三国放送局3Satがバーデンバーデンの「パルシファル」を報じている。ゲネラルプローベの映像にインタヴューを挟んでいる。ディーター・ドルンの話しも興味深い。あの演出の肝心なところを語っていて、あの単純明白で作品に忠実なそして音楽に語らしている音楽劇場は現インテンダントが最後に妥協した到達点かも知れない。つまり現インテンダントは、音楽劇場には組しない、とても保守的な趣味の人物で、それが商業的に成功したとは思うのだが、キリル・ペトレンコ体制では否応なくスーパーオパーとなって、そもそもオペラとは離れたところに行くために、ある意味辞めて貰わなければいけない人だったのだ。今後とも新インテンダント体制で財政面で助言をするというから、彼の市場の見通しが大きな判断点になると思う。そのためにもペトレンコの指揮のあるところには全く異なる市場があるということを確かなものにしていかなければいけない。それがランラン以上のものになるかどうかは分からないが、少なくともバイロイトの市場を切り崩すことにはなると思う。
そこでラトル卿お話しが興味深い。先日のバイロイトとの関係についての質問をより時間を掛けて答えていて、更にそこから様々なことが想起される。「バイロイトとは距離を保つ」ということで、あそこには楽匠に纏わる魔物が住んでいるからということらしい。何度そこで仕事をしようと思って出かけても酷いことが起きるのだという。「笑われるかもしれないが、どうもそこには永遠に癒されない傷があると感じる」と語っている。勿論「パルシファル」とも掛けてあるのだが、このように表現するラトルのコミュニケーション力には改めて感服した。父親が英語の先生だったと言ってもこれは天性のものだろう。超一流コンサート指揮者にしておくのは惜しいぐらいだ。この話しを聞くと、バイロイトの伏魔殿の祝祭劇場の怪人とはと考えてしまう。
今晩はヴィーンから昨年制作のプッチーニ「三部作」の初日の録音中継がある。同時にザルツブルクの「トスカ」の録画も流されるらしいが、その宣伝の仕方を見ると誰も観る人がい居ないのかもしれない。昨年の「ヴァルキューレ」は話題になったので私自身もダウンロードしたが、今年はその価値は無いだろう。ヴィーンからのストリーミングは音質があまり冴えないので一月の日本からのそれほどではないかもしれないが、どうも録音が上手く行っていないところなどをもう一度試してみよう。
ミュンヘンの座付き管弦楽団デビュー公演のニューヨークでの評判はすこぶる良い。ニューヨークタイムズの批評記事は流石に上手に書いている。言うなれば、私の比較対照と同じようにその背後にはクライバー指揮の「ばらの騎士」やそれともメトのレヴァイン指揮などがあるのかもしれないが、明らかに客観的な価値評価をしていて、日本の私小説風のルポルタージュやドイツのローカルのそれなどとはやはり違っている。我々その出来を大凡知っている者にはどれぐらい上手く行ったのか行かなかったのかも含めて、音を聞かないでも会場の状況が良く分かる音楽ジャ-ナリズムとなっている。冒頭の楽譜の指示を守り楽譜を忠実に音化することでの効果についても触れていて、歌手の上出来以上に楽員と指揮者の信頼関係を感じたとまであり、中々専門的な書き手だと分かった。「この公演の勝因は、ペトレンコが優しくもクールさを持った控え目に磨かれた美しいパッセージで、一方において複雑なコメディーを描き切ったことだ」としている。私は昨年その演奏実践を評して「苦み」と表現したが、これを「グラフィックパッション」としていて、しかしながら眩暈感覚やユーモアそして肝心な繊細に欠かないと評している。
そして水曜日の公演についても触れているが、私もチャイコフスキーのマンフレッド交響曲をBGMにしている。明らかにブレゲンツ音楽祭にヴィーナーシムフォニカーと客演した時の演奏とは遥かに精緻で明確な演奏だ。詳しくは楽譜を落として、暇な時にでもじっくり聞いていたいが、クラリネットやら木管群が完全にユダヤ音楽を奏でるのは今まで気が付かなかった。手元にはアロノヴィッチのLPがあるのだが、どのように鳴っているのだろうか。更に驚いたのは、アンコールに「マクベス夫人」の二幕の間奏曲をハイテムポで振っていることだ。恐らくアンコールピースとしてそうしたというよりもこのテムポの方が正しいのだろう。ミュンヘンの上演の時はそこで踊るなどの見せ場を使ったので、舞台に合わせて三割近くテムポを落としていたのだろう。改めてその映像を観ると中々出来た舞台であったことを再確認する。
参照:
連邦共和国民の誇り 2018-03-30 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音
そこでラトル卿お話しが興味深い。先日のバイロイトとの関係についての質問をより時間を掛けて答えていて、更にそこから様々なことが想起される。「バイロイトとは距離を保つ」ということで、あそこには楽匠に纏わる魔物が住んでいるからということらしい。何度そこで仕事をしようと思って出かけても酷いことが起きるのだという。「笑われるかもしれないが、どうもそこには永遠に癒されない傷があると感じる」と語っている。勿論「パルシファル」とも掛けてあるのだが、このように表現するラトルのコミュニケーション力には改めて感服した。父親が英語の先生だったと言ってもこれは天性のものだろう。超一流コンサート指揮者にしておくのは惜しいぐらいだ。この話しを聞くと、バイロイトの伏魔殿の祝祭劇場の怪人とはと考えてしまう。
今晩はヴィーンから昨年制作のプッチーニ「三部作」の初日の録音中継がある。同時にザルツブルクの「トスカ」の録画も流されるらしいが、その宣伝の仕方を見ると誰も観る人がい居ないのかもしれない。昨年の「ヴァルキューレ」は話題になったので私自身もダウンロードしたが、今年はその価値は無いだろう。ヴィーンからのストリーミングは音質があまり冴えないので一月の日本からのそれほどではないかもしれないが、どうも録音が上手く行っていないところなどをもう一度試してみよう。
ミュンヘンの座付き管弦楽団デビュー公演のニューヨークでの評判はすこぶる良い。ニューヨークタイムズの批評記事は流石に上手に書いている。言うなれば、私の比較対照と同じようにその背後にはクライバー指揮の「ばらの騎士」やそれともメトのレヴァイン指揮などがあるのかもしれないが、明らかに客観的な価値評価をしていて、日本の私小説風のルポルタージュやドイツのローカルのそれなどとはやはり違っている。我々その出来を大凡知っている者にはどれぐらい上手く行ったのか行かなかったのかも含めて、音を聞かないでも会場の状況が良く分かる音楽ジャ-ナリズムとなっている。冒頭の楽譜の指示を守り楽譜を忠実に音化することでの効果についても触れていて、歌手の上出来以上に楽員と指揮者の信頼関係を感じたとまであり、中々専門的な書き手だと分かった。「この公演の勝因は、ペトレンコが優しくもクールさを持った控え目に磨かれた美しいパッセージで、一方において複雑なコメディーを描き切ったことだ」としている。私は昨年その演奏実践を評して「苦み」と表現したが、これを「グラフィックパッション」としていて、しかしながら眩暈感覚やユーモアそして肝心な繊細に欠かないと評している。
そして水曜日の公演についても触れているが、私もチャイコフスキーのマンフレッド交響曲をBGMにしている。明らかにブレゲンツ音楽祭にヴィーナーシムフォニカーと客演した時の演奏とは遥かに精緻で明確な演奏だ。詳しくは楽譜を落として、暇な時にでもじっくり聞いていたいが、クラリネットやら木管群が完全にユダヤ音楽を奏でるのは今まで気が付かなかった。手元にはアロノヴィッチのLPがあるのだが、どのように鳴っているのだろうか。更に驚いたのは、アンコールに「マクベス夫人」の二幕の間奏曲をハイテムポで振っていることだ。恐らくアンコールピースとしてそうしたというよりもこのテムポの方が正しいのだろう。ミュンヘンの上演の時はそこで踊るなどの見せ場を使ったので、舞台に合わせて三割近くテムポを落としていたのだろう。改めてその映像を観ると中々出来た舞台であったことを再確認する。
参照:
連邦共和国民の誇り 2018-03-30 | 文化一般
舞台神聖劇の恍惚 2018-03-25 | 音
苦みの余韻の芸術 2017-02-11 | 音