Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

フクシマ禍から蜂の巣へ

2019-09-16 | 文化一般
承前)ルツェルンでの演奏会評が次のように始まっていた。一楽章が終わって、一人の男が「分からないけど、そんなに良くないと思うな」と言う声が平土間に響いたというのだ。つまりそれほど正確に合っていた訳ではない合奏を称して言ったとなる。そうした緊迫感が、蜂の巣をつついたような興奮へと変わったとノイエズルヒャー新聞は報じていた。

正直なところ平土間の雰囲気はなんとも分からない。通常とは異なる聴衆が押しかけていたことは、メインスポンサーがアムコとやらの地元の世界的な人材派遣業者が仕切っていたことから想像に難くない。目の届く範囲でも前半のルル組曲へのあまりにも冷淡な反応は驚くばかりだった。

三楽章の稀なる名演からアタックで四楽章へとスリリングに突き進み。様々な回想がされることで、若しくは三楽章までのベートーヴェンからマーラーへの九番の変容またはブルックナーへの影響を垣間見たところで、件の合唱付きへと進む。

ここ数年ベルリンではミュンヘンの後任監督のユロスキー指揮で嘗てのミヒャエル・ギーレンによるモンタージュ手法のアイデアを踏襲して「ヴァルシャワの生き残り」がそこで挟まれたりと演奏されることで、新たにその意味するところが問われていた。今回は「ルル組曲」そして翌日のヴァイオリン協奏曲へと繋がれる。再度、クラスティング博士のオリエティーリング映像と指揮者キリル・ペトレンコのインタヴューを初めて観る。新たな情報はないのだが、第九の創作過程に関して、二人が手分けして語っていることがよく分かった。プログラム作りに於いてこの二人の間での対話があったことがよく分かる。

改めて、この合唱付きの四楽章が先ず有りきだとそのスケッチからこの指揮者は断定している。それも歌の部分からで器楽によるレチタティーヴは後に書き加えられたとあり、全体の叙述法としてもそこから演繹的に前の三楽章へと創作が進められているとなろう。そしてルツェルンでガイダンスであったシラーのオード自体は酒飲み歌でありながら、出版直後のボン時代に言及があって音化が試みられているとぺトレンコは語る。しかしである、他の3Fとされる「フィデリオ」から「ミサソレムニス」へと長い時間のスパンの中で創作が形となって来た。交響曲ツィクルスの不必要性の根拠でもある。

その背景の社会情勢として、フランス革命の完成以前からナポレオンへの失望、メッテルニッヒ政権その秘密警察組織へと現在の世界情勢と楽聖の失望を重ねる。キリル・ペトレンコは、練習の時に珍しく演説したようで、楽聖の聴覚・視覚障害は肉体的なものだけではなく、外部世界から自閉するような創作の内面世界だったと語ったようである。一楽章から三楽章へと具体的にカタストロフであるフクシマ・チェルノブイリ禍からアウシュヴィッツを経た失楽園へと、全ては終楽章へと準備されている。そしてそれは一神教的なものではないと断定する ― 楽聖の仏教への言及にも関連。

当然のことながら通常は待ち構えられる歌唱部分の違和感が、なんら抵抗なく演奏されるようなテムポ配分がなされている訳で、そのことによってのみでこの演奏実践の成功が記されることになる。ルツェルンでの個人的な印象は、少しおかしな聴衆の反応を除けば、目的としていた終演後のスタンディングオヴェーションの遅れもよく分かった。理由は至極簡単で、指揮者が手を下ろして終わりを宣言するそぶりを中々出さずにいたからだ。確かにブレゲンツでの千人の交響曲においても直ぐに聴衆の方に向き直ることは無いのだが、ベルリン初日でも遅れていたので不思議に思っていたのである。

演奏会としては二日目の前半がクライマックスであったことは皆が認めるところだが、一日目の最後のスタンディングオヴェーションはそれなりの意味がある。欧州においては通常の演奏の是非ではスタンディングにならないという事である。それほど米国のようにプロテスタント的な意識は強くない。主張に賛同を示すという行いは、まさにこの曲の演奏実践とその趣旨に対して行われるものだ。私のようにその真意を少なくとも今冬から探っているような人間は極稀であって、3Fプロジェクトを把握しているのは音楽ジャーナリストでもそれほど多くはない。しかし殆どに人が立ち上がった。これだけで成功ではなかろうか。

そして10月3日のドイツ統一の日にバイエルン放送局で初日の演奏が再放送される。クラスティング博士がガイダンスで演奏前の収録で話していた通りになっている。ノイエズルヒャー新聞が勇気という事でもあり、同時に前述したようなシェーンベルク~アルバン・ベルク~グスタフ・マーラー~チャイコフスキー~ルートヴィッヒ・ファン・ベートーヴェンへと大管弦楽音楽を網羅しているのだが、それに関しては敢えて無視しているかのように触れていない。寧ろ、あまりにもの具体的な第一楽章や三楽章をマーラー風と切って欲しかった ― 後任バイエルン音楽監督ユロスキーのマーラー編曲演奏の異なった表現方法であった。(終わり)



参照:
ペトレンコの「フクシマ禍」 2015-12-21 | 音
ドンドンガタガタ足踏み 2019-03-10 | ワイン
3F - 喜び、自由、平和 2019-04-30 | 文化一般
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熟成させる時間が必要

2019-09-15 | 雑感
時間のあるうちにデジタルコンサートホールの無料券の年内分を使わなければいけない。候補に挙がるのは、年末のジルフェスタ―コンツェルトだが、これはARTEで出る筈なので使う必要もないだろう。その前はズビン・メータ指揮の二回に亘る日本公演の練習演奏会だ。11月2日土曜日と8日金曜日なので、両方ともライヴで観れる筈だ。あと二回分の一つは期限が無い筈なので来年に取って置く。もう一つは年内でないと使えない可能性があるので、予備に使いたい。そうなると11月2日まではお預けとなる。ミュンヘンのコルンコールト「死の街」初日が18日なので、何とか時間はあるだろうか。

夏の予定を全てキャンセルしたヴァイオリンのリサ・バティシュヴィリの故郷からの生中継を観た。健康上の理由となっていたので、恐らく二児の母?としては妊娠と言うことは無いと思ったが、腕の調子など心配していた。秋の日本公演でも弾くチャイコフスキーの演奏した。元々はプロコフィエフが予定されていて、結局は音楽祭でもそれを弾くことはならなかった。チャイコフスキーが二年ほど前から始めた新しいレパートリーであったので事故でもあったかと思ったのだ。

健康そうで問題はなさそうだったが、なんとなく舞台から遠ざかっている印象はあったが、カデンツなど昨年よりも細かなことをしていて、弾き慣れてきたのだろうと感じた。同時に故郷での演奏と言うこともあるのだろうかエモーションも細やかさと同時により強く出ていて、よりコントロールされながらも東欧風の趣があった。ピッチも丁度いい感じで楽器も良く鳴っていた。

少なくとも日本旅行へは準備という事でも完璧ではないだろうか。親しいネゼセガン指揮のフィラデルフィア管弦楽団と大名演をしてくれることは間違いないだろう。それにしても夏場はなにがあったのだろう?

先日来仕入れてきた30本以上のワインを漸く蔵に入れた。薄っすら汗を掻いた。下ろすと同時に棚に寝かせるので、場所を開けるのに苦労する。可成りいい加減な並べ方をしていて、本当ならば新しいものを下の方に入れて行きたいが、出来るだけ安全上重心は下に置きたい。入れ替えも容易でないので、どうしても新しいものが上に並ぶ。

新しく運び込んだもので二年以内に空ける予定のワインは九本が限度だろうか。つまりまた溜まる。一番溜まる要因は2015年産を大切にしまい込んであるからで、飲み頃を一年分我慢したからだ。つまりそれが開けられるようになると頻繁にいいワインを開けられるようになる。

後ろ表に入れてあるので押し込んだ拍子に反対側のグランクリュワインが床に落ちた。40ユーロ以上のヴィルアムスヘーレと称するナーヘの高級リースリングである。それも2014年なので惜しくて開けれないリースリングである。30センチ近く下に落ちた。幸い割れなかったが罅が入っているといつか割れると思うと早く手を付けなければとも思う。十年ほどは寝かしたいワインなので次の機会を考えようと思う。



参照:
Wブッキングの逡巡 2018-12-07 | 生活
再び求道的な感じ 2019-09-08 | 女
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ここに定着する印象

2019-09-14 | 
今頃になってルツェルンのコンサート評などを読み返す。昨年のように生中継も無かったので、番組での批評家のお喋りも無く、自分自身もその前のゲヴァントハウスから盛り沢山だったので若干混乱していて、あまり人の言うことが耳に入らなかったからだ。

しかし二日目8月29日の録音が放送されたことで、少し気持ちが落ち着いた。嫌が応でも印象を定着させなければいけなくなったからだ。序でに3月のベルリンでの放送録音を流す。DCHでの放映もあったので、マイクを通して三回、生で三回もフィルハーモニカーとの五番を聴いた。その内ベルリンでの三回とボンでの座付管弦楽団のホルンは同じデングラーで、今回比べても明らかにドールよりも上手い。確かに弱音をドールも頑張って吹いているが、二楽章を上手にこなしたのは復活祭の一日目だけだ。余りにもアヴェレージが低い。デングラーはミュンヘンの奈落でも安定していて、やはりベルリンに欲しいソリストである。フィラデルフィア管弦楽団のようにシェーンベルクはドール、チャイコフスキーはデングラーが吹くような体制を取るべきではないか。またフィルハーモニーの分析的でクールな音響はそれはそれでとても魅力なのだが、視覚や楽譜などがあればそれを補うことは可能である。そうなると最初の喰い付き程には音楽的魅力が薄い。

そしてなによりも、前半のシェーンベルクに於いての二日間で残した最も強い印象は、その録音にも新聞評にも記録されることになった。ノイエズルヒャー新聞にはミヨーのアンコールでは無くて、もう一度協奏曲を演奏して欲しかったぐらいだとある。現実的ではない希望にしてもその気持ちはこうして録音を聴くことで同じ気持ちになる。

シェーンベルクが終わって拍手が始まるまでのコパチンスカヤの不安そうな顔が印象的だった。前回に復活祭で演奏した時はお互いに見える位置で明らかに気の無い拍手をした私である。だからその気持ちがよく分かった。録音を聴くとやはり色々と変えてきていた。詳しくはじっくりとベルリンでの録音や録画と比較してみたい。次回の再放送までまだ一週間近くある。

20時からライプチッヒのゲヴァントハウスからの生中継がある。映像のストリーミングもあるので、シューマンフェストという事でこれまた愉しみである。さてどの程度の演奏をしてくることか。



参照:
ルツェルンでの視界 2019-09-04 | アウトドーア・環境
コンツェルトマイスター 2019-09-01 | 音



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アルコールも欲しくなる

2019-09-13 | 試飲百景
週末のワイン試飲会の事を纏めていない。これといった大きなことは無くはなかったが、ワインとはあまり関係ない。どうもそれが影響しているらしい。ナーヘでは、何時もの様に試飲会の前に、デンノッフ醸造所で発注していたリースリングを回収した。

春の試飲会で2018年の酸の弱さとか力強さで、余り複雑なGCは発注せずに、その下の二種類のGCを購入した。最後の火山岩質のフェルツェンベルクは2013年以来だ。早く開いている時しか買い難く、それほど複雑さは無くても違う味筋のミネラルなので二年もすれば楽しめるだろう。もう一つのデルヒェンは早めに楽しめるバランスの良いリースリングである。一本41ユーロをどう見るか?片方は36ユーロ。三本づつにもう三本既に六本以上楽しんだトーンシーファーリースリングを日常用に買い足した。

更に谷奥に入って俗物ゲーテの愛したモンツィンゲンのシェーンレーバー醸造所で、グローセスゲヴェックスを試飲。古い年度の試飲が良かった。2018年産が2009年産に似ているという事で、ハレンベルク(ハルガンツ)、フリューリングスプレッツヒェンGC、ハレンベルクGCで、今回はハレンベルクが開いていた。二年前ぐらいは反対だった。シュペートレーゼも甘口乍ら、糖が徐々に落ちてきていて、チーズなどには使えそうだった。結局発注していたのは違っていてと言うのは既に書いた。しかし2016年産のリースリングのゼクトがきりっとしていたので三本所望した。

翌日の南ワイン街道のレープホルツ醸造所では、結局買い足しの三本の御用達リースリングのオェコノミラートとその上のクラスのフォンブントザントシュタイン、そして発注していた最上級のガンツホルン三本でかたを付けた。例年通りだが若干クラスを下の方へと比重を下げた。同じ超辛口でも2018年産はそれ程魅力が無かったからだ。

さて、一本は味見で開けた。次はどれを開けるか?自宅で開けていないで既に飲み頃の様な開けれるものはない。オェコノミラートでお茶を濁しておこうか?なぜならばトンシーファーの方はまだこれから年内は瓶熟成しそうだからだ。何か疲れて、軽く飲んで、リースリングでパリ風の棒々鶏でも食したくなった。ジャガイモが無いから米で誤魔化すか。レモンとニンニクを強めに効かせると合うだろうか。

最近はワインの消費は落としている。健康と経済的な一石二鳥を狙っているのだが、購入する数は減らず、高価な方へと寝かすワインへとスライドしているので、金額は明らかに増えている。その分在庫は増えていて、ついつい平素から高級リースリングへと手が出そうになる。価格も一軒当たり数百ユーロ支払うことになり、合わせると年間千ユーロを軽く超えるようになった。

稀に高額席を購入して音楽会や劇場に行くような額を一件に一回で支払い、それなりに交通費も掛かっている。やはりかなりの贅沢であることがこれでも分かる。

それでも昨晩の放送の様な演奏会中継録音を流すと芯から堪えるのでアルコールも欲しくなる。緊張が勝つシェーンベルクなどは出来るだけ流すようにしているが、それでも楽譜を見たりすると、誰かさんではないが発狂しそうになる。あまりにも見事な処理に声を何度も上げる。心臓麻痺になる婆さんに同情する。やはりシェーンベルクの音楽は図抜けて強烈である。あれほど美しい音楽なのでそれゆえに訴えが増強される。チュイコフスキーの方が意外に楽譜が必要になった。視覚的な情報がかなり強かったと思われる。放送ではそれ程の粒立ちが無い。来週のスイスからの放送を比較してみたい。



参照:
2018年産最初の試飲会 2019-05-05 | 試飲百景
眠れなくなる射幸心 2019-06-06 | 試飲百景
分かるようになる話 2019-06-02 | 試飲百景

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クラウドに上げるデータ

2019-09-12 | ワイン
クラウドにデータを上げた。公共性のあるものをデポしておこうと思った。公開する訳ではないが、個人情報的なものでない限りとてもいい使い方だと気が付いた。独テレコムの無料で付いて来るものは25GBしかないので限られる。二回線合わせても50GBにしかならない。それでも再入手が難しく、貴重な録音録画を上げておこう。音楽データとしては40時間、映像とすれば10時間にも満たないが、既にペトレンコ指揮の幾つかの演奏記録は歴史的になっていると認識した。

先ず外せないのはルツェルンでの演奏記録からで、次に貴重なブレゲンツでの「千人の交響曲」だろうか。コンサートでは、DWが収録しているであろうボンでの公演、ベルリンでのオープニング二回ぐらいが貴重だろうか。オペラは、初日の録音はなかなか見つからないが、録画の方は「マクベス夫人」と「ヴァルキューレ」を除くと音質は別にしてある程度のものはネットでも見つかる。

月曜日のコンサートの批評が老舗新聞ノイエズルヒャー新聞に出ている。アブラームセンに関しては歌手のハニンガンの歌唱の秀逸について、メシアンに関しては流れるような指揮について、なんともみすぼらしい批評である。色々と感想があるのだろうが公に書くほどの準備をしていなかったという事だろう。独語圏の一二を争う高級新聞の文化欄がこの程度だから知れている。だからあの指揮と管弦楽で通ってしまうのだ。想定通りだ。

結局火曜日の早朝に就寝して、火曜日一日は疲れて、眠かった。水曜日になって初めて森を走れた。洗濯屋にシャツを二枚出した。来年まで着ないシャツである。夜も寒くなって来たので、寝間着もそろそろ長袖が必要になる。

新聞の文化欄に短報があった。フランクフルトのアルテオパーの支配人が来年秋シーズンから変わるようだ。今までいたステファン・パウリ―はヴィーンの楽友協会の支配人になり後任マルクス・ファインはフランクフルト出身で、以前ベルリナーフィルハーモニカーの芸術アドヴァイザーだったというから、これでまたフィルハーモニカーとの関係が出来た。ペトレンコを隔年でぐらいは呼べるのではなかろうか。地理的に、ギリギリバーデン・バーデンの地域独占権を逃れられると思う。移動時間一時間半ぐらいだから一部しか訪問客は重ならない。丁度ここワイン街道が中間ぐらいだからである。どちらもそれほど近くはないが、遠くはない、個人的にはとても都合がよい。

金曜日に取ってきたリースリングを何日かに分けて愉しんだ。新しいセグメントで独高級ワイン協会のクラス別けではPCにあたる。GCのヘレンベルクの上部の斜面である。だから酸もある。現在はまだ格付け申請中なので、ニーダーベルクを名乗れずにNBと記載されている。初年度の貴重な製品である。どうも春に試飲して気に入ったようで半ダースも予約してあって、驚いた。試飲しておらず購入してから再び試飲した。まだまだ若いが、青スレートの構築性と果実風味がハルガンツなどよりも上品で価格だけの価値がある。



参照:
次元が異なる名演奏 2019-08-18 | マスメディア批評
宇宙の力の葛藤 2019-05-20 | 音
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管弦楽練習の立ち合い

2019-09-11 | 
前夜は22時過ぎにはベットに入った。疲れていたからだが、朝五時ごろに目が覚めた。二十数時間後に帰宅しないのに不利だっと思った。明け方初めて指揮者キリル・ペトレンコの夢を見た。どこかで出会うのだが、声を掛けて自己紹介しようとすると、知っているよと言うようなことだった。なにも不思議な夢ではなかったが、覚醒してから一体ルツェルンなどには来ないのは分かっているのだが、なぜだろうと思った。

予定通り14時前に無人の国境を超えた。そこから高速に乗って、ベルン方面へと向かう。手っ取り早く現金を出して、音楽勉強とピクニックをしなければいけない。湖の近くの休憩所で車を停めようと思ったら秋まで閉鎖されていた。仕方が無いので湖の街に下りて、過ぎ近くの木陰を求めた。高台に出ると村のスポーツ施設の駐車場に木陰が出来ていた。山にもすぐに入れるところだ。

村は高台にあって湖へと絶景が開いていた。後で調べると前回ピクニックした場所の対岸に当たる。南向きなので夏は暑いかもしれないが、秋は気持ちが良いだろう。ピクニックをして早速音出ししながら楽譜を一通り捲る。眼を通すのは二回目なので、巻頭の文章を読まないでも曲の核心や構成は分かるようになる。同じプログラムのベルリン公演でのプログラムのPDFも持ってきたので、それにも目を通す。

こうした時に助かるのがノイズキャンセリングのイヤフォーンで道路脇の駐車場でも集中して音楽を聴ける。嘗ては本当に森の中でしか不可能だった作業が、状況によっては高速道路の脇でも可能となった。こうしたことの銘々の積み重ねが、人々の営みの積み重ねが二十世紀の古典の演奏の水準を上げて行くことになる。つまりレパートリーとして核となって行くことになる。その中でどのような作品が残っていくかは分からないが、少なくとも楽譜によってその創作意図が明確で、各々の演奏媒体に課題を与えるような作品は、定着していくように思われる。

水曜日は先ずバイエルンの放送局で8月29日の演奏会中継が放送される。恐らく最も難曲であるシェーンベルク作曲ヴァイオリン協奏曲作品36の歴史的な演奏が流される。初演者を除くと録音だけでも幾つかの試みが残っているが、そのどれもを凌駕して、復活祭で同じ演奏を聴いた時にもミヒャエル・ギーレン指揮のミヒャエル・バレンボイム独奏の名演を超えることは無かった。しかし漸くある水準の演奏が成し遂げられた。

ある水準とは月曜日に管弦楽練習の立ち合いを終えた作曲家のハンス・アブラームセンの言葉を借りればその定義が出来よう。つまり細かなところを修正して、創作の意図を伝えることが出来るかどうかに尽きるのである。作曲のシェーンベルクは半世紀前に亡くなっていて、その示唆を直接受けることはできないが、数多くの研究と文献もあり、その意図を正しく音化することは全く不可能ではないのである。



参照:
ラトルファンの嘆き 2019-09-10 | 音
彼方の閃光を目指して 2019-09-09 | 生活
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ラトルファンの嘆き

2019-09-10 | 
夜中一時過ぎに帰宅した。最後のスタンドに入ったが寝ることなく、直ぐに帰宅を急いだ。車庫出しが二十二時の二分程前だったので、所要時間三時間十分ほどだろうか。往路は小さな国境通過路で、十四時前で偶々誰も居なかった。帰路はバーゼルを通過したが三四人組がコントロールしていたが、一礼で済んだ。先月のスイス人によるフランクフルト中央駅での事件以来コントロールするようになっている。

さて音楽的な成果はどうだろうか。サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団は初めてだった。少なくとも演奏に関しては、40年以上ファンとして通い続けたこの指揮者のコンサートやオペラの中でワーストの出来だった。ベルリナーフィルハーモニカーとのベートヴェンの第七交響曲と双璧だった。何よりもメシアンの解釈には期待していたが、とてもではないがカムブレランの様には楽譜も読み込んでおらず、リズムの処理もお粗末だった。本人としては管弦楽団の力量として言い訳を用意しているのだろうが、少なくとも辞任に際してフィルハーモニカーよりもラトルを支持していた私のようなものには通らない。

サー・ラトルは明らかに都落ちをした。ロンドンの交響楽団の技術程度はドイツの放送交響楽団程度である。マイクを通しては気が付かなかったが弦楽陣は下手である。コンサートマスターから後ろまで各々皆水準に達していない。管楽器陣は大編成の為にエキストラが沢山入っていたとしても、例えばオーボエのコッホ嬢でも、音合わせは安定していたのであれと思わせたのだが、マイヤーの後釜に座るほどの力はなかった。フルートの首席も一人祝福されたが、到底パユと比較する訳にはいかない。金管はコントロールも効かないのでブラスバンドの様で、たとえベルリナーフィルハーモニカーが何だかんだと言っても、それはとても音楽的に制御されている。

ロンドン交響楽団の芸術的な価値は、アメリカのビッグファイヴの中からの指折りの楽団とフィルハーモニカーの三分の一ぐらいだ。実際に今回の演奏会はジーメンス財団の特別演奏会ツアーだが三分の一以下で個人的には30フランしか払っていない。彼らのコンサートに超一流と同等の入場料を払うのは全てラトルの知名度に払うと考えてよいだろう。

アブラームセンの「(オルフェ―リアの)レットミ―テルユー」の再演でのバーバラ・ハニンガムの歌の技巧に対応できない管弦楽とは一体どういう事だろうか。なるほどコンサート前のリハーサルに手間取って作曲家がガイダンスに現れるのが遅れた。サウンドチェックの心算が音楽的に重要な技術的な修正へと追い込まれたのはよく分かる。会場の音響を使い切れるだけの楽団では無いからだ。

本当のラトルファンが、ロンドンでの活躍で期待するのはベルリンでは出来なかったコンサートでありそこでの音楽表現である。しかし今回のを聴くと、メシアンなどは振るかどうかは別にして、ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーで演奏されると全てが塗り替えられてしまう。まるでラトル指揮の演奏はペトレンコ指揮によって塗り替えられるために存在するかのような趣になって来た。



参照:
彼方の閃光を目指して 2019-09-09 | 生活
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般
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彼方の閃光を目指して

2019-09-09 | 生活
月曜日の準備をしている。楽譜は準備していたが、手元にあるCD「彼方の閃光」を流した。以前からどうなのだろうかと思っていたが楽譜を見ると、駄目なことがハッキリした。チョン指揮のパリの座付楽団であるが、演奏技術以前に指揮も冴えなく、読みも明らかにおかしい。特にテムポの選定は理解できないものがあった。それによって全体の印象が一晩のコンサートで最後に向かって盛り上がるような設定と言うような場違いを感じた。

何曲初演をしていて作曲家と協調をどの程度しているのかは知らないが、とてもではないが肉声が伝わらない。大らかにやれば何か伝わるというものでもないと思う。ネットでカンブレラン指揮のSWFの録音があったので道中はそれに切り替えたい。同じプログラムのベルリンでの内容は冊子をpdfで落とせたので目を通しておく。

車のエンジンオイルもバイロイト以降消費した分を足して、燃料も土曜日の帰りに満タンにした。そこから25㎞ほど走ったが、まだ満タンに近い。往復700㎞行かない予定なので通常は給油無しで問題が無く帰宅可能となる。前回はバーゼル経由だったが今回は横から抜ける心算だ。前回も同じ月曜日だったが今回は一時間ほど遅くなるが、工事とか交通量で問題の少なそうな小さな国境の橋を渡る。検問はどちらが引っかかりやすいかは分からないが、それ以外の利便性を考える。距離として片道6㎞ほど伸びる。通常は渋滞の可能性が低い方がつまり交通量の少ない方が早い。春から数えると一回毎に国境通貨場所を変える。通常はチュ-リッヒへの近道であるが、ルツェルンにも遠回りにならないことを今回初めて確認した。

スイスフランは手元に無くなっているので再び換金の必要がある。30フランで充分だろうか?18時頃に入車ならば駐車料11フラン、プログラム、飲み物、それで事足りる。何時もの様に最低のピクニックの準備はする。11時過ぎに出ればよいので、昼食兼夜食となる。飲み物は二リットルか。葡萄若干と往路ののど飴、帰路分は会場で調達する。

終演予定時刻は21時45分なので、帰宅予定は1時30分を目指したい。往復は疲れるが、ゆっくり時間を掛けて走って、途中給油無く、一時間ほど湖の脇で楽譜を見れれば寛げる。以前は早く走る事しか眼中になかったが、リラックスしてゆっくりと走り、休憩する効用も知るに至った。なによりも巡航運転を心がけると燃費が良くなる。

衣裳も涼しくなったので考えものだが、前回と同じで済ましておこう。幸い現地も月曜日は天気が回復して暖かくなりそうだ。ゆっくりとドライヴをしてピクニックをするには全く文句のつけようがない。前回湖の周りをほぼ一周したので土地勘も大分ついた。問題は時間がどれだけ余るかだ。

そこで思い出したのがルツェルンの特別な駅前の交通規制で、以前は使っていた一本手前の道を入っていくと駐車場に入れない。一度は強引にUターンして戻ってきて、二度目は隙を窺って強引に公共自動車帯に乗り行ったが、いつかは恐ろしい罰金を取られる。しかし順当に入ると大回りして渋滞する。何とかならないかと思う。



参照:
中央スイス周辺を展望 2019-08-30 | アウトドーア・環境
走馬灯のような時間 2018-09-06 | 生活
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再び求道的な感じ

2019-09-08 | 
ブカレストからの中継を二日続けて聴いた。二日目はカメラが入っていて生ストリーミングに司会までついていた。お目当てはユリア・フィッシャーのブラームスである。ユロスキーの協奏曲の合わせ方はペトレンコのように「鳴くなら鳴けよホトトギス」では無くて、「鳴くように鳴きましょうホトトギス」ととても食い込む。あれだけ食い込んで今までやってきているのが大したものだと思うが、一寸類稀な技能ではないかと思う。歌手に対してもそうならばテムピさえ定まればどのようにでも合わせて音楽を作れるという事になりそうだ。

勿論フィッシャーもそれに応える以上の名演で、この女流がここまで来たのに驚いた。ペトレンコとはドッペルコンツェルトだったから、そこまでは自分の音楽も出来ていなかったと思うが、ユロスキーがあそこまで合わせて盛り上げて呉れれば大喜びだったのは当然だ。貰った花束もオーボエの女性に渡したのはそれだけディアローグをしていたという事で、そもそも指揮者がそれだけ合わせていなければ奏者がそこまで合せられない。

フィッシャーもお産後にダイエットしたのか、痩せて若々しい顔になって、求道的な感じが再び出てきている。楽器はグゥダニーニであるがこれまた昔クレメルが弾いていたようなのとはまた違い状態がいいのか驚くほど鳴る。アルテオパーでバッハリサイタルを聴いた時にはこれほど鳴っていなかった。恐らく今この曲を弾かせたら一番巧いのではなかろうか。



参照:
若手女教授の老人へのマカーブル 2010-03-19 | 音
女手で披露する音楽文化 2013-05-18 | 女

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玄人が足元を見ると

2019-09-07 | 雑感
靴を買ってきた。選ぶのに予想外に時間が掛かって一時間以上いたので殆ど不審者になっていた。帰宅後に足が冷たいので見ると完全に穴が開いていたので、玄人がみると酷いものを履いているなとも思われていただろう。それでも何とか買えてよかった。後継のブーツを買う心算だったが、同じメーカーにも他所のメーカーにも良さそうなものが、つまりシックなものが無く、普通のシューズとなった。

結局地元のメーカーのシリーズの中から一番いいものを選ぶことになった。靴のサイズは固定して、少々ヴォリューム感が無くても無理に足を押し込むことになるので形は崩れるだろうが、最初から良くないものよりは良いだろう。ブーツでないだけに更に爪先は細くなったが、歩き易く、直ぐには崩れてしまわないことを願っている。形がもう一つのものや色が奇抜なものは安売りで20ユーロほど安かったが、グリーンはまだしも爪先が紫はジーンズに合わせ難くなる。そもそも裾の中に入れるとブーツも普通の靴も同じにしか見えない。足入れは少し良くなるが、タイトなので靴ベラは必要だ。歩くだけでなく、車も運転し易そうなので先ずはこれで良し。金額110ユーロは微妙なところである。

歩くことが目的ではないので、オペラの立ち見や、日頃の買い物などジーンズを履くところはこれ一足で済ませてしまうので、現行だったものが六年持ったので、四年ぐらいは使いたい。要するに外国旅行に出かける時もスーパーに出かける時もこの靴を使うのである。同時に部屋履きのスリッパも展示品しかサイズが無かったので安売りで30ユーロで購入した。冬場の一シーズン半ぐらいしかこちらは持たない。

靴屋に行く国道が往路は通れたが、復路は閉鎖になっていた。アウトバーン化が進められている国道だが、何をしているのかはよく分からなかった。少なくとも途中の醸造所に行く降り口は閉鎖になっていたので、靴のレットアウトセンターからの復路と、醸造所から自宅への帰り道を頭に描いていた。クライミングに通っている場所なので土地勘はあるが、迂回路の指定の仕方によっては混雑しているだろうなと思ったからだ。実際に靴屋からは途中まではいつもよりも交通量は多かったが狭い道を結構飛ばせた。最後は上手く醸造所の街へと抜ける街道へと逃れて交通量が減った。しかし狭い旧ワイン街道を走ることには違いが無かった。

土地勘が無ければ不安になるような細い街路を通り、いらいらするだろうが、流石慣れていると距離感が掴めるので慌てずに走れた。醸造所から自宅へも旧街道を通る方が距離が短く、直ぐにハムバッハ―城なども見えてきて気持ちが良い。昔はくねくねとして嫌だと思った道だが、最近はバイパスが完備して交通量が減って走りやすくなっているぐらいなのは、丁度ワイン街道が自宅の市街地を抜けるのと同じである。



参照:
茶色のファッション靴 2013-06-25 | 生活
雑食砂岩で新しい靴を試す 2012-05-14 | アウトドーア・環境
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adagio molto e cantabile

2019-09-06 | 
承前)第九についてプログラムに高名なヴァークナー研究家のフォス氏が独語解説を受け持っている。また公演前のガイダンスではシュテール女史が味のある解説をしていた。多くの人が感動したようだが、個人的にはまた独自なことに感じ入ってしまっていたかもしれない。なんといってもベルリンでの初日の演奏もあまりにもセンシビリティーに富むもので、楽聖の「心から出でて心へ入る」の「ミサソレムニス」に付けた言葉が浮かぶしかなかったからだ。

二月にミュンヘンで「ミサソレムニス」を体験していたので、その作曲背景も楽聖の考えていたことはとてもすんなりと理解可能なのだが、その時代背景やその環境に関しては勉強不足もありどうしても隔靴掻痒の感がある。古典芸術を愉しむということの意味は多少の差があれどそいうことではなかろうか。

ガイダンスの話しは、それこそ子供の頃に読んだような伝記に載っている聴障害が1818年には完全に来ていてというところから、その手紙などを紹介していたと記憶するが、「ミサソレムニス」に於ける状況つまり「フィデリオ」を含んで全ての交響曲を全て抱合してしまうような時間的なスパンを考えることで、更に第九における作曲状況をそこに繋ぐことが可能となる。まさしく楽聖の世界観であり、その聴世界へと少しづつ近づけることが出来たと思う。

ルツェルンでの公演では第三楽章を皆が絶賛するように、ベルリンやどうもザルツブルクでは無し得なかった深みへと大きく踏み出していた。その会場の音響が大きな後押しをしたことは間違いなく、たとえ本格的な録音が存在しなくとも全ての人に今後とも大きな影響を及ぼすに違いないと思われた。

最後のシーズンを迎えたコンツェルトマイスターのスタブラーヴァが二人目で弾いていて、その後ブカレストでインタヴューとしてその三楽章と後期の四重奏団との関連について、最早メロディーではない語り合いとしての音楽について、楽聖の内声について語っている。そしてEsホルンによる追想も演奏後に特別に賞賛されただけの価値があった。

ベルリンでの演奏ではペトレンコの指揮するアダージョモルトエカンターヴィレの踊りが余りにも軽みを以ってややもすると軽薄な感じさえ与えて、最も疑問とされたところであると同時に最も改善される可能性のあったと見越したところだが、ルツェルンの音響ではどこまでも優しい低弦の支えと対旋律がデイアローグすることで、比較するものは正しく後期の作品群でもその調性を超えて例えば同時代の30番のピアノソナタの飛翔を思い浮かべるしかなかった。軽やかな歩みを以って雲上の散策となる。そこの表現は恐らく嘗て今までなされたことの豊かさだったのだが、全ては基調として準備されていたことになる。兎に角、一楽章のあまりにも具体性を持った音楽は、「ミサソレムニス」のコーダの戦争シーンにも劣らず迫真に満ちているだけでなく、二楽章に於いても独伝統的配置でのフモーアに溢れる楽想があり、三楽章のパラダイス寸景へと踏み込む。

三楽章の所謂後期の作風のアンダンテ動機そしてテムポIで戻って来ての16分音符の刻みが、その舞いが主なベルリンでの批判点が、これが精度を上げて右の第二ヴァイオリンの上に第一ヴァイオリンが乗って、またはヴィオラが呼応して、クラリネットが絡んで、Es管のホルンが楽譜通りに、第一ヴァイオリンが32分音符の刻みが音価を保ってと想像して欲しい。確かにベルリンでは浮ついてしまっているのはその精度が全てを語っている。

ベルリンでの録音を聞けば拍の掘りとかいう以前にどうしても走りかけているのは致し方ないかもしれない。それが回数を重ねることで音価とリズムが揃い精度が上がるだけでその音楽の表情が悉く活きてくる。音楽演奏実践とはそういうことをいうのであって、如何にルーティンでなく新鮮な気持ちで正確に合せて演奏するということが難しいかということに過ぎない。ここはとても好例だと思う。ルツェルンではこの楽章の演奏がどれほど素晴らしかったかがこれで想像できるかと思う。なにもキリル・ペトレンコでなくても、幾らでもやることはあるのだ。それによって少しでも楽聖の心の中に入って行けるのである。合わせるということは、四重奏曲のようにというのは、そのことでしかない。(続く



参照:
歓喜へ歌への対照と構成 2019-08-24 | 音
飛ぶ鳥跡を濁さずの美 2019-01-25 | 音
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ブカレストからの生中継

2019-09-05 | 
ブカレストでのエネスコ音楽祭生中継を聞いた。時差が中欧とは一時間あることは今回知ったが、それでも23時過ぎまで演奏していたのだろうか。音質は、少なくともイタリアのraiによるスカラ座中継よりは普通だったが、盛んにクリップさせる。収録に慣れていないのだろうか。更に会場の雰囲気が分かり難いので、舞台以外は可成りオフになっている感じがする。それでも残響は分かった。

仕事をしながら離れながらだったが、リヒャルト・シュトラウス作曲「影の無い女」全曲のコンサート形式演奏会生中継で印象は得た。まず最初の音からしてアタックも弱く引き締まりが無い。ベルリンでの演奏などは前任者ヤノスキーの傾倒を受けて高度なとかあるが、どうもベルリンには前任者への信心があるようだ。あの最初の和音だけで明らかにミュンヘンのペトレンコ指揮とは比較できないばかりか、ナガノ指揮のハムブルクの座付の方が鋭いかもしれない。

そこからすればユロスキーがペトレンコの後任としてミュンヘンで振ってもそれほど上等な音とはならないと予想する。なるほど楽団がネルソンズ程ユロスキーを欲しなかった要因は何となく見えてきた。少なくともコンサート指揮者としては頂点にまでは至らない人だと認識した。

しかしである、この問題の多い作品をコンサートでここまでドラマティックにそして心を揺さぶらせる指揮をするのには改めて魂消た。ペトレンコ指揮演奏の場合は楽譜を確認しようとさせるが、この指揮者の場合は楽譜を見るまでも無く、その核になる部分を拡大鏡で拡大して光を当てるような指揮振りが分かる。しかしそれでいて全体の中での部分が綺麗に収まるのはこの指揮者の稀有の特技で、それは管弦楽曲を振っても全く分からないように次の部分へと綺麗に受け渡される。

こういうのを聞かされると、支配人が確りしてプロジェクトコンセプトが立派ならば如何ほどの劇場的効果が得られるだろうかと胸が一杯になる。ペトレンコ時代には得られなかった本当の劇場的な感動が体験できるかと思うと今から感動してしまう。

述べたようにコンサート指揮者としては頂点に出る人とは思わないが、音楽劇場指揮者としてはその才能からすればピカイチではないだろうか。パパーノも確かに悪くはないと思うが、その音楽的な作りの輝きはとても比較にならないほど素晴らしい。バーデンバーデンやザルツブルクは次を見るならばネルソンズよりもこのユロスキーに話しを付けておくべきだろう。

これでまたミュンヘン通いが続きそうな塩梅になって来た。一方でペトレンコがベルリンだけの定期演奏プログラムでは古典やロマン派の恵まれない曲の実験をするというのであるから、余程の曲でない限り態々出かける必要はないだろう。そもそも年に14回を超えるようなプログラミングは必要ないとされているので、少なくとも前任者ラトルの時のように頻繁に指揮台に君臨するという事はなさそうである。2020/2021年シーズンにおいても2022年6月にはミュンヘンのオパーフェストを最後に振るとなれば、実質九カ月未満しかベルリンでは振らない。2020年11月は東海岸でのお披露目なのだろうか。記者会見風景を改めて観ると2020年8月のオープニングツアーは、スークとバレンボイムとの協奏曲が第二プロでまず間違いないだろう。第一プロは「千人」だろうが、「ミサソレムニス」をどこに入れてくるのだろうか?



参照:
オーケストラがやって来た 2019-03-12 | マスメディア批評
一級のオペラ指揮者の仕事 2019-01-14 | 音
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ルツェルンでの視界

2019-09-04 | アウトドーア・環境
涼しくなってジーンズを履いていたが、また脱いだ。明日からは冷えるので再び厚着になる。マンハイムに行って結局往復100㎞走った。理由はラインに掛かる橋の二つの一つが一方閉鎖されていて、混雑して遠回りをしたからだ。次の橋はアウトバーン六号だがそこへのアプローチも街の中を長く走るのでラッシュアワー時には混む。そこで次の橋を目指した。実際にはスパイーヤに抜ける橋なのだが、これも閉鎖されていたようで、一番手っ取り早くホッケンハイムリンクがあるところまでアウトバーンで南下してスパイヤーの所で別の橋を渡って戻って来た。それでもホッケンハイムの所で渋滞していた。更に南のカールツルーへも工事中で週末は完全に閉鎖される。州が違う以上に橋を壊してしまうと直ぐに第一次世界大戦後のようにフランスに帰属してしまう。若しくはバイエルン王国の飛び地になって仕舞う。これだけ自然境界がハッキリしていれば食文化も言葉も全く異なってもおかしくはない。

先週のルツェルンの話しで書き忘れていたことがあった。中継ラディオで、指揮者ヒュルサのインタヴューから、会場の音響についての事だ。兎に角素晴らしい音響という事だが、具体的には舞台の上でも会場でも同じように響くという。舞台は立ったことが無いので分からないがマイクで捉えている音はあの残響の感じと透明感なので差がないものと思う。そして色彩も手伝って明るいのもよいとしている。指揮者自身古いホールが好きだというので、つまりシューボックス型と言う意味になるが、やはり近代的なホールは異なるとしていて、勿論その長所を評価している。つまり彼の言う通り欧州で相当するホールは二つしか存在しない。

今回初めて2.Balkonのそれも四列目だったが与えられたのだが、一年前のランク下の3.Balkonよりは間違いなく良かった。ゲヴァントハウス管弦楽団はその3.Balkonの二列目だったので、昨年の四列目の視界に入る庇は全くなかったが、音響は殆ど変わらなかった。なるほど最前列とかは視界も効いて、より本天井からの跳ね返りもあるだろうが、少なくとも2.Balkonで確認した残響はそこでは確認できなかった。来週の月曜日は1.Balkonのサイドに座るので、これで大体ホールの一通りの特徴が分かるようになると思う。

少なくとも大編成の場合は平土間で視界が良く効くところは限られそうで、それは態々見に行った時に戸口のおばさんにまで「大編成では前の方はあんまりよくないわよ、そりゃーバルコンの方がいいわよ」と言われてしまった。その通り、視界の効き方は多くのことを語っているので、同様の意味から1.Balkonは若干俯瞰し難い角度になる。勿論月曜日と同じように最前列は悪くはないだろうが、最高級価格になって、その価値が保証されるのは当然でしかない。大阪人の言う、高くて旨いのは当たり前なのだ。来年以降のことは月曜日以後に考えるが、少なくとも価格比からすれば今年割り与えられた座席には満足している。駐車場の4時間超えての15フランもミュンヘンの事を考えれば半額だ。

昨年と異なって三泊しただけで、昼間の室内楽と友人の前座コンサートに出かけ、結構盛り沢山となっていた。アカデミー講師やレジデンス作曲家など仲間が多かったのも良かった。もう一泊位しても良いぐらいかなと思うが、来年の日程が決まらないと何とも言えない。同じ宿が取れれば文句なしで、やはり重要である。

やはり通わないと分からないものも少なくなく。ミュンヘンでも同じであるがこちらの要領も良くなり、無駄も減り、都合よく物事を進められるのが良い。ザルツブルクも一時同じように通っていたのだが、そこまでは中々居心地が良くならなかったのはネットで手頃な宿が簡単に見つけられなかったことが大きいかもしれない。

今晩はエネスコフェスティヴァルからの中継があるので楽しみだ。ミュンヘンの後任音楽監督ユロスキー指揮「影の無い女」を先日のベルリンに続いて演奏会形式で演奏する。この曲で少なくともリヒャルト・シュトラウスのその指揮振りを窺え、更にオペラでの指揮をある程度想像できるかもしれない。



参照:
歴史的独楽器配置の箱 2018-09-05 | 文化一般
無料前座演奏会の光景 2019-08-28 | 音
ルツェルンの最初の夜 2019-08-27 | 暦
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限り無しに恨み尽くす

2019-09-03 | 
マンハイムへの途上、車中のラディオが面白い話をしていた。アウシュヴィッツの生き残りで、イングリッシュ室内合奏団の創始者の一人の女性の話しである。アニタ・レスター・ウォルフィッシュと言う女性で、昨年ドイツ連邦議会で講演をしたようである。裕福なブレスラウのユダヤ人家庭に生まれ育ち、17歳でアウシュヴィッツへと送られる。趣味と教養として習っていたチェロを弾けたことから、収容所の少女楽団に採用されて命拾いをしたという。そのお蔭で、一日中演奏をさせられたというが ― ヨーゼフ・メンゲルの前でも演奏したと語る ―、 英国軍によって解放されるまで生き延びた。

ドイツの地は踏まないという強い恨みを持ち続けていたが、最後まで恨み続けることで自分自身を潰すと考えて、講演に至ったようだが、そこで語ったことの一部として、「最早今日、アンティセミティズムは問題ではない、問題であるのは今欧州での難民に発した直面した問題である。」語った。

この考え方を肝に銘ずるべきだ。要するにAfDの様な連中がアンティセミティズムを口にしなければ逮捕されない一方、その仲間であるPEGIDAなどがあからさまに反イスラムのアピールをしている事こそが同じだけの問題であると、ホロコーストの当事者が語る以上、無視できないのである。

そこでアジテート演説をするような元祖バイロイト音楽祭音楽監督のような輩をとことん叩き潰さなければいけないのはそれ故に当然の良心的な市民の義務なのである。そうした背景無しには、所謂まともな機関のまともな官僚などがティーレマンを結果的に排除するような方向へと動くのは当然の事であり、こうした事情を知らずには我々がなぜあそこまで元祖を追いつめるかが理解できないだろう。

なにもモサドのように執拗に追いかける訳ではなく、またザルツブルク州の責任者が「我々はティーレマンを排斥しようとはしていない。」という言葉に表れるように、そのもの「自ら去ね」と形を変えて発言しているのでしかないのである。それを敢行するために天敵のように現ミュンヘン歌劇場支配人のバッハラーを復活祭支配人に指名したのであり、それをしても即座に辞任しなかったティーレマンは最後まで後手に回ることになる。

来年からバイロイトで「指輪」を演出するヴァレンティン・シュヴァルツが「トュ―ランドット」を演出して初日が開いた。新聞評によると未完のままの上演でお客さんに戸惑いがあったようだ。ダルムシュタットはなぜか質が高いので、歌手や演奏は良かったようだ。

キャストやスタッフを見ると知った顔が出て来た。二月にミュンヘンで「ミサソレムニス」の合唱を担当していた指揮者がダルムシュタットに移っている。それを知ると明らかに左遷のようにしか思えない ― 合唱のバランスが悪かった。日本で問題になった「タンホイザー」もこの人だった。来年は千人の交響曲もあるので、現在の主任が責任を持つのだろう。とても重要である。



参照:
Die Holocaust-Überlebende Anita Lasker-Wallfisch erhält Deutschen Nationalpreis, SWR2
真夏の朝の騒がしさ 2019-07-26 | アウトドーア・環境
新支配人選出の政治 2018-11-13 | マスメディア批評
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逸早くする次の準備

2019-09-02 | 雑感
「彼方の曙光」の準備を始める。オリヴィエ・メシアンの最後の作品である。来週の月曜日のルツェルンで演奏がある。とても楽しみな演奏会である。手元には嘗てザルツブルクの音楽祭でプレゼントされたCDがあるが、それほど熱心には聴いていない。準備のために調べると全曲のフルスコアがネットにあった。少なくとも二度と聴くことがあるかどうか分からない曲の高価な楽譜を注文することも無く、なければそれで終わりだ。しかしこうして手が届くとなると便利なようにコピーを試みた。日曜日の晩はこれに時間を費やした。

所謂内職と呼ばれるという作業でpdf製本までしたが、先ずはPNGファイルで事足りる。よくも300ページに及ぶ手仕事をするなと我ながら暇人だなと思うが、決して無駄な時間が流れただけでもない。少なくともページ数を確認してモニター画面を切り取って並べて行くだけでも何かが分かる。楽譜ずらのスケールや特殊な進行や扱い、更に大まかな管弦楽法などなによりも全体の大きな流れとまるで通して聴いたような気になる。少なくとも会場でのプログラムの見出しよりも分かるのだ。

そもそも我々の様に初見でこうした曲を簡単に音に出せるような人間でない限り、時間を掛けてアナリーゼするのとこうしてざっと目を通すのと差はそれほど大きくないのだ。何よりも大曲の場合は大まかに流れをつかめる方がとても為になる。少なくとも最低のオリエンテーションとなった。さらにCDの音を出しながらも細かく見て行くことになる。とても楽しみである。

同時に今週の予定をざっと洗った。気を付けないといけないのは週末に出かけるワイン試飲会とグローセズゲヴェックス解禁に伴って発注したものを回収してこないといけないことだ。注文していながら開けれないので試飲させてもらうのが大切になる。下位のワインで出来は概ね分かっているのだが、寝かすとなるとビフォア―・アフターを押さえていないとお話しにならない。

先ずは金曜日夕刻にナーヘに行って、翌土曜日は南プファルツに出かけて、まず先に更に山奥に入ってシューズマーケットで新しい普段の靴を探す。その帰りに醸造所に行って試飲する。その日程と時刻を確かめた。

新聞によると、ザルツブルクの復活祭人事からの問題が早くも大詰めに至ったようだ。最初に来年から支配人になるバッハラーが22年以降の音楽監督ティーレマンのプログラムを蹴って、それによってプランが乗り上げたとある。そしてティーレマンが再びザルツブルク州当局に書面でプラン実行の了承を求めた。それに対して九月になって初めて9月17日になって理事会で論議される。しかし、ドレスデン側はティーレマン抜きでも来年以降の契約を延長したいと声明した。つまり、シュターツカペレドレスデンの指揮者は辞任に追い込まれる。同時にザルツブルク州はティーレマン込みの希望だとしていて、明らかに音楽監督の上に敵のバッハラー支配人を据えた判断と矛盾している。

さらに書いてあるのが、バッハラーのアイデアにはゲヴァントハウス管弦楽団の登場を目しているとあり、それならば必ずしもシュターツカペレは必要ではない。可成りガラガラポンの態勢になってきているが、それならば余計にシュターツカペレには新しい魅力的な顔が必要になる。ヴェルサーメストがそこに入ることがあるのかどうか?ネルソンズ指揮ゲヴァントハウスに匹敵する顔はそれ以外には思いつかない。



参照:
プログラミングの決定権 2019-08-22 | マスメディア批評
電話回線契約破棄の旨 2019-03-26 | 雑感
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