Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

偉大なるマルクス様像

2018-04-16 | 文化一般
トリアーのマルクス像が設置された。贈答主の中共政府と一悶着あったが、ローマ遺跡のポルタニグラとマルクスの生誕家の近くに設置された。最大の争点は中共政府が提案したその像の大きさだった。今回設置されて5月5日の200歳のお誕生日にお披露目を待つのは、― 恐らく待つのは政治家諸先生と送り主の中共の大使達のご臨席だろうか ―、なんと4.40mの高さで2.3Tの重さの像である。つまりトリアー市で反対された巨大像は6m以上の計画だった。如何にもシナ人の考えそうなことである。

兎に角、シナ人の旅行目的地となったトリアーであり、その観光収入を考えると少なくとも中共の申し入れは断る術はない ― 姉妹都市のヴァイマールなどはシナ人などに来て欲しくないとまで言っている。それでもシナの感覚に合わせる訳にもいかぬ。三十年前ならばマルクス像自体に反対の意思が強かったとSPDの政治家が語っている。まあそれでも、十分な大きさで、中共も容認可能なプレゼンスは確保されたのだろう。それでも式典までに壊されてはいけないので昼夜監視体制が引かれて、五千ユーロから一万ユーロの費用が掛かっていることから、それだけでも雇用が増えたともいえる。先ずは正式のお披露目まではコートを着せられているようだが、先ずはお顔だけは捲って写真撮影と相成ったようである。式典はその割礼から始まるようだ。
Kurz vor dem 200. Geburtstag: Trier widmet Karl Marx eigene Statue


久しぶりの峠攻めだ。日曜日にパン屋が開くようになったので、土曜には休んで日曜日に備えた。感想だけを目指した。前回は熱を出すその聖土曜日だったと思う。往復出来た。投薬を止めて初めての朝の鼻の調子も喉の調子もまずまずだった。それどころか前夜のステーキの消化も良さそうで、走って来てすっきりした。これで頭痛も消えて、気管支炎の炎症も収まれば完治である。インフルエンザは怖い。

早速、「ポッペアの戴冠」一幕10景までを流した。DLした楽譜ではアレグロとなっているところが、ルネ・ヤコブス指揮では悉く無視されていて、それより遅いテムポの快適さの中に散りばめられている。なるほど手書きの古い楽譜を見ると、そのような感じでよいのかとも思うが、解釈には違いない。この辺りは注目で、今回のマンハイムでは舞台も当時のヴェネツィアバロックの考証をもとに制作していて、音楽も当時のバロックオペラ風に様々な器楽曲が挿入されているらしい。ある意味、ヤコブスの仕事は楽譜から繊細さを抽出して再現したものであるが、個人的にはバロック表現として若干の違和感も持ち続けていたので吟味したいところである。このオペラの父のような作曲家のマドリガーレとオペラの関係がそこにあるのかなとも思う。

それにしてもこうした一次資料に近いようなものが簡単に居ながらにしてDL可能となり、嘗てならば指導者か研究家ぐらいしかが目を通さなかったようなものに目に触れることが可能となっている。とても良い時代であると思うとともに、聴衆の目や耳が肥えて来るのは当然で、それに匹敵するようには音楽ジャーナリズムが追いついていないことを嘆くしかないのであろう。様々な専門分野において、ジャーナリズムがプロフェッショナルからアマチュア―へとその質と量とも変わってきて来ることは当然のことなのである。



参照:
Statue von Karl Marx in Trier aufgestellt, ka/ (dpa/twitter.com), (DeutscheWelle)
多重国籍の奨めと被選挙権 2017-03-15 | 歴史・時事
自宅よりも快適な車内 2005-02-14 | 歴史・時事
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「ポッペアの戴冠」再会

2018-04-15 | マスメディア批評
ナチョナルテアターのティケットを買った。12日のベルリンでのコンサート評を読んでいて、SWRのサイトにマンハイムの初日の評が載っていたからだ。二十年ほど前に新装なった大劇場に初めて入ることになる。小劇場は芝居でお馴染みだが、あのマンハイムのごたごたは御免だったから機会が無かった。しかし今回はバロックアンサムブルが入っていて劇場の座付き管弦楽とは関係が無い。これだけで先ずはいい機会だ。そして「ポッペア」の演出も中々よさそうである。このモンテヴェルディの名作を最後に聞いたのはアーノンクール指揮のコンツェルトュスムジクスだから、これまた20年ほど前のことだ。歌手も悪くないようで、音楽的には可成り質が高そうだ。そもそもドイツ語圏でもヴァークナー協会の発祥の地での屈指の名門なだけあって今でも歌手の登竜門である劇場であることには変わりないだろう。

その横にマンハイム名物の聖金曜日の「パルシファル」上演の維持活動が報じられているが、一寸流れる音楽が莫迦らしい。あのような1950年代の演出を残して、程度の低い音楽でうっとりするような人に音楽もヴァークナーも分る筈がない。本末転倒である。ミュンヘンでも「ばらの騎士」維持の署名活動が始まっているようだが、ああした古い演出を有り難がって残していったい何をと思うのだが、芸術とはまた異なるところでの大衆の動きがあって、如何にもオペラ劇場世界が非芸術的な世界であるかが示されているようなものだ。だから私はそんな退屈なオペラなんかには興味がない。時間の無駄である。

しかしこうなると、一週間のうちにあの長いオペラに目を通しておかなければいけない。楽譜に目を通すのが初めての曲どころか、モンテヴェルディのオペラでは初めてだ。体調が充分でもないのに間に合うだろうか?席はバルコン席を試してみるので、ピットの中は見えるだろうから、通奏低音部もよく分かる筈だ。さてその価格の30ユーロは安いのか高いのか、試してみなければ分からない。ラインネッカー地区ではこの手のバロックオペラはシュヴェツィンゲン庭園内のロコロテアターと決まっているが、今回は近代的な劇場である。同地でのルネ・ヤコブス指揮の公演は今でもレフェレンスであることは変わりないが、その録音を今回通して聞いてみる心算だ。

12日のベルリンでの演奏会評が面白い。そもそもSWRが態々ベルリンのフィルハーモニーまで行って報じること自体が、ミュンヘンのBRが報じないのと対照的で面白い。要するにこれからお迎えする所と、去る者を追わずのミュンヘンとの違いだろう。だから「三日間のどれも売り切れていない演奏会は、あまりにも知られていない曲でのプログラムに原因がある」として、「こうした巧妙で実験的なプログラムに聴衆を獲得しようと思えば、ペトレンコがコミュニケーションで何かを示さなければならないだろう」としていることは、そのもの復活祭で芸術的なコンセプトを高めれば問題となることであり、予め皆で試行錯誤しているという事でしかない。これは我々の問題でもあり、芸術活動の核心で、上のような焼き直しの演出をやるような無批判の悪趣味なオペラ劇場やその聴衆層とは正反対の態度である。

ピアノを受け持ったワンに対する風当たりはどの評を見ても強く、そもそもその名人性をアムランなどと比較するべくもなく、一体何を彼女から期待しているのだろうと不思議に思う。新聞によればまさしく映画館での放映はそのハイカットの衣装のお陰でありというような下らないことを今更書いている大衆紙があるぐらいで、そもそもの市場の相違と、如何にそれをアップグレードして繋いでいくことが難しいかという事である。その意味ではありえないと思われるランランのカムバックで、ペトレンコと共演するというような考えられないことが実現するとなると更にそうした市場への挑戦となり、ただでは済まないことになる。一体誰が背後で画策しているのかは分らないが、話題性だけでは終わらない。

ワンに関しては自己弁護どころか「指揮者も私の早いテムポに慣れて来たわ」というような突っ張った言動のようなものがあったが、正直彼女がとても苦労してやっていることとその言動が全く一致していないので ― 彼女の投資の回収ばかりを考えた目の回るような公演回数では本格的にピアニズムのステップアップしてくることも困難であろうが ―、新聞が「(そうした彼女の考え方は)明らかに失敗であり、ワンはペトレンコの良いパートナーではない」とか、真面な所ではSWRが「ユジャ・ワンはペトレンコの繊細に対応する術がない」というのもあまりにも当然過ぎて態々示すことでもない ― 明らかに彼女の利点に注目する方に価値がある。少なくとも彼女にはランランが学べないことを学ぶ素養がある。新聞にホルンのクーパーと同時期にカーティスで学んでいたと書いてあった。寧ろ管弦楽の出来ていないことを指摘することで浮かび上がることの方が大きい。



参照:
Vielversprechende Eintracht, Christian Schruff / Online-Fassung: Jennifer (SWR2)
解像度が高まると 2018-04-14 | 音
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感



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解像度が高まると

2018-04-14 | 
ベルリンからの中継を聞いた。流石にフィルハーモニカーはイスラエルフィルとは違う。分かり易い喩え方をすれば解像度が、1k,P1080に対して780ぐらいの差だろうか。たとえイスラエルでキリル・ペトレンコと練習して何回も本番に上がっても、フィルハーモニカーが初日で見せるような解像度では演奏出来ない。これが一流と二流の明らかな差だ。

今回も鉄のカーテンを引いて徹底的な練習をしたらしい。ワンがピアノを受け持ったプロコフィエフの協奏曲三番では各パートを別途にゆっくりと弾かせてその音を確認させたと想像する。解像度が上がれば上がるほどピントが合っていないところがハッキリしてくる。この曲も一曲目の「ラ・ぺリ」も三曲目のフランツ・シュミットの交響曲もまるでフィルハーモニカーの課題曲の様になってしまった。これらの練習をすれば何が出来ていて何が出来ていないかが明らかになるからだ。

その意味からはプロコフィエフでの弦は特に高弦を主に健闘していて、その程度に管楽器が合わせてくることの難しさを感じさせた。傷は仕方ないとしても、十分に音が出ていないようで、この辺りはどうしても合衆国の超一流楽団のややもすると「アニメーション化」するぎりぎりのところで鳴らすものとの差が明白だ。だからといって個々の楽器がそれほど深い音を出すわけではなく、要するにその程度までアンサムブルの精緻さを上げようとするとそれだけ歌い込めてないという事だろう。合わせるのに余裕が無い。

恐らく管楽器に関してはサイモン・ラトル時代に適当に遣らせたツケがこうして回ってきた感があり、キリル・ペトレンコ時代に変化が期待される面だろうか。金曜日土曜日と二回、そしてザルツブルクとまだ練習する時間はあるので、ルツェルンではその成果を聞かせて欲しいところである。昨年の様に初日で大事故を起こすようなことが無くなっただけでも準備してきているという事だろうか。

管弦楽団以上に顕著にその解像度の相違が出ているのはワンのピアノで、満足行くように弾き切ることが益々難しくなってきているのが分るような演奏で、アンコールを弾かなかったのも頷ける。

ラディオ放送では、前日に収録したクラリネット奏者で楽団長のバーダー氏へのインタヴューが流れていたが、ペトレンコの指揮者としての特徴は氏自身がコーミッシェオパーでソリスツをしていた時からコンサート指揮者であったとするのは必ずしも後付けではないだろう。つまり、指揮者のオーガナイズ能力はオペラ劇場で全体を制御しきるのはとても難しいが、それを経験としてやってきたという事で、それによって歌手にとっても歌い易い指揮者となったのだとしていた。要するにスーパーオパー指揮者でその辺りのオペラ指揮者とは素性が違うのは当然だろう。

まだまだオペラ指揮者云々というのはご愛敬であるが、それ以上に興味深かったのはデジタルコンサートホールのあり方に関する言及である。これはなるほど新しいメディア形態であるが、あくまでも記録以上のものではないとする見解をフィルハーモニカーから改めて聞けたのはとても良かった。それ以上でも以下でもないという事だ。

投薬を止めたいと思ったが、最後の晩は思いがけずもう一つ冴えなかった。喉の感じも鼻もそれどころか頭痛も少しあってまるで微熱でもあるように感じた。それでも森を一っ走りすると気分は上向いたが、油断はならない。ぶり返すとなると今度は医者に行かないと手に負えなくなる。



参照:
再考察ルツェルンの宿 2018-04-09 | 雑感
面白くて、目が虜 2018-04-13 | 文化一般
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面白くて、目が虜

2018-04-13 | 文化一般
サラダ水切り器が壊れた。2014年8月に25ユーロ出したものなので決して安くは無かった。この手の製品は三通りの水切りの駆動方法がある。一つは指で蓋のレヴァーを回して回転させるカム方式、もう一つはモーターの始動の様に紐で引っ張る方法、そして上から押さえてというのを試してみたのだった。これの弱点である上から押さえるのでそこのプラスティックへの加重に堪えられなくなって割れた。更に機構もバネ式なのでその部分への黒カビなども避けがたかった。使った結果は期待したほどではなかった。三年以上使えれば文句は言えまい。そして今度はレヴァー式に戻った。最も安価な商品があるのだが、その倍を投資した。理由は評判が良く、蓋を左右で押さえて固定するという方式を試してみたかったからだ。紐式は最も回転速度が出るが、紐も切れやすく、意地になって回してしまう傾向があるので決して野菜には有り難くないのである。そしてレヴァー式の強みは回転方向を容易に変化させられることだ。

中華製という事であまり出てはいないようだが、材質はFDAやお食事マークが入っているので合格しているのだろう。メーカーは長春成績電気という会社でINTEYと称する商標の商品だ。デザインや色合いの評判はよく、安全性が確保されているとすれば、あとは使い勝手だろう。先ずはそこのゴム輪がはがれたが、これは接着していない証拠で、カビの生え方などが問題になるかもしれない。シリコンスプレーを掛けておこう。

同時に発注したべルント・アロイス・ツィムマーマンの本が届いた。冊子の感じはソフトカヴァーで分厚く、34ユーロ相当の美術展のカタログに近い。パラパラと捲っていてもどんどんと情報が出て来る。書物としては親父さんのコラージュのフォームは取れなかったようだが、より自由でポップな感じで素晴らしい。兎に角溢れる個人的手記や写真の数々が、作曲家を身近に感じさせて、この作曲家に何らかの思いを抱く者は、それは同時代の三島由紀夫世代への郷愁であっても、ヨゼフ・ボイスの時代を感じるとしても、この新刊書は見逃せないと思う。勿論研究者には喉から手が出るほどの資料集となっている。まるで机の上のべルント・アロイス・ツィムマーマン博物館の様である。

それ以上にぺらぺらと捲っていると止まらない。例えば索引に若杉弘の文字が浮かぶと、なぜかなと思ってそこを見ると、彼が日本で「ディ・ゾルダーテン」を初演した時の記録として出ている。勿論のことキリル・ペトレンコも同じように出ている。興味深いのは、この度インタヴューした証言者の中にギュンター・ヴァントの息子さんが出ていることだろう。

またぱっと開けると、そこには手書きの手紙原稿の文が載っていて、マルシュナーがヴァイオリンを受け持つとか、ヴェ―ベルンのカンタータ二番とOpus9の楽譜を送ってくれとか、ついつい目が奪われてしまうことが満載な内容になっている。安くない書籍だと思ったが、既にそれ以上の価値を感じて来ている。目が虜になってしまう。

ベルリンのフィルハーモニーからの中継が楽しみだ。ワンとペトレンコはリハーサルするまでも無く合わせれる筈だが、フィルハーモニカ―がどこまで細かく絡んでこれるのか。ラトルの遺産として管楽器などの合わせ方はお決まりなのだが、その受け渡しや歌い込みの徹底など、キリル・ペトレンコが初日でどこまで絞ってきているかが聴き所だ。そして何よりもフランツ・シュミットの交響曲四番、ルネッサンスになる演奏となるだろうか。



参照:
全力を以ってあたる 2018-04-07 | 文化一般
サラダの水切りのように 2014-09-07 | 生活
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ブラインド聞き比べ

2018-04-12 | マスメディア批評
バーデンバーデンでの復活祭の一連として収録された番組を聞いた。ラトル指揮第七交響曲イ長調演奏の前日の同地での公開番組だ。四人の音楽評論家が四つの録音を持ち寄ってブラインドで聞いて演奏実践に迫るという番組である。この手の評判の高い私の友人が出ているスイスの番組との違いは、演奏実践の相違について分析していくよりも、対抗馬を落として行って最終的に二つを勝負させるというところが大きく違う。つまり客観的な相違を洗う出していくというようなところまで至らない。

今回の番組もだから演奏実践の核というか、演奏家がどのように楽譜を読みどのように音化しているの実態には全く触れない。やはり評論家の質にもよるがアカデミックなアナリーゼを抜けきれない。それでも今回は自身の管弦楽団を持ってベートーヴェンアカデミーを率いているルーヴァンの教授指揮者も一人だったのだが、この人の批評がアカデミックな和声システムの色付けとそこから急に演奏を称して表面的で心が籠もっていないというようなまるで日本人評論家が謂うようなことに飛躍する。

一人目のスイス人が持ってきた録音がヴァイル指揮1811楽団の演奏を称して、音を正しく出すことに終始していると聞こえるらしい。私からすると下手な演奏なのだが、この教授が持ち寄ったアーノンクール指揮欧州管の評判は悪く、最初から落ちた。理由は各声部の方向性が揃っていなくててんでばらばらだったからだ。しかしそれを言い出すとそもそもアーノンクールの指揮者としての限界を定めることでしかなく、そもそもイ長調交響曲と何ら関係が無い話なのである。

二人目が持ってきたのはお気に入りではなく、伝統的演奏実践の例としての提示らしかったが、一楽章主部のヴィヴァーチェでのテムポの動きで皆おかしいと思う。決して伝統的な均整の取れた古典派像ではないだろう。これは細部が弾きこまれていないので仕方ないとされながらも最後まで一つ目と並んで残った。二楽章でもシューベルトのさまよい人や葬送行進曲風が上手に出たからである。教授がここで態々強調するのが二拍目のスラー効果であり、一体この人に習うアカデミーって思ってしまう。要するに二流の音楽学者の二流の指揮者でしかないだろう。二流のアカデミズムに二流の芸術趣味が宿っている。

そこで司会のロッテ・ターラー女史が出してきた録音が面白かった。明らかにフルトヴェングラーの歌い方を真似ているのだ。皆がppの抑え方の難しさについて語るそれで、結局二つ目と比べて本物臭くないので落とされたが、答えはアバド指揮ベルリンのフィルハーモニカーの演奏だった。勿論ラトルはそこまで弾かすことは無かったがということになったが、1990年代当時のあの楽団の状態を表す録音だった。アバドの弟子とされる教授は、この演奏はアーノンクールの指揮だと推測した ― アバドの弟子にはどうも真面な耳を持っているような人が居ないようだ。 

最終的には四楽章フィナーレでのメトロノーム72よりも遥かに速い一枚目が落とされて、二枚目のクレムペラー指揮のモノラル盤が残った。稔りの無い放送だった。キリル・ペトレンコ指揮イ長調交響曲がフルトヴェングラー指揮の価値を超えることなどは期待しないが、上の話しでは触れられていない、楽聖のその筆運びを体感したいのだ。つまり、音楽のアーティキュレーションなどを幾らアカデミックに触れても、その創作の湧き上がるリズムを刻んでというあの感じは演奏家が本当に新鮮な気持ちでムジチィーレンをしていくところでないと伝わらないものなのである。なるほど上の教授が正確に音化しようとする努力だけが耳につくというのは正しいのだが、それはしっかりとアインステュディールングをしてこそ演奏者から湧き上がってくるものなので、教授の言うような「心から出でで心へ帰らんとする」ことはとても技術的なことであることを語らなければ話しにならない。

二拍で区切ろうと四拍を一緒に歌ってその大きなフレージングの流れで和声的に辻褄を合わせようが、その回答は決して伝統的な演奏実践に解があるのではなくて、あくまでも考証的な楽譜への傾倒にしかない筈ではなかろうかと、改めて思い起こさせる放送だった。



参照:
van Beethoven: Sinfonie Nr. 7 (SWR2)
そろそろ詰めよう 2018-03-27 | 雑感
次はシェーンベルク 2018-03-28 | 文化一般
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
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激しく咳き込む

2018-04-11 | 生活
Tシャツとシューツで走った。今年初めてである。ゼーゼーは治らないが、前日よりは明らかに好転している。就寝前に解熱剤を服用したのは変わりなかった。それでもヴィールスは徐々に出て行っている。こうなれば少々の粗治療の可能性がある。沢沿いの往復を完走したので、自信が付いた。スピードは出なくてもこれで発熱さえしなければ、完治は近い。

それでも薄い坂をあがって駐車場に戻るころには嫌な汗を掻いていた。鼻からで出来るだけ放出したつもりだが、まだ全身から嫌なものが出て来る。肉屋で朝食を買っている間も濡れたからだが気持ち悪かった。急いで抗生物質を投与しておく。

昨晩はサラダに続いてスパゲティーを食そうと思っていたが、サラダを残っていたパンと食してヴァイツェンビーアを引っ掛けただけで満足してしまった。朝の走りも距離も短く運動量も少なかったから当然なのかもしれない。それでもまだまだ食欲旺盛とまでは至っていないのでその体調のほどが窺がわれる。

冬タイヤを履いたままだ。サーヴィスのために電話すると5月第二週にしかアポイントメントが取れない。そこでタイヤ交換だけ先にしてもらう。それでも来来週だ。寝ている間に支度が遅れた。電話が辛い。思わず声を張ると咳づいて大変なことになった。



参照:
ナインのはそこやで~ 2018-04-10 | 文化一般
I love „Made in China“ 2018-04-08 | 生活
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ナインのはそこやで~

2018-04-10 | 文化一般
月亭可朝の訃報が入ってきた。ムシの知らせがあった。週末辺りに大袈裟太郎の台北からの中継で名前が出てきたからだ。嘉門達夫に纏わるもので誤って彼の元弟子とか話していたので、鶴光のとまでは訂正する必要も無かった。兎に角、その当時のこの小米朝や小米(後の故桂枝雀)など米朝の筆頭弟子は仁鶴と並んで当時の大阪ラディオの花形だった。関東の談志と並んで鬼才の人物だったと思う。

フィラデルフィアからの生中継を聞いた。現地で日曜13時からの放送がこちらでは19時からだった。先ず送信出力がバカでかくて、どれほどのサーヴァーを用意しているのだろうかと思った。動画ストリーミングほどの容量があるのだろう。初めてだったので、本当に生中継されるのか不安だったが、素晴らしいストリーミングだった。

その有名なサウンドは、ユージン・オーマンディー時代の如何にもアメリカ的に大らかに鳴るそれで、その看板には偽りはなく、ムーティ指揮やザワリッシュ指揮の録音などでもとても立派な音響で鳴っているが、生での実力やその音楽性に関しては未知だった。現常任のネゼ・セガンの指揮は更にこの管弦楽団の可能性を感じさせた。立派に鳴るだけでなく、そのアンサムブルとソリスツの名人芸などが余裕を以って響いた。

ショスタコーヴィッチのソリスツには、日系や日本の姓名などが呼び上げられていたが、その人達は本当に音楽のエリートの人に違いないと思った。こんなに豊かに余裕を以って鳴る交響楽団は他に存在しない。楽器をとても上手に鳴らすだけでなく、楽器も驚くほどよく鳴る。弦から管、パーカッション、ピアノまでが一斉に鳴っても、団子に鳴るどころか、パワーが入れば入るほど音程が揃って分離感が冴えて来る ― ショルティ指揮シカゴの様に音が痩せない。要するに室内楽的に合わせて楽器間の受け渡すと同時にシームレスに合せて来る。

こんなに楽器が鳴る管弦楽団は欧州にはないが ― 奏法の流派や楽器の選択の要素は少なくないとしても ―、昨年聞いたクリーヴランドのそれとは正反対である。敢えて言えばキリル・ペトレンコ指揮のベルリンのフィルハーモニカーの目標ではないかもしれないが、フィラデルフィアのようにたっぷりと余裕を以って鳴らすことも、クリーヴランドのように精緻に鳴らすことも不可能であり、それは昨年の「悲愴」の第一楽章の展開部のあの鳴りの先に課題とするサウンドがあるのだが、この両楽団やシカゴのそれの程度までソリスツも合奏も水準が上がらないことにはお話しにならないと思う。要するに世代交代完了するまでの時間が必要となる。

久しぶりに森の中を走った。走ったと言っても登りは歩いた。胸がぜーぜーすることには変わりなく、就寝前に解熱剤を飲んでいる位だから無理は出来ない。それでも坂を上がると何ともなかったので、徐々に駆け足を初めて、最後には通常に近いスピードまで出ていたようだ。それでも登りには左足の脹脛はパンパンになり、一週間も使わないとこうなるのかとも思った。抗生物質も止めれないが、これで代謝作用も盛んにウィルスが抜けて呉れればよいなと思う。


写真:
ショスタコーヴィッチ七番「レニングラード」のフィナーレ、全強奏になればなるほど各パートの粒が立ってくる。



参照:
細い筆先のエアーポケット 2017-11-03 | 音
現状認識と今後の展開 2018-03-26 | マスメディア批評
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再考察ルツェルンの宿

2018-04-09 | 雑感
二月前にルツェルンの宿を取った。新たに八月の計画を練っていると、二泊しなくても一泊でも十分だと思った。そこで調べてみると、二泊よりも若干安い部屋代で一泊可能な良いホテルが見つかった。予約しておいた。一泊90ユーロ超えであるから決して安くはない。それでも市街地から数キロ圏内のハーロウの高台にある。市内よりもよいのは駐車場が無料なことと景色が良く、静かなことだろう。

朝食を付けると14ユーロほど高くなるが、初日のベートーヴェンの七番の後、アンコールがあってもまだまだ遅くないので、市内で食事をしてから若しくは時間によってはホテルに帰宅後にゆっくり食事をしてからベットに入れる。そしてチェックアウトを11時にするまでゆっくり就寝可能だ。空調も付いているようだから朝寝には困らない。

つまり郊外で二泊するよりも、高価なスイスの食事を二回に限る方が明らかにスイスに落とす金を節約可能となる。スイスは脱脂綿の様にどのような金でも吸い取るような伝統的システムになっているので、滞在期間を短くするのが一番安全だ。上手く行けば、二日目のフランツ・シュミット交響曲4番の後でアンコールがあっても、翌午前一時までに帰宅可能だろう。スピード違反さえ気をつければいいのだ。

来週木曜日と金曜日に放映される同プログラムのお勉強をするつもりだが、中々体調がそれを許さない。まだまだ胸がぜーぜーして落ち着かなく、気力も充実しない。微熱傾向も変わらない。土曜日に皆がTシャツでバーベキューをしたりビキニで陽を浴びていても私は室内で毛のセーターを着て膝から下に寒気を感じていた。特に夕方になると疲れと共に微熱も感じて、食事こそしっかり食べたがまだまだ弱い。結局就寝前に再び解熱剤を服用した。中々投薬を止めれない。

金曜日は欧州中での映画館でフィルハーモニーからの演奏会が中継される。試しに最も近所の映画館の入場料金を調べてみた。8ユーロほどである。自宅で見るためには9ユーロ以上いるのでそれよりは安いが、車で行かなければいけなかったり駐車料金を考えると合わない。平素から映画館に通っている人にはいいのだろう。そのためか、送られてきた絵葉書にはワンのパンツから出ている足が写っている。こういうのはとても販促力があるのは当然だ。その反面、ルツェルンのコンサートの券は今でも余っている。まだまだラトルなどに比較すると知名度が低いという事なのだろう。それでも音楽祭初日のランランのコンサートはまだ完売していない。いわばランランがカムバックするかどうかは分からないでも購入する熱烈なファン層というのは数が限られるのだろう。一方来年のバーデンバーデンのランラン公演の平土間は一席を除いて完売している。

日曜日の晩はフォラデルフィアからの中継を聞いてみる心算だ。指揮はナゼ・サガンで、その才能も限界も分って仕舞ったのだが、それでもライヴァルのクリーヴランドやシカゴと比較してどれぐらい違うのか確かめてみたいのだ。ムーティ―指揮よりもよくなる可能性はあるのだろうか?



参照:
ワイン蔵の温度変化 2018-03-01 | ワイン
演奏会発券当日の様子 2018-03-07 | 雑感
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I love „Made in China“

2018-04-08 | 生活
投薬の影響で粘膜が乾いてきたようだ。鼻の中が洟噛み過ぎで真っ赤になり、喉がくっ付くようになってきた。食事も可能となったので、そろそろソフトランディングと行きたい。抗生物質はまだ中止できないが、解熱剤は止めよう。就寝、起床も通常通りとなったので、買い物に出かけた。大丈夫かと思ったが大買い物を熟せた。週末に完治となればよい。のど飴を忘れずに購入してきた。これがどうしても必要だった。果物も欠かせない。

郵便桶に分らないものが届いていた。どう見てもシナからの直送品のようで、二三日前に充電池が届いたのに、間違いで直送とベルギーからの両方が届いたものと思った。こちらの責任ではないのだが、一つは綺麗に置いておこうと思った。そして封筒を開ける。ドイツの通関の証明も貼ってあるので正真正銘の直送品である。そして開けて分かった。一月前にアマゾンで発注したHDMIケーブルのカップリングのアダプターだった。この間に籠り部屋から出てしまったので、どのような目的で、幾ついるのかも忘れて仕舞っている。そして色々とみているうちに分かった。

細い固定したHDMIケーブルの先にモーバイルのラズベリーなどを接続する目的で発注したのだと分かった。事の始まりは、BENQのモニターには二つのHDMI端子が用意されている機種が少なく、HDMI端子と従来のDVI-D端子の双方を有効利用するためには各々のモニターのデジタル出力をHDMI端子にするアダプターが必要になることで、そこからラズベリーを繋ぐなりPCを繋ぐなりしないといけない、つまりもう一つのHDMI出力にはPC若しくはその代わりにグーグルキャストが接続されからだ。要するに固定されたケーブルにはこのアダプターを使うしかないことがある。三つ発注したのは価格がほとんど変わらないので三つで1.61ユーロつまり一つ54セントだから発注したのだ。54セントならば人に上げても喜ばれるので損はないと思った。

シナでは、今回のトラムプのGAT違反に関して、巷で囁かれているようだ。つまり、現在の対中経済戦争は、嘗ての対日の合衆国の政策と同じで、シナの経済的な脅威に対する合衆国の政策であることには変わらないという事らしい。シナの潜在的な市場規模などは日本などとは比較にならないが、それでも今でも日本がある種の産業部門では先端を走っていることが報道されているらしい。要するに、合衆国は超一流の座から徐々に落ちてきているという事だろうか。



参照:
勝負にならないもの 2018-03-10 | ワイン
Accept 華為 or 羽佳!?  2018-02-23 | 雑感
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全力を以ってあたる

2018-04-07 | 文化一般
投薬の効果があって、通常通りの起床となった。腰の痛みもとれた。通じもあり、朝食も僅か乍らの食欲が出てきた。前日は、抹茶と蜂蜜を入れて吉野本葛で葛湯を作ったが餅と湯の中間のようになった。水で薄めればよかったのだが、その固さ加減よりも味覚が無いので少々持て余した。夕刻にはヌードルスープを十分に食した。熱が下がっているうちに栄養を補給したかったからだ。胃腸を痛める危惧はあったが大丈夫だった。

仕事をしていると病気のことなどは直ぐに忘れて仕舞ったが、走りに行っていないことや洟を盛んに噛んで、戸外は晴天なのに寒気を感じているうちに薬が切れたらと思いだした。忘れる所だった。抗生物質を自身の書いた処方箋通りに飲んで、更に鎮静剤も半量に減らして服用する。再び発熱するのが怖い。

夜中は熟睡もしたが、喉の痛みがその分睡眠を阻害する要因になった。相変わらずベットに入ると寒気が酷く、まるでベットの周りが氷結しているような感じはこの二週間ほど変わらない。今まで一度も感じたことが無いので、屋根裏部屋の不思議である。陽射しが変わることも、暖房のあり方も変わっていない筈だが、今年は比較的早くから暖房を切るようにした影響はあるかもしれない。

寝込み始めるころに平山美智子の訃報が出ていた。初めはその文字から誰のことか分からなかった。音でしか聞いたことが無かったからだ。シェルシの曲を演奏するのにコンタクトを取っていた者から、その名を聞いていた。どこかにCDがあるかと探したが見つからない。作曲家ジャツィント・シェルシは、1988年に亡くなっている。

更に若い世代で生誕100周年の作曲家で、先月20日にそれが祝われたのが、20世紀ドイツの作曲家で一際人気の高いべルント・アロイス・ツィムマーマンである。18歳の時に父親を亡くした娘さんベティーナが中心になって書かれた書籍が出版された。未発表の書き物や写真など豊富な資料と個人の身辺者への詳しい取材に基づいた1970年に自死した作曲家が、研究家ライナー・ペータ―スのコメントを加えて描き出されているらしい。

改めて新聞評にも大書きされているのが、WDRの仕事とそのコラージュ創作への流れ、ダルムシュタットでのブーレーズやシュトックハウゼン、ノーノらとの距離感、そして晩年の苦悩として、ギュンター・ヴァントや先任者ヴォルフガンク・サヴァッリッシュらケルンの座長の反発、特に前者によってミヒャエル・ギーレンによるギュルツェニッヒ楽団での上演まで妨害されて、生を使い果たすことなどである。この本を読むと、もはやヴァントなどは許せない芸術を解さぬ破廉恥な楽師長でしかないとなるに違いない。あのブーブーと吹かすブルックナーを思い浮かべるとそのものこの書籍の表題で、作曲家が得意とした楽想記号ConTuttaForzaつまり全力を以ってを思い浮かべてしまうのが、何とも皮肉である。研究者や演奏家、愛好家には欠かせない書籍のようだ。一冊注文してみたい。

因みに私はあの楽長親仁のLPこそ保持しているが拍手も送ったことが無いだけでも幸いである。そのツィマーマンの生誕百年祭は、ドルトムントでもメッツマッハ―指揮のSWR放送交響楽団の演奏で催される。秋からバーデン・バーデン祝祭劇場に移るスタムパ支配人の最後の仕事のようである。一昨年亡くなったピエール・ブーレーズの百周年も数年後である。それまでにブーレーズハウスも整って、生誕90年以上に大掛かりな祭典がバーデンバーデンで期待される。



参照:
Eine singuläre Erscheinung der Neuen Musik, JOSEF OEHRLEIN, FAZ vom 20.3.2018
Eine Jahrhundertbiografie, SWR
ストリーミングの昨日今日明日 2017-08-20 | 文化一般
「ある若き詩人のためのレクイエム」 2005-01-30 | 文化一般
現実認識のための破壊力 2013-11-25 | 音
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夕刻が恐ろしい

2018-04-06 | 生活
なんとか約束は熟せたが、後が怖い。昨晩初めて服用した解熱剤効果は直ぐに表れた。30分ぐらいか。だから比較的落ち着いて明け方まで眠れた。それでも微熱は引かず感覚から見て38度を少し下がったぐらいだと思う。それでも前日からすると2度ほど楽で、漸くパジャマを脱いで服に着かえれた。重病人がシャツのボタンが絞めれなかったとか、その弱り方の判断基準になっているようだが、シャツもボタンもカウスを締めてあるので被るだけで、一から着るとなると大分の時間を要したかもしれない。そのような調子であるから、抗生物質の服用を始めた。解熱剤は二錠服用したが、抗生物質は最後まで止めれないので一錠にした。

一日ぶりにトイレに行ってシャワーも浴びて動いたので夕刻が恐ろしい。酷くなって来たら直ぐに鎮静剤と抗生物質を投与する心算だ。まだまだ運転出来るような状況には遠い。先ずは熱が引いてくれないと話しにならない。

前日口にしたものは、のど飴以外には蜂蜜入りのヨーグルト、固めのスペイン産イチゴの残り、インド産の葡萄だけで、水気も嗽の塩水以外には冷水、ホットハニーレモン果汁入りが全てだった。兎に角食欲どころではない。なによりも腰が痛くなって嘆かわしい。重病人の床擦れとかいうのもあるが、一日中寝ているのも大変である。

熱が少し下がったおかげで比較的真っ直ぐ歩けるようになった。下手に体力に自信があるものだから対処が遅れ気味になっているので、先手に回らなければいけない思う。そうこうしているうちに寒気を感じるようになったので、予定より早く薬を投与しよう。

寝込んでいる時に、ヤホ女史からまたハートが飛んで来ていた。先年の「三部作」初日の録音のヴィーンからの放送の案内をしたものだ ― 態々並居る歌手の中からエルモネーラ・ヤホ共演を強調した案内だった。もう少し早く反応があるかなと思っていたが、再放送となると多くの音楽家がそうであるように自身の古い写真を見たくないような気持で敢えて無視をしたのかと思っていた。それはそれでとても理解出来るのだが、どうもネットに入る機会は多くとも初日とか放送のある時とそれ以外の時では索引の仕方を変えているのだと理解した。それにしてもこのような関係が続くとなると、来年の「蝶々夫人」に出掛けなければいけないような気持になってくる。それともキャンセルの高額券を買うか。



参照:
手先が震えて駄目 2018-04-05 | 生活
蝶々さんのMorningCall 2018-02-26 | 女
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手先が震えて駄目

2018-04-05 | 生活
完全に高熱にやられた。体温は計っていないが、39度はあったと思う。少し楽になっても37.5度ぐらいか。それも夕食後に我慢出来ずにベットに入って12時間ほどはかなり苦しかった。朝は心臓の下が痛んで、とことんヴィールスにやられた感がある。水曜日の予定をキャンセルして、ベットで眠りを貪った。あれだけ苦しいと熟睡は出来ておらず、水気を適当に摂っている割にはあまり排泄もしない。このまま快方に向かわず昨夜並みの状況が予想されたならば適当な解熱剤などを服用する心算である。

今回の症状は寝る前に寒かったのが数日続きながらも森で走ることも可能だったのであまり自覚症状が無かった。自身の体力を過信するような感じになってしまったかもしれない。ここ数年は無かったことであるから判断が付きかねた。発熱以上に足元がふらつくなどなぜか神経系に来ている感じで、少し質が違う。

火曜日にシナから直送の蓄電池が届いた。予定より大分早く入っていたので驚いた。差出人を見るとシナではなくてベルギーになっている。これは更に驚きだ。やはり後ろにはシナコネクションがあるようだ。兎に角無事届いた。その梱包とかもプロフェッショナルで小袋にしっかり入っている。

オリジナルと比較すると小振りで、特に電子回路部分が小さくなっている。過放電やら過充電に十分に対応できているのかどうかは分からないが、少なくとも大きさだけは合格である。高熱があると時間が取れても手先が震えて何もできない。



参照:
知らなかったなどとは 2018-03-23 | 雑感
こてを使う腕を振るう 2018-03-17 | テクニック
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待望される復活明け

2018-04-04 | 文化一般
休み明けの復活とはならなかった。復活祭月曜は昼寝もして休養も貪ったのだが、まだ駄目だ。ベットは寒くはなくなったので、熱は下がったのかもしれない。もう少し安静にするようにしよう。

SWR2のラディオ放送はよかった。3月25日のコンサートは、SWR2の録音でARTEが放映して、デジタルコンサートでのアーカイヴされるので可成り手間を掛けていた。空間マイクロフォンも3ペアーをミックスしていたが、その価値の十分に出ている収録となっている。繰り返すようだが、バーデンバーデン祝祭劇場は、その主旨から新設のコンサートホールのような分離性は求められなかったのだろうが、以前に比べると明晰さが増したと思う。一年前の二つのコンサートと比較しても若しくはシカゴ、ヴィーン、ゲヴァントハウス楽団の演奏会と比較しても今年の演奏は明晰さが増した。会場の材質などの経年変化は一年では変わらないが、なぜかこの20年近くで上手く枯れてきた感じがする。舞台や反響板や椅子などは経年変化するのかもしれない。昨年の二回のコンサートは立錐の余地のない入りだったので、その分今年の方がよく鳴ったのかもしれない。

いずれにしても、前任後任の両者による音響に関しての肯定的な発言などの影響もあるかもしれないが、この祝祭劇場の音響に関しての関心は高まって、今回の収録も手が込んだものになっていたかもしれない。例えばラヴェルの「シェーラザード」の声と管弦楽の混ざり合いを聞くと、生においても秀逸だったが、フィルハーモニーからの録音では聞いたことが無い質のもので、これは個人的にはベルリオーズの「ファウストの業罰」以来の音響体験だった。恐らくフィルハーモニーでは声も楽器も分離勝ちになって、逆にここほど粒立ちよく響かないのかもしれない。恐らく来年の中継はシェーンベルクの協奏曲の日になるだろう。

その祝祭劇場を活かしての2020年以降の計画をベルリンの支配人ツェッチマンが練っている。大物のオペラ演目と管弦楽演奏会は決まっているのだろうが、その他の室内楽などは未定のようだ。だからインタヴューに答えて、他の会場や企画などの可能性を練っていて、ペトレンコ就任の最初の2020年から新機軸で行くかどうかを考慮しているようだ。ペトレンコが祝祭劇場以外で振ることは一寸考えられないが、本体のプログラムとの組み合わせの可能性を指すのだろうか。現行は、もう一つの小さなオペラを市劇場で上演して、カラヤンアカデミーの関連でのコンサート以外は教会やカジノでの室内楽が主だった。ホールは、ベネツェットやハンスロスバウトなど管弦楽団会場もあり、室内楽や野外には事欠かない。更にブーレーズハウスが整えば新たな可能性が生じる。やはり新任のステムパ支配人を待たなければいけない。そもそもザルツブルクを後にしたのも、自主運営の手間とその陰で音楽祭幹部の不正などがあったから、バーデンバーデンへの移動は成功したとサイモン・ラトルが語った通りで、芸術的にも成功させるにはバーデンバーデン側の対応が欠かせない。

ザルツブルクとの比較が改めて吟味されることになり、バーデンバーデンの優位性は事欠かないのだが、まだまだ十分に活かされておらず、音楽大学にしても声楽に関してはカールツルーヘも近辺にあり、もう少し聴衆の若返りも可能かとも思われる。ラトルの言う様に「聴衆の多彩さ」は繰り返す必要もないのだが、常連さんが抜けたところでの上演の雰囲気がどうも違うらしい。ペトレンコ指揮になれば私の様に全部通う人も増えるとは思うが、やはりどうしても最初はミュンヘンから押し寄せるぐらいでないとオペラ通聴衆の核が形成されない。現代音楽の聴衆が少なくないことも忘れてはいけない。



参照:
神聖劇の理想的な舞台 2018-03-03 | 音
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
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MP4映像よりWAV録音

2018-04-03 | 文化一般
ベットの中で目がぐりぐりした。熱が出たようだ。昼間は普通どころか運動も可能なのに、夜間になると道理でベットが寒かった。暖房を完全に落としているので、足元が涼しくてもあまり分からない。熱が出たのは何年ぶりだろう。

フランスのクルテュアボックスの動画を観た。ウンターデンリンデンでの3月18日の公演のものをベルエアーが編集したものだ。フランス国内限定である。この版は最初の内にはアップされていなくて、休憩付きの生中継の6時間ほどの動画が提供されていただけだ。そこから4時間19分に編集されたものに差し替えられている。こうなると欲が出て、一幕のみをならず全曲を観たい。テルカコフの演出が話題になっていたので最後まで観たかった。演奏の方はラディオ中継の2月11日の初日のものがあったが、そもそもダニエル・バレンボイムの「トリスタン」に変わりは無く、歌手がどのように歌っているか、シュターツカペレがどの程度の演奏をするかにしか興味が無かった。そこでこの動画があると、演出も確認可能となる。

キリル・ペトレンコ指揮「トリスタン」の関してはその予定が発表されていないが、比較対照になる上演の一つがこのベルリンの物には違いないだろう。なるほどバレンボイムの譜読みは可成り粗く ― と言うよりは音化に限界があるということだろう、音楽作りもふにゃふにゃで物足りなさも否めないのだが、その「トリスタン」の指揮に関しては経験も定評もある。

そろそろ4月12日のラディオ生中継のあるペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーの演奏するプログラムをお勉強しなければいけない。今回の二回の中継とルツェルンでの五回目の本番で聞けるので少なくとも三回同一プログラムが聞ける。驚いたことにデュカの「ラぺリ」の楽譜が落とせた。更にプロコフィエフも問題なかったが、フランツ・シュミットの交響曲4番はピアノ譜しかなかった。

先週25日のガランチャが歌うバーデンバーデンでのコンサートが再びARTEで放送されて、ネットに上がっている。早速落とすと ― 75Min,1.35GB,1280x720,AAC155kb ―、驚いたことに「ドンファン」がオープニングで使われているだけでプログラムからカットされて、全く異なるカメラカットで編集された映像となっている。ラディオ録音中継が楽しみだ。映像があっても態々ラディオ放送を楽しみにしているというのは、ネットが使えないお年寄りとかに限られて、この映像を観た人の中に私以外にいるだろうか?生中継を観た人の中にはいるかもしれないが。
Elina Garanca - Asie

Elina Garanca - Sieben frühe Lieder

Elīna Garanča über die Berliner Philharmoniker und über Berg & Ravel


座付き管弦楽団のニューヨークデビュー公演の裏方さんの話しが載っていたので、それをリツイートで紹介した。その裏方さんは、インスツィペントと呼ばれる業務で、所謂劇場の舞台進行係りつまり幕引きさんだ。そのインタヴューを読んでいて、そのナディーン・ゴェッペルトはNHKホールの袖でも仕事をしたようだが、あの「ヴァルキューレ一幕」での歌手の出入りはてっきりドラマテューグか誰かが書いたものをその指示で動くものと思っていたのが誤りと分かった。勿論オペラ劇場の演出が関わるものはそうした配慮があるのだろうが、こうしたコンサート形式のオペラの場合は現場の判断で決定するらしい。だからミュンヘンで準備をする一方、現地のカーネギーホールで音出しの時間の合間に指揮者ペトレンコと考慮して決定したという。まあ、誰も演出はしていないのだから当然と言えば当然なのだが、会場と舞台などが映ったモニターを前にして、ピアノ譜を前にタイミングを計るらしい。つまり、歌手が舞台袖に来るためのキューも出すらしい。また舞台の反対側には助手が付くようだ。それどころかミュンヘンでは始まりのベルまでこの人が押すというからその裁定権が凄い。と言うことは、NHKホールでの歌手の出入りの足音の響きなども演出というよりも現場の判断でそのような結果になったということらしい。オペラの場合のカーテンコールの送り出しなどの判断はまた別の人がやるのかどうかは分からないが、そうした現場の人材とか人力とかをミュンヘンの劇場に通うようになって初めて知った。私立のバーデンバーデンの祝祭劇場ではそこまでの人材を揃えるのはとても困難だ。



参照:
思し召しのストリーミング 2017-10-16 | 音
バーデンバーデンの調印 2018-03-29 | 文化一般
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似た様な感覚の人々

2018-04-02 | 
聖土曜日は、聖金曜日と復活祭の間の狭間となって、買い物客も少なくない。それでもスキーを車に積み込んで来週の休暇に出かける者や火曜日から休み明けの者やら様々だ。しかしどちらかと言うと天気が良かったので森の中を散歩したりする者も少なくなかった。

私は復活祭中の食事もあるので肉屋にも出向いたが、その足で赤ワインも物色した。2015年産が気になったからである。先日もブルゴーニュを購入したが印象としては20ユーロ以下のピノノワールではもしかするとドイツのシュペートブルグンダーの方が品質価格共に優位な年度ではないかと思ったからである。2015年産シュペートブルグンダーが十年に一度ぐらいのシュペートブルグンダーの当たり年であることは分かっているのだが、そこはブルゴーニュとの比較でしか客観的な判断は下せない。

それをフォルストに取りに行った。2015年産の有る無しを問うと正式発売はしていないが瓶詰めは済んでいるということだった。譲って貰うことになったが、生憎旦那も風邪で寝込んでいるのでてんてこ舞で探してきた。その一本はエティケット不良だった。それ以外は梯子段で取れないということで、こちらは試飲には全く関係ない。こちらからしたらまだ2014年産が出ているところで譲って貰うだけで満足だ。なんとアルコールが14%にもなっているので、あの暑い夏とは言ってもその辺りは醸造所によってその差が出て来るところではないかと思う。ボーヌ辺りでもこのアルコール度になると繊細からは遠いだろうと思う。まあ、試してみよう。

お陰でうっすら汗を掻いた薄着でいたものだから風邪を引き込んでしまった。一年ぶりぐらいだろうか。二三日前から就寝時に寒気があったのでおかしく、喉の具合も悪かったので祝祭劇場でうつったのかもしれない。就寝前に塩水で嗽したので少しは良くなった。今回のインフルエンザの特徴のようだ。

「三部作」の録音放送は、予想以上に音質もよかった。日本からの放送と同じマスターに違いないが、音域はあまり広くない感じであるが、なによりも生放送の時の音量レヴェルが修正されていて、落ち着いて三部作全部を聴き通せる。臨場感が少ない分安心して聴ける。三部分を別けて放送したので資料として使うにはとても助かる。

座付き管弦楽団ニューヨークデビューについてボストンのジャーナルが書いた批評を見て、更にその記事にコメントしているのを見て驚いた。そのアレックスと称する人は「ペトレンコ指揮の特徴を正しい言葉で書いていて驚いているが、彼は音楽的な天才である。」とそこまでは良いが、「まるで同じレヴェルかの様に三人の指揮者に加えるのは全く公平では無い、」と書き続け、ここまで読むと私自身が書いた覚えはないがと不思議な気持ちになって、「これはペトレンコの信じられない才能と音楽性を過小評価していると感じるからだ。」と綴る。そして「実際に会場に訪れていたナゼサガンがこの良い経験を生かして呉れればと願っている。」とまで書いてあるので吹き出してしまった ― まあ、ナゼサガンのリズム取りは、ラトルと同じで簡単に修正可能なものではないだろうが。同じような人間がどこにでもいるなと思うのと、この人はミュンヘンからニューヨークまで追いかけて行ったのだろうか、どの人かなとも思った。



参照:
蛇足を画策したのは誰 2018-02-21 | マスメディア批評
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
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