(承前)ベルリナーフィルハーモニカーのコンツェルトマイスターは各々個性もその技量も異なる。今回は樫本とスタブラーヴァの二人でオープニングツアーをこなした。前者はペトレンコのお気入りの日本人で、後者は最後のシーズンを迎えているポーランド人である。ペトレンコが発言したように世界中からやって来ている各々のオリジンをその音楽性を、フィルハーモニカーの核となるレパートリーと共に土台にしていきたいと、自らが遠くシベリア生まれであると付け加えた。
必ずしも人種やその文化が各々のコンツェルトマイスターの音楽性を左右する訳ではないが、樫本が同業者には高く評価されても通常の音楽業界ではそれ程は評価されないのにはやはりその音楽的な特徴もあるだろう。同じようにスタブラーヴァの弦に物足りなさも感じたり、逆に艶っぽさと強い弦を感じることもあるのも特徴である。そして初日には前者が、二日目には後者がリードした。しかしその個性だけでなくて、それは楽曲に合わせてきていた。
つまり初日には制約されたヴィヴラートを樫本が、二日目には分厚目のスタブラーヴァが請け負った。それに関しては復活祭では、シェーンベルクの管弦楽には線の明晰さが欠けていた ― しかし特筆すべきは、復活祭では感られなかったシステム間の繋がりなどと同時に対抗配置の音響的な秀逸としばしばユーモアも体験できた。これはとても勉強になる貴重な体験だった。
またソロのコパンチスカヤのヴァイオリンも下手であった。楽器が全く鳴っていなかった。しかし今回は会場の音響に助けられるばかりか、楽団と共に表現がより幅広く大きくなっていた。そして音量感と音色が前日とは全く異なった。確かにスタブラーヴァは前任者ラトル時代の20世紀モダーンなレパートリーでなくてはならないコンツェルトマイスターだった。そして今回も後半にチャイコフスキーをもリードした。当然のことながら初日の後半の第九とこの第五ではヴィヴラートが変わってくる。
これが既に試し弾きのコントラバスにも徹底されていたのだろう。これが大きな相違だった。これによって何が得られたかと言うと、初日から二日目へと大きなダイナミックスの変化であり、その音楽のよりどころとなるバスの響きだった。つまり最終に掛けて音量も増していく、尻上がりの状態を、決して少なくない核となる二晩通う人たちに感じられるようにもなっている。昨年はフランツ・シュミットの交響曲四番の前の「ラペリ」にハイライトがあった。
二日目のプログラムが決まった時点では私達には知らされていない初日のオープニングのプログラムと同時に総合プログラミングされていたという事であり、決して思い付きでこのような演奏と演奏形態がなされているという事ではないのである。そしてそれによってシェーンベルクの世紀的な名演がなされた。
なるほどチャイコフスキーの交響曲五番の終楽章はベルリンの三日間は全て把握できていないが、今回初めて「涅槃」へと近づいた。それでもと言うかフィルハーモニカーはどこまでも喰い付いて来る。マイクが入っているとなると尚更だろう。ジャーナリストが好んで使う表現を借りれば鞭が入った。ゲネラルパウゼ前の最終コーナーである。現在のペトレンコと楽団の関係においては限界まで行ったと思う。今までで一番多く生演奏を聞いた管弦楽団はベルリナーフィルハーモニカーだと思うが、今までは二番目に多かったヴィーナーフィルハーモニカーの方をいつも愛しく思っていた。しかし今回初めてそれが変わった。
その反面、二楽章や三楽章は復活祭演奏の二回の一日目ほどの精妙さと表現の多彩さには至らなかった。二日目の演奏には今回一楽章は至っていたと思うが、若干分厚く響き過ぎた感があって、若干スラブ色が強く出ていた。そうした大フィナーレへの準備は、繰り返すが、初日から周到に進んでいたのだった。(続く)
参照:
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
次元が異なる名演奏 2019-04-15 | 文化一般
必ずしも人種やその文化が各々のコンツェルトマイスターの音楽性を左右する訳ではないが、樫本が同業者には高く評価されても通常の音楽業界ではそれ程は評価されないのにはやはりその音楽的な特徴もあるだろう。同じようにスタブラーヴァの弦に物足りなさも感じたり、逆に艶っぽさと強い弦を感じることもあるのも特徴である。そして初日には前者が、二日目には後者がリードした。しかしその個性だけでなくて、それは楽曲に合わせてきていた。
つまり初日には制約されたヴィヴラートを樫本が、二日目には分厚目のスタブラーヴァが請け負った。それに関しては復活祭では、シェーンベルクの管弦楽には線の明晰さが欠けていた ― しかし特筆すべきは、復活祭では感られなかったシステム間の繋がりなどと同時に対抗配置の音響的な秀逸としばしばユーモアも体験できた。これはとても勉強になる貴重な体験だった。
またソロのコパンチスカヤのヴァイオリンも下手であった。楽器が全く鳴っていなかった。しかし今回は会場の音響に助けられるばかりか、楽団と共に表現がより幅広く大きくなっていた。そして音量感と音色が前日とは全く異なった。確かにスタブラーヴァは前任者ラトル時代の20世紀モダーンなレパートリーでなくてはならないコンツェルトマイスターだった。そして今回も後半にチャイコフスキーをもリードした。当然のことながら初日の後半の第九とこの第五ではヴィヴラートが変わってくる。
これが既に試し弾きのコントラバスにも徹底されていたのだろう。これが大きな相違だった。これによって何が得られたかと言うと、初日から二日目へと大きなダイナミックスの変化であり、その音楽のよりどころとなるバスの響きだった。つまり最終に掛けて音量も増していく、尻上がりの状態を、決して少なくない核となる二晩通う人たちに感じられるようにもなっている。昨年はフランツ・シュミットの交響曲四番の前の「ラペリ」にハイライトがあった。
二日目のプログラムが決まった時点では私達には知らされていない初日のオープニングのプログラムと同時に総合プログラミングされていたという事であり、決して思い付きでこのような演奏と演奏形態がなされているという事ではないのである。そしてそれによってシェーンベルクの世紀的な名演がなされた。
なるほどチャイコフスキーの交響曲五番の終楽章はベルリンの三日間は全て把握できていないが、今回初めて「涅槃」へと近づいた。それでもと言うかフィルハーモニカーはどこまでも喰い付いて来る。マイクが入っているとなると尚更だろう。ジャーナリストが好んで使う表現を借りれば鞭が入った。ゲネラルパウゼ前の最終コーナーである。現在のペトレンコと楽団の関係においては限界まで行ったと思う。今までで一番多く生演奏を聞いた管弦楽団はベルリナーフィルハーモニカーだと思うが、今までは二番目に多かったヴィーナーフィルハーモニカーの方をいつも愛しく思っていた。しかし今回初めてそれが変わった。
その反面、二楽章や三楽章は復活祭演奏の二回の一日目ほどの精妙さと表現の多彩さには至らなかった。二日目の演奏には今回一楽章は至っていたと思うが、若干分厚く響き過ぎた感があって、若干スラブ色が強く出ていた。そうした大フィナーレへの準備は、繰り返すが、初日から周到に進んでいたのだった。(続く)
参照:
芸術の多彩なニュアンス 2019-04-15 | 文化一般
次元が異なる名演奏 2019-04-15 | 文化一般