明批判なのかとか、更にもう少し先を考えてしまう。ある程度開かれた書き方ではあるのだが、同じ感覚の読者層を前提にしているのがあまりよくない。ターゲットを狙うことは必要なのだが、逆にきっちり照準を定めていないような不明確さが漂うのだ。「富士山頂上のワイファイ環境整備に想う」文章であるのだが、情報源は朝日新聞なのだろう。この高級紙の書き方だろうが、あまり良い書き方だとは思わない。英国文化の一つに違いない。

ドイツでも新聞によってその表現法は大分異なる。最近評判のあまり良くないFAZに対して、ディ・ヴェルト紙を評価する人もいるが、最近のペトレンコ騒動での文化欄の主筆の文章内容は酷かった。騒動を受けて、今度はこともあろうに、彼のフルトヴェングラーとペトレンコを並べることでまたまたお茶を濁そうとしていた。カルロス・クライバーと比較されたりと甚だ迷惑な「音楽の分からない専門家」の記事も多い。実際にスクリャビンスキーの「法悦の時」交響曲のネット放送を聞くと、下手な録音ではどうしても聞き取れない面が多いのも理解できた。

お披露目しよう。再び暑くなったので、先日入手した帆をバルコンに張った。「帆を上げろ、風を受けろ」ではなくて、「影を作れ」なのだ。その前に壊れた洗濯干しの代わりに大振りの今までとは異なるタイプのものを購入した。そのときに考えたのがバルコンの帆であった。ここ数年は簾も吊ることなく過ごせたのだが、先週の暑さは今までとは違った。そこで南向きのバルコンでの食事や生活などを考えると影を作るものが欲しかったので、その洗濯干しを兼用するアイデアが浮かんだのだった。ただし生地に適当なものがなくて、その度に洗濯が出来るわけでもなく、ダブルのシーツを干すわけにもいかぬ。そこで陽を避けると同時に除熱効果のある素材を探したが、適当なものがなかったのでこれに落ち着いた。影を作るための帆は全く浮かばなかったのだが、ネットを探していると目に付いた。

一角三メートルの三角の生地はポリエステルである ― 送料込み20ユーロだ。そこにメッシュの無数の穴が開いている。だから風を通して熱気を溜めない。同時に風が強くて簾がばたばたして困った場所に問題なく「乗せて」置けるのだ。三角の形はデザイン的にもとても使いやすく、もう少し陽射しが欲しいときには逆向きにも使える。ガーデンの片隅の木立の間の子供の砂箱の上に掲げるように、三角の頂点に確りした金具がついていてそれを利用して固定して置けるので、飛んでいってしまう心配も一切要らない。そして無臭で、色も多彩で選択できる。そして屋根の下に使うので防水性などは全く関係ないのだ。



参照:
ふれなければいけない話題 2015-06-29 | マスメディア批評
部分否定即ち全否定の阿呆 2014-09-19 | マスメディア批評
映像の賢い使い方 2013-11-10 | マスメディア批評
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検討対象のアップグレード

2015-07-11 | 雑感
車中のラディオは、思い切った財政緊縮案をギリシャが出してきたとして検討課題となるようだが、精々議論の机に戻らされるぐらいの餌ではないのだろうか。誰も本気で信じられないのでないか。森の中は摂氏14度だった。ラディオは場所によっては摂氏一ケタ台だったと伝える。アルプス高峰ではないのだ。たった数日前には40度に達していたとは思えない涼しさである。気温差で30度は乾燥していても可也のものである。この大気の冷え方は八月には決して暑くはならないことを予測させる。陽射しも弱くなってきているので、天気予報が書くようにとても気持ちのよい天候であるが、室内も足元が冷える。これであと二週間三週間の夏を名残惜しむ今日この頃である。

気温が下がるにつれて、流す音楽も変わってきた。暑いままであったならハイドンのソナタなどへと流れていたかもしれないが、モーツァルトのハイドンセットやプロコフィエフなどへと流れてきたので、自らの遣ることながら涼しくなった証拠だと感じる。

クレディットカードの支払いの関係で、ルフトハンザのそれも調べていたら、今まで使っていたカードでは溜め込んだマイレージが保存できなくなっていることに気がついた。昨年の十月からの変更で、2015年度からは最低3000ユーロの売り上げがないと初期の目的を達成できないことが、当時のメール等から確認した。

二年ほど前までは大分使っていて全くそのままでも問題なかったが、最近はカード自体も他の銀行のクレディットカードに比べると使い辛くなっていたのだった。だから余計に使用頻度が落ちる。だからよほどそのカードに使用を集中させないとその額にもならなくなった。仕事で使わなくなったからだが、それによる買い物も減らしていたので、その変更には驚いた。

それでも先二年ほどの間に日本へ飛ぶ予定もなく ― 精々十年に一回の一月ほどの滞在が限度である、また飛行機で遠くまで飛ぶ予定もない。そこでマイレージを保存するには、会費の倍もするゴールドカードにアップグレードするか、売り上げを上げるために年末まで頑張らなければいけない。

以前は独テレコム関係のネットショッピングでもマイレージが集められていたのだが ― そこでマイレージを集めながら割安の富士通のノートブックを購入したのだった ―、それも営業不振からなくなり、マイレージを使う方法もあまり便利ではなくなってきている。そのようなことで頻繁に飛んでいるフレクェンシーならばそれでよいのだろうが、業者にとっても取り扱いの煩雑さなどであまり価値がなくなってきているのだろう。同時に金融緩和政策で、マイナス利子などが施行されているので、金融機関は売り上げを上げないことには厳しくなってきているのだろう。



参照:
五里霧中のアップグレド 2008-03-13 | 生活
搭乗への期限が延びる 2007-04-03 | 生活
品薄の商品が同時に二つ 2012-12-12 | テクニック
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デジタルコンサートを試聴

2015-07-10 | テクニック
ベルリンからのデジタルコンサートホールのダウンロードを試みた。目的は折角のサウンドをまともに聞くことである。そのためには一度CDRに焼く以外に方法がないので、そのためにはハードディスクにコピーしなければいけない。ネットで見ると何か日本では、解析して成功すれば、個人の使用目的とはされずに罪に問えるという。流石にソニーのお膝元の重罰化の国だけのことはある。しかし今回の試みは未遂だった。

しかし、誰でも分かるように、自分のPCで再生された限りは間違いなくそのことは記録再現できるのである。つまりスクリーンショットやサウンドカードからの信号を記録したに過ぎないが、双方とも想像以上の画質と音質で記録できた。残念ながらソフトなどに投資するわけではないので、その辺りに転がっている合法的なフリーソフトを組合せたので、画像と音は別々に高品質を狙わなければいけなかった。

そもそもオペラとは違ってコンサートの中継動画を見て合点がいったことは一度もないどころか、音楽鑑賞には与えられたアングルが邪魔をするだけでしかないことが殆どなのだ。実際のコンサートではオペラグラスを持ち出すこともあるが、それとは全く異なるのである。だから本来は画像はどちらでも良いのだが、驚くほどの高画質で録画できたので、出来れば高音質のそれをつけたいと思うぐらいだ ― それにしても楽器ならまだしも腕時計の銘柄までが分かるような映像のどこに音楽があるのだ。

さて肝心の音質は、これはまたPCで見聞きするときも同じなのだが、回線の状況が悪くなって画像がかくかくするのと同時に音切れもするのである。だからDLさせる事が有料ネット放送の最低の条件だと思う。生放送でなくてもアーカイヴからのそれが完璧でなければいけない。しかし、最高の質に合わせると大抵の人は完璧に鑑賞できないに違いない。恐らくそれが可能なのはベルリンかボン辺りの官庁街に近い場所ぐらいだろう。前者ならばフィルハーモニーに通った方が良いのである。

最終的なCDRは、24ビット48000Hzの音源を焼いたが、ある程度CD程度として評価できる。信号の中断による傷は編集する必要があるが、そのような事故はPCM初期のNHKのFM生放送でもあったのだ。しかし問題はソロピアノの低音部がうだうだになっていたり ― ブルーノ・ゲルバー演奏のピアノでもあるまいし、これは明らかにマイクロフォンのセッティングの影響で、デジタル転送技術の問題ではない。勿論サウンドカードの問題もあるかもしれないが。

そして相対的に思ったようなPCのデジタル回路のノイズが少なくて、アナログにおけるアース漏れのようなものが少ないのである。これならば、ネットからの信号を手短に扱うことが出来て、ファン音などのしないノートブックからHDMIで出力すればピュアーデジタル音の再生可能かと考えたら、実際はその音質は技術的に克服すべきもののようで、高級ホームシアター装置などの問題のようである。要するにオーディオに関してはそれほどの配慮がなされていないのだ ― 現時点でもCDの音質が手っ取り早く体験できる高品質であることには間違いない。

今回の一連の試験で分かったのは、VIDEO生中継されているような内容は上手く受信できればハイレゾリューション対応の音質ともなるが、実際には中断傷なども十二分に一度ほどもあって、そのコンテンツを嘗てのオーディオ環境と同じぐらいの質で体験している人は限られていて、そもそもそうした市場が存在しないということらしい。少なくとも音質に関しては90年代のDSR放送を上回って体験している人は殆どなさそうだ。

MP3と称する結局は高品質サウンドのコピー保護機構のようなものが普及したお陰で、デジタルオーディオ市場も全てホームシアター程度に収斂されていき、挙句の果てはそうしたコンテンツの提供で金銭を受領しようとしている。少なくとも90年代のそれは受信料の中に含まれていたのだ。

ベルリナーフィルハーモニカーは公的機関ではないのでそのネット放送等から徴収する事は構わないのだが、少なくとも公的援助も流れていることであり幾らかは配慮すべきだとの批判も多い。更に徴収しておきながら十分な再生環境を整えることが殆ど不可能だとすると、通常のサーヴィスならば消費者保護に抵触する。弁解は分かっており、そもそも音響のための動画配信ではなく、ホームシアターのコンテンツの配信だとすると、今度は公共放送が流しているようにドルビーサラウンドなどにも対応していないようでは、中途半端な印象を受ける。

タブレットにアプリケーションを入れてログインすると、無料の他のコンテンツが見つかった。昨年九月のフェストヴォッヘでのラトル指揮のシューマン・ブラームスツィクルスからである。これもラジカセでは分からないのでCDRに焼いてみなければいけない。こうして無料のコンテンツを置くぐらいならば、出来る限り生放映は無料にして、納税者に還元するべきで、同時に新しい聴衆に語りかけることが重要ではないか。あれだけコピー防止策がとられているのであるから、アーカイヴからだけ料金を徴収しても全く問題にならないに違いない。



参照:
Grexitへのオウンゴール 2015-07-07 | アウトドーア・環境
小さな新帝王誕生の可能性 2015-06-23 | 音
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久しぶりにキンキンのビール

2015-07-09 | その他アルコール
月曜日は再び暑くなったので、夕食は鯖の燻製のサラダでお茶を濁した。実際はビールを濁したのだ。先週末に追加でヴァイツェンビーアなどを買ったときに、どこかにジョッキーがあることを思い出した。もはやグラスでは直ぐに生温くなって飲めないからだ。あれやこれやと思い出しているうちに、BASF印のおみやげ物があったかと思ったが、それは日本でここにはない。よく考えてみると寝室で使っているもの入れが、ヘキスト印の同様なものだったことを思い出した 残念ながら彼のヘキスト焼きではない。早速それを洗って冷蔵庫に入れる。もう一つはルフトハンザ印であった。前者は大降りで蓋がついていて、未使用だった。

色々試して、結局は飲むに少し前から缶ビールとともに冷凍庫に入れるべきだと分かった。そして、ルフトハンザ印でビットブルガーのピルツナーをぐっと飲んだ。最近は息子さんのファン・フォルクセム醸造所のリースリング同様に、苦味と甘みのバランスが良いとお気に入りで、なによりも安くて質が良いのだが、これがまた冷やすと格別だった。こんなにビールを冷やして飲むのは何年ぶりかで、まるで日本のビールのように切れが良いのだ。日本のビールも評判は悪くはないが、こうして冷やしてみると、日本のそれより悪いとは全然思わない。500CCで70セントぐらいだからとても素晴らしいCPである。

火曜日の早朝、走ろうとして準備していると、いつもの沢沿いのコースの終了点に結構なスピードで走りこむ若い男がいた。往復してきているのだろうから、それなりの距離があって、最後のところは苦しいところだが、私と同じように頑張ると息切れしそうになるはずだが、比較的上手にクールダウンさせていた。どうもあの要領は学ばなければいけないと感じた。暑くなると、平素は町の中を走っているような走りの人たちが森に来るようだ。明らかに走りなれた人が多い。



参照:
無花果の木陰の冷麦酒 2006-07-09 | 料理
ロハスのスタイルとは一体 2015-06-10 | 文化一般
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体温よりも低いアルゴリズム

2015-07-08 | アウトドーア・環境
紹介したヴィーンでのフェースブック訴訟は門前払いだったようだ。被害を受けても個人の問題とされたようで、集団訴訟とはならないということだったと理解した。ヅッカーバーク氏が権力を持つことで、そこでなされる検閲やそれを司るアルゴリズムの決定グループの判断は企業秘密の頂点にある。

日曜日は再びクライミングを辞退して、早朝に短く走った。森の中も摂氏27度と最も暑かった。その熱気で走るほうが間違っているかもしれないが、短い中で十分に汗を掻いた。それで十分ではないか?胸が痛むわけでも、足がつるわけでもなく、少しでも運動が出来るだけでよい。しかしクライミングに行くとなると、汗をかくのも嫌だが、それを冷やすためにシャワー直行とはならないのだ。

月曜日は涼しくなって、とても快適だと感じたが、温度計を見ると31度ぐらいに簡単になっているのである。体温よりも少しでも低ければ、現在の陽射しならばもしくは乾燥して室内に居れば快適ということになるのだろう。

なにも運動していないが、週末は十分に頬張ってはいないので、煮豚を取りに行った。ワインを久しぶりに開ける。ライガウワ―リースリングだ。六本買ったそれがなくなりかけている。ロベルト・ヴァイル醸造所のワインは使い勝手が良いからなのだが、ここに来てまた味が変わってきている。どうも酸が落ちたようで苦味が増している。酸の質が悪かったのか?2014年産の典型で、2015年もあまり期待できないので、2013年産をまだ集めておかなければいけないかと思う。

夏休みに入る前なので、学校へ行くギムナジウム生徒を見て、短パンの女の子たちが殆どなのに驚く。いつもはジーンズばかりなので、足を出していると目立つのだが、スカートがないのは学校のガイドラインのようなものがあるのか?フランスのリセならば短パンでももう少しおしゃれ風でスカートも少なくない筈だ。なるほど長ズボンに比較すればスカートにメリットはないのかもしれないが、短パンはそれほど優れているとは思えない。

気温が落ち着いたところで、急いでワークステーションの掃除をする。1.5から2GBになったXP機かつLINUX機は、この増設で倍以上の性能を示すようになった。予想していなかった効果だ。理由はよく分からないが、二つのメモリーが同調して動くまでは確かなのだが、それが二組あると、それ以前の非対称の大きさに比べて処理能力が上がるのか?つまり、二組のペアーがお互いに補うような形になるのかどうか?それほどに能力が上がっていて、新たなペアーが性能的に優れているぐらいとは思わないのである。勿論2GBにおいても100%稼動はしばしば訪れるが、そのときにおいてもフリーズ気味になることが少なく、綺麗に95%稼動の時が多い。

独テレコムの電子メールプログラムをTオンライン時代のまま二十年ほど使っていた。それが取り止めになるというので、XP用のメールソフトを探した。一番評価が高いのかモジラのサンダーバードということで、最近のデーターを転送してみた。少々厄介だったが巧く使えそうだ。将来的な拡張性もありそうで一先ずはこれでよいだろう。ファイヤフォックスなどには愛想を尽かしていたが、ウイルスに感染さえしなければよいのだが。



参照:
スパムフィルターの秘密 2005-10-16 | テクニック
短くない黒いスカート 2013-05-08 | 文化一般
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Grexitへのオウンゴール

2015-07-07 | アウトドーア・環境
予想通りギリシャ人のオウンゴールだ。これではEU側の思いの壷で、グレグジットが遣り易くなる。早く切り離してしまった方が良い。ギリシャと同一経済圏に工業先進国がなっている方が不思議なのだ。左派政党は援助の手を差し伸べ続けることを提案するが、この場合殆どその声は届かないだろう。元の鞘に納まれば、結局出稼ぎ労働のユーロを自国の金に替え、低所得者層にとってもそれなりに満足した生活が出来るようになるのだろう ― 少なくともポーランド並みの猶予を与えるべきではなかったのか。しかしユーロで生活しているうちはそうした経済もなくなり、こちら側の実感としてもギリシャ製品で恩恵を受けたことなどはなかったのだ。オリーヴやチーズなどにしても安く良いものが入るようになった印象もなく、価格の張るものはあまり市場が築けていない印象が多い。まさに今回の国民の意思表示は、それでもどうにかなると高を括っている国民性そのもので、早々に脱落した方が良いということだ ― 英国の問題の方が重要である。

無料になっているということで、ベルリナーフィルハーモニカーのデジタルコンサートホールを観た。音質を最高にしたからか触り集よりは大分良い印象を受けた。システムも最新に保っているようで、なかなかダウンロード出来ないようになっている。道理でネットでなかなかペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーの演奏が落とせなかったはずだ。

2009年5月10日の登場のものは、一曲目がベートーヴェンのハ短調協奏曲で、これまた初めてのラルス・フォークトというピアニストが弾いている。なにかとてもテムポを遅くして弾いていて、合わせるのが大変そうで、ディノ・ルプーでもないのにと思う。アンコールでショパンを弾いていたが、なるほどこうしたところで売っている人なのだと了解する一方、一体ベートーヴェンでなにをしようとしているのか理解不可能だ。

さて、エルガーの二番の交響曲は、なかなかその重苦しい管弦楽に苦手な印象があるが、それでなくても十分にピラミッド型の音響を誇る交響楽団を、精緻に、的確に鳴らしていて、感心する。サイモン・ラトルのように強音で痙攣さすでもなく、とても音楽的に充実した響きを逸脱しないのが良い。同じ作曲家の「威風堂々」などでの鳴りを考えれば、そうした糊代がある感じがよいのだ。ショルティー指揮のロンドンの交響楽団の録音などがあるようだが、こうした面はそこではあまり求められないのではないか?この最初の登場で評価は定まっていたようだ。

気温が上がって、自己体験最高気温を経験した。体温よりも気温が高いだけで、室内の椅子等、陽射しに関係なく暑くなって、触れるもの全てが不愉快だ。全身にじわじわと湧き出る汗を水で何度流したことだろう ― 特に首周りは懐かしい汗疹になる感じだ。夕方になってパラパラと来て三度ほど気温が下がって36度になると涼しくなったと感じる。それでも就寝前になってPCが臭くなってきたので、フォンをまわしながら急いで緊急停止した。焼け付く可能性があったが、大事には至らなかったようだ。

夜中には冷たい風が出てきて、寝室の窓を少しだけ開けて就寝した。開けっ放しでは間違いなく風邪を引く。これで先ずは乗り切れた。死亡者も出ていないようである。毎日ビールを2リッターだけ飲んだ。これで漸くワインに手が出るようになった。また暑くなるようだが、この記録は当分超えないだろう。



参照:
カウンター攻撃の自己欺瞞 2015-06-21 | 歴史・時事
彼方の高みは? 2006-07-21 | アウトドーア・環境
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夏の橇滑りのあとに

2015-07-06 | アウトドーア・環境
買い物への途上のラディオの話題は私の従来からの関心事だった。つまり極東アジア人とロボットもしくは現代科学技術との関係が話題となっていた。特に日本に関してはロボットと日本人の付き合い方が解析されていて、ホンダという研究者が語っていた。それによると、「一神教ではない日本人は、全てに魂が宿る」とするアニミズムがロボットに対しての日本人の立場であるしていて、とても違和感を覚えた。その「自然」とするところと工業技術のロボットの繋がりが全く説明されていないからで、なるほど工芸品にも職人の心が篭るとかの考え方とは異なるだろう。その証拠に、「仏作って、魂入れず」の常套句にはそれらを明らかに否定する深い意味が読み取れる。

擬人化に表れるようなそうした心理が、ボケの入ったような高齢者に当てはまるとしても、そうした商品などを作っている技術者やエンジニアーには当てはまらない。そこで、次は日本学のコジマ・ヴァークナー嬢が、私が言いたいことを代弁する。それは鉄腕アトムなどの戦後の漫画文化に代表される戦後文化だろう。そして、それが訳されたときのアストロボーイという呼称がまた気になった。なぜアトムボーイではいけなかったのか?

手塚治に詳しい人に教えてもらいたいと思うが、これはその当初から正力の原子力利用の世論形成への戦略にその創作が深く関わっていたのだろう。そうした日本の核戦略をそのまま外国では利用する訳にはいけないからアトムの名は未だに慎重にさけれれているのだろうか?その影響下に日本のエンジニアーなどが置かれて、それが日本の戦後の技術立国政策とともにロボット利用へと引き継がれているとするのが正しいということだろう。

その背景には、先の研究家の思索へと戻って、本来の科学的思考やその基礎となる哲学の欠損が、明治以降の日本の近代化の大きな特徴であり、非合理な精神がその社会を特長つけているとしてよいだろう。恐らくそれが日本や極東での科学文化への対峙のあり方として共通しているところでもある筈だ。

暑さも頂点に達している。そして同時に落雷や雹が降って、急激な気温の上昇が悪天候となっている。シュヴァルツヴァルトやチューリンゲンなどでは激しい雹に襲われて、真っ白になった街中でそり遊びに興ずる子供の姿が写っている。出来れば、早くそれぐらいに冷えて欲しいが、ワインには今頃の雹は被害を与える。なぎ倒される木や葉が攻撃されるので、その後の生育に甚大なる影響を与えるばかりか、葡萄にも直接の打撃を与えるだろう。一方各地のアウトバーンでは、ハイデルベルクで路面が浮き上がるなどの高温の被害が出て、速度制限がなされたようである。日陰で摂氏40度なら当然だろう。



参照:
既視感と焦燥感の恍惚 2007-12-03 | 文学・思想
天候即ち偶然に頼って 2006-06-21 | 女
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淡くうたたかな夏の午後

2015-07-05 | 生活
新たなコースを求めて足を進めた。森の中も摂氏24度を越えていて、陽射しもある。どのようにして暑気を誤魔化すか?森の中を行きたいが、いつもの沢沿いは前日に走ったばかりで、全体の印象として涼しさや清々しさは求められない。そこで、いつも峠から下ってくる坂を走ってみた。以前は未知のルートは恐る恐る試しながら走ったのだが、最近はある程度の長さや勾配を知っていればそれほど問題なく完走できる自信がある。

足を進めてみて、いつも駆け下りるときに結構長く感じる道が意外に調子よく逆に流れる。下りと上りの違いはなかなか分からない。最初の坂を七分かけて登り終えた時点で、いつもの峠まで逆走するのは傾斜が弱いので問題がないが、いつも登っている林道を降るのがその陽射しから嫌だと思った。そこで、今まで足を入れたことのない林道を先に足を進める。いつもの沢沿いの道を上から眺める感じだ。最初に坂があった分、まだまだ先に進んでいないことを認知する。

未知の道は、おおよその方向や出口は見当がついていてもやはり走りにくい。そこで考えるのは、そこまでの走りと駐車場までのゴールを上手く走って繋げれるかどうかの心配で、それも快適な帰路であることを願っている。十分に登ったのであまりアップダウンは叶わない。それに沢沿い以上に距離が長くなると厳しい。

いつも見過ごしているきこり道に合流することを予想して、その道が沢沿いの道に合流してから駐車場までの距離感や日陰などを想像するのだ。案の定きこり道に出たので、一気に沢沿いまで降っていくだけだ。そしてはじめての道を降りていくと、前方の交差する道つまり沢沿いの道を女性が走るのを見た。

結局その女性を後ろからついていくような形で走った。その前が下りだったのでいつものコースよりもスピードが出ていた。それでもゴールまでに追いつくことはなかった。女性もジョギングテムポとしては普通で、走り終わってから入念にクールダウンを長く時間をかけているのを見ていると、全くの素人ではないことが分かった。結構な年齢で40歳は過ぎていそうだが、この暑さの中で走っているので、マラソン大会かなんかの準備だろうか。ハーフなら二時間台で走れるのだろう。確認するとそこでは自分自身も時速9キロペースで走っていて、なかなか追いつかなかったのだ。そして今まで見たことががない顔なのだ。

とても興味深いのは、GPSが南斜面を登っていくために比較的上手に捕捉できたのは当然だろうが、なぜか沢沿いの道もとても綺麗にトレースしている。どうもその前後の捕捉が

30分近く、80Mほどの高度差を、いつもよりも長めの距離を走って、汗が噴出した。それでも体重は殆ど落ちない。水太り気味である筈だが、少々汗をかいても体重が減少しない。暑くなると平素よりも太る体質なのだ。冷たい飲み物や食事が続くので体調を崩し勝ちになるが、食欲が完全に落ちることはない。反面、疲れはやはり隠せない。ベットに入るなり深い眠りに落ち込んでしまって、ベットに向かうまでにお茶を冷やしたりしているのもふらふらになっている。水に浸けたまま冷蔵庫に入れるのを忘れる。

この時期には電源を入れるのも暑苦しくて嫌だが、コムピューターと並んでアウディオ装置は点灯される。それでも出来るだけ消費電力と発熱を抑えながらの省エネ運行となる。暑い時期にはマンハイム楽派の音楽が最も清々しくてよいのだが、LPの方はプレーヤーだけでなくプリアムプに電源を入れないといけないので、CDで何かを探す。どうしても手が伸びるのは、お気に入りのザビーネ・マイヤー演奏の前・古典派曲集である。マンハイム宮廷のシュターミッツ曲集が丁度いい感じなのだ。モーツァルトとなると濃淡の移り行きがあって清々しさが後退する。勿論同じマンハイムからでもウェーバーとなるとどうしても和声も重い。それにしても、どこか懐かしいような響きの濃淡の移ろい行きに、シュヴェツィンゲン離宮の夏の風情を感じていると、直に机でこくこくと遣ってしまうのだ。夢のものとも現実のものとも定かでない、淡く、うたたかな盛夏の午後である。

ワインは、ザールのギュンター・ヤウフの醸造所から大叔父さんの名をつけた「マックス」である。グーツリースリングに相当するが価格も10ユーロを超えていて、高級リースリングの入り口にある。これが、ピーチ味が薄らいで変化が出てきたと感じると同時に、引っ込み思案な優しさがとてもザールのリースリングらしく、人気商売のオーナーにとっては嬉しいリースリングに違いない。



参照:
von Othegravenのベーシックなワインです。 (saarweineのワインなどに関してあれこれ)
財政破綻などどこ吹く風 2015-06-05 | 試飲百景
生きてる内にもう一度! 2007-10-03 | 文化一般
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悩ましい暑気払いあれこれ

2015-07-04 | 
早朝の一汗だ。少々寝坊したので、陽射しは強く、既に森も摂氏22度まで上がっていた。沢コースに関してはGPSが満足に働いたためしがない。そして先日から気になっていた沢の対岸を一部走ることにした。GPSには更に条件が悪そうだが、なんといっても森が深く、陽射しが当たらない。対岸の一部照り返しの薄い登りとは大差がある。しかし、林道ではなくてハイキング道なので、足元は悪い。スピードは落ちても距離が少しでも伸びればよいか。

その分かれ道に至るまでに森林保安官の車に道を譲ったが、思ったよりも早い走りが出来ていたようだ。新しい靴を履いたからだろうか?対岸は足元も見通しが効かないので、時速で一キロほど遅くなっているが、帰路の後半ほどの落ち込みはない。復路の日照りは流石に堪える。爽やかさが無く、砂埃すら感じた。汗は掻いたが、距離も短く、体重は700Gしか落ちていなかった。

そして意外なことに対岸のGPSは比較的正確に捕捉出来ている。しかしまたもや帰路の後半が谷を降りてしまっているのだ。理由は分からない。往路は捕捉出来ているのだから。重要なポイントを離れてしまっているのか?この対岸のコースは使えそうである。陽が当たらずに足元も悪くないコース取りは無いか?そしてGPSの捕捉出来るのである。

一月間使って時計の充電地が零になった。旅行先でも使っていたので、通常の走りトレーニングではどんなに走っても一月はもつだろう。もう少しナヴィとしても使いこなしたい。年に充電回数が20回を超えることはなさそうだが、五年も使えばある程度元が取れるだろう。

暑さのためか、夜中の夜露のためか、左の耳の奥が時々圧迫される。血圧がそれほど高いとは思わないが、あまり気持ちのよいものではない。翌日に備えて二リットルのお茶を沸かして冷蔵庫に入れておくと、水蒸気が壁に氷着していた。序に寒天をフルーツティーでとかして夏菓子とした。砂糖と蜂蜜の甘味に料理用のミュラーテュルガウの香りが高級感を与える。

屋根裏部屋の日除けが破れてから長く使っていなかったので新調しようと思っていたら、また今年も時期を失したようだ。発注して二週間から三週間待たなければいけないならばあまり価値がないであろう。そこで違う方法を考えた。反射シートを貼って、超高層ビルのガラス張りのようにするのだ。問題は冬の採光で15%ほど可視光線も赤外線もカットされるので、暗くなって太陽の熱の恩恵も受けにくくなる。なかなか頭の痛いところだ。そしてなによりも憂慮しているのは剥すのが結構大変だという苦情があるのだ。製品自体は20ユーロぐらいでガラス何枚か分になるのだが、そのために準備する道具や、暗すぎるために剥すための苦労を考えると躊躇する。兎に角、今回の猛暑に間に合わせて、急いで汗を掻きながら対処するよりも、次にも同じような暑気が訪れるときに備えての対処となる。



参照:
暑気の隙間に感傷旅行 2005-07-03 | 歴史・時事
暑気を忘れて漆黒の闇へ 2007-08-08 | アウトドーア・環境
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MP3でなにを聴くべきか?

2015-07-03 | 
週末は殆どHiFi装置に電源を入れなかった。PCでVIDEOをDLしたり、流したりしていたからだ。それでも結構音楽鑑賞できるような錯覚に陥っていた。そして昨今のVIDEOがDVDどころかBluRayを反映してニタ桁のGBであることが多いことから、その音声も気になってきた。ネット生放送などはかなりの迫真感があるのみならず、DLしたその大きなデータでも画像が驚くほどに新鮮なのだ。生の質をそのまま記録してあったからだろう。

画像などはレンズの切り取りが効果があるが、とても劇場ではそこまで感じられないという美しさまである。しかし、音響はどうだろう?一連のミュンヘンの劇場の生中継のアーカイヴを集めてみた。録音自体は劇場空間を良く知っていて録っているので、とても音響空間が忠実に再現されている。少なくともその鮮烈な映像とともにPCで鳴らしている限りは違和感を感じない。

しかしHiFiに繋いで調べるには、簡単にはCDプレーヤーのUSBを利用するために、先ずMP3にしなければいけない。しかしどうしても情報量に限界がある。そもそも生録音であるから録音芸術の域を求めるわけにはいかないが、やはり音の充実感にまでも至らない。不思議なことにCD黎明期にアナログファンが吐きすれた言葉「実体感」に欠けるのだ。それが今はどうだろう。

多くの音楽ファンには、CDをMP3に落として、CDを処分する「蛮行」までが盛んなようだ。そしてDLも価格もその質に合わせてCDの十分の一の価格でもなさそうだ。商業的に考えれば、その儲けは20倍ほどになるだろうが、同時に違法コピーも半ば認めている形になっている。もともとはそれも含めてのそろばん勘定だったのだろうが、メディア産業はこれにより自ずから破滅への道を突き進んだ。

それでは、音楽ファンにとってはこうした非可逆的圧縮データーでなにを聴くことが出来るのか?これを手元の装置で試してみたのだ。結果は予想以上に厳しく、MP3やIPodで聴ける「音楽」は限られるものでしかなかった。少なくともオーディオ趣味を卒業して長い私にとっても、それらは殆ど無用の代物であることが分かって愕然とした。

DVDを自分でリッピングしたものと比較しても、DLしたDVD水準の生中継をWAVにして一時間当たりCD一枚にして焼いたものとも比較にならないものだった。当然のことながら90年代に中継で流されたデジタルの有線放送で録ったDATはハイレゾレーション並みなので別格であるが、それはDVDから焼いたCDよりも優れていたが、それはDVD自体が初期のPCライヴ録音が音源であったことや、CDを焼く機器の問題等があるので、これまた通常のCD録音との差は明白なのだ。試聴に使っているシステムも高級システムには違いないが、決して本格的なHiFi装置ではないのでその限度は明らかで、スタジオのモニターとは一線を画している。それでもMP3との差は甚だしかった。

それならば、市場が大きいながらMP3でなにを聴けるのか?音楽関係の友人もMP3を持ち歩いて、それを土台にしてラディオで音楽評論をしている者もいる。なるほど聴き所を押さえればかなりのことが評価できるのは確かであり、その意味においてはHiFiなどは必要がないということにもなる。しかし、万人にとってその音響の差は明白だ。

音楽を鑑賞するためには決してスタジオモニターやハイレゾなどは要らない。それならばこの差はなになのか。そこで気が付いたのは、音楽の感応などは脳内の追体験のようなもので、既に体の中にある記憶のようなものを呼び出すことで、丁度コムピューターのキャッシュのような感じで、それと付き合わせることでの体験に過ぎないということだ。だから、そのような複雑な音響について意見するにはそれだけの経験と見識が必要になるということだろう。

その反対にMP3では、脳内世界の追体験の切っ掛け以上の、それを超える体験を得ることは難しい。これは音楽に限った体験ではない。芸術一般に共通している。些か美学的な考察になるが、近代の芸術においては、こうした経験したことのない美を体験することで、五感によって覚醒することの価値が尊ばれてきたわけだが、同時にコマーシャリズムの中でこうした追体験をよしとするビーダーマイヤー的な手頃なものが消費されてきた歴史もある。

なにもここで啓蒙思想やその覚醒について触れる必要もない。しかし少なくとも現実に生きてその自らを取り巻く環境を自覚する限り、昨日と今日が、今日と明日が全く同じであるはずがなく、なんら新たな経験もないとなれば、時間のない世界となって、全ては一挙に生気をなくしてしまうのだ。モルヒネでそのような死の床に、一刻も早く進みたい者はそれほど多くはないであろう。

LP復活や、ハイレゾリューションなど、新しい刺激を市場に与えようとしているが、MP3のポピュラリティーを考えれば、そもそもCDの実力すら一般大衆には未だに経験されていないハイテク技術であることを思い知るのであった。その一方で、ネットの世界では大容量のデーターが溢れている。ただしこれを十分に体験するにはスタジオのシステム相当のマッキントッシュシステムなどのコムピューターが欠かせないのである。



参照:
ワイン祭り最終日の過ごし方 2015-06-22 | 暦
初めての三星商会製品 2015-06-12 | テクニック
カウンター攻撃の自己欺瞞 2015-06-21 | 歴史・時事
歴史的分析対象となる思索 2015-05-08 | 歴史・時事
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