夜中一時過ぎに帰宅した。最後のスタンドに入ったが寝ることなく、直ぐに帰宅を急いだ。車庫出しが二十二時の二分程前だったので、所要時間三時間十分ほどだろうか。往路は小さな国境通過路で、十四時前で偶々誰も居なかった。帰路はバーゼルを通過したが三四人組がコントロールしていたが、一礼で済んだ。先月のスイス人によるフランクフルト中央駅での事件以来コントロールするようになっている。
さて音楽的な成果はどうだろうか。サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団は初めてだった。少なくとも演奏に関しては、40年以上ファンとして通い続けたこの指揮者のコンサートやオペラの中でワーストの出来だった。ベルリナーフィルハーモニカーとのベートヴェンの第七交響曲と双璧だった。何よりもメシアンの解釈には期待していたが、とてもではないがカムブレランの様には楽譜も読み込んでおらず、リズムの処理もお粗末だった。本人としては管弦楽団の力量として言い訳を用意しているのだろうが、少なくとも辞任に際してフィルハーモニカーよりもラトルを支持していた私のようなものには通らない。
サー・ラトルは明らかに都落ちをした。ロンドンの交響楽団の技術程度はドイツの放送交響楽団程度である。マイクを通しては気が付かなかったが弦楽陣は下手である。コンサートマスターから後ろまで各々皆水準に達していない。管楽器陣は大編成の為にエキストラが沢山入っていたとしても、例えばオーボエのコッホ嬢でも、音合わせは安定していたのであれと思わせたのだが、マイヤーの後釜に座るほどの力はなかった。フルートの首席も一人祝福されたが、到底パユと比較する訳にはいかない。金管はコントロールも効かないのでブラスバンドの様で、たとえベルリナーフィルハーモニカーが何だかんだと言っても、それはとても音楽的に制御されている。
ロンドン交響楽団の芸術的な価値は、アメリカのビッグファイヴの中からの指折りの楽団とフィルハーモニカーの三分の一ぐらいだ。実際に今回の演奏会はジーメンス財団の特別演奏会ツアーだが三分の一以下で個人的には30フランしか払っていない。彼らのコンサートに超一流と同等の入場料を払うのは全てラトルの知名度に払うと考えてよいだろう。
アブラームセンの「(オルフェ―リアの)レットミ―テルユー」の再演でのバーバラ・ハニンガムの歌の技巧に対応できない管弦楽とは一体どういう事だろうか。なるほどコンサート前のリハーサルに手間取って作曲家がガイダンスに現れるのが遅れた。サウンドチェックの心算が音楽的に重要な技術的な修正へと追い込まれたのはよく分かる。会場の音響を使い切れるだけの楽団では無いからだ。
本当のラトルファンが、ロンドンでの活躍で期待するのはベルリンでは出来なかったコンサートでありそこでの音楽表現である。しかし今回のを聴くと、メシアンなどは振るかどうかは別にして、ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーで演奏されると全てが塗り替えられてしまう。まるでラトル指揮の演奏はペトレンコ指揮によって塗り替えられるために存在するかのような趣になって来た。
参照:
彼方の閃光を目指して 2019-09-09 | 生活
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般
さて音楽的な成果はどうだろうか。サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団は初めてだった。少なくとも演奏に関しては、40年以上ファンとして通い続けたこの指揮者のコンサートやオペラの中でワーストの出来だった。ベルリナーフィルハーモニカーとのベートヴェンの第七交響曲と双璧だった。何よりもメシアンの解釈には期待していたが、とてもではないがカムブレランの様には楽譜も読み込んでおらず、リズムの処理もお粗末だった。本人としては管弦楽団の力量として言い訳を用意しているのだろうが、少なくとも辞任に際してフィルハーモニカーよりもラトルを支持していた私のようなものには通らない。
サー・ラトルは明らかに都落ちをした。ロンドンの交響楽団の技術程度はドイツの放送交響楽団程度である。マイクを通しては気が付かなかったが弦楽陣は下手である。コンサートマスターから後ろまで各々皆水準に達していない。管楽器陣は大編成の為にエキストラが沢山入っていたとしても、例えばオーボエのコッホ嬢でも、音合わせは安定していたのであれと思わせたのだが、マイヤーの後釜に座るほどの力はなかった。フルートの首席も一人祝福されたが、到底パユと比較する訳にはいかない。金管はコントロールも効かないのでブラスバンドの様で、たとえベルリナーフィルハーモニカーが何だかんだと言っても、それはとても音楽的に制御されている。
ロンドン交響楽団の芸術的な価値は、アメリカのビッグファイヴの中からの指折りの楽団とフィルハーモニカーの三分の一ぐらいだ。実際に今回の演奏会はジーメンス財団の特別演奏会ツアーだが三分の一以下で個人的には30フランしか払っていない。彼らのコンサートに超一流と同等の入場料を払うのは全てラトルの知名度に払うと考えてよいだろう。
アブラームセンの「(オルフェ―リアの)レットミ―テルユー」の再演でのバーバラ・ハニンガムの歌の技巧に対応できない管弦楽とは一体どういう事だろうか。なるほどコンサート前のリハーサルに手間取って作曲家がガイダンスに現れるのが遅れた。サウンドチェックの心算が音楽的に重要な技術的な修正へと追い込まれたのはよく分かる。会場の音響を使い切れるだけの楽団では無いからだ。
本当のラトルファンが、ロンドンでの活躍で期待するのはベルリンでは出来なかったコンサートでありそこでの音楽表現である。しかし今回のを聴くと、メシアンなどは振るかどうかは別にして、ペトレンコ指揮ベルリナーフィルハーモニカーで演奏されると全てが塗り替えられてしまう。まるでラトル指揮の演奏はペトレンコ指揮によって塗り替えられるために存在するかのような趣になって来た。
参照:
彼方の閃光を目指して 2019-09-09 | 生活
初心に帰る爽快さ 2018-09-09 | 文化一般