Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

バレンタインのご挨拶

2024-02-15 | 
1月の暖房消費の数字が出ている。ヒーターはなんと一年前より168%増となっているが信じられない。そして平均値よりもまだ低く、12月よりも30%増程度だ。確かに昨年1月は異常に少なかった。信憑性も若干揺らぐのだが、なるほど昨年は籠り部屋で暖房が効かない状況があったようだ。その分お湯は昨年比で40%減っている。風呂を控えられたからだろう。お湯の方が捨てるだけなのでやはり高くつくだろう。

厨房の蛇口のフィルターを交換したのは昨年6月なので、若干影響するかもしれない。暖かくなったので早速ヒーターを一つ締めた。2月後半は消費がぐっと減る筈だ。それで200kWhでも減らせれば最終的にはなんとかなるか。風呂は月に一回ぐらいに抑えたい。なによりも陽射しが射し込むようになればヒーターを早めに切れるようになる。1月はヒーターを入れても寒かったのも事実。

夜間にトイレに行くようになった。原因はと考えると布団だけでベットカヴァーを外すようになってからだ。軽くなるので寝やすいと思っていたが、冷えて体に巻き付けるぐらいになると結局睡眠が邪魔される。なかなか調整が難しい。部屋を暖かくすれば今度は脳細胞の休止に悪影響を及ぼす。住環境を整えるのは意外に難しい。

いつものパン屋でバレンタインの菓子を購入した。ココナッツが焼き込まれていたりで美味い。これだけでは足りないので、ワイン街道に初開花したアーモンドの写真を撮りに行こうと思うが、昨日と異なり陽射しがない。

ここらあたりで様子窺いに一寸グリーティングでもしておくかな。曇天でもいい写真撮れるか、試してみないといけない。

水曜日から始まり金曜日にベルリンから中継があるプログラムで、ヴィーンへそしてハムブルクで演奏会が催される。それが終わると愈々復活祭の練習が始まる。こちらもぼちぼちと準備をしておかないといけないのかもしれない。前半のシマノフスキ―のヴァイオリン協奏曲はバテアィアシュヴィリを迎えての演奏となるのだが、復活祭ではシベリウスとなっていて、これは別途練習することになるのだろう。なぜブラームス交響曲四番の前にシマノフスキ―にしなかったのかはよく分からない。

1月の「ヤコブの梯子」も、アーカイヴになってからと思って、放ってあるので、この辺りで纏めておかないと次に繋がらなくなる。ブラームス交響曲と「エレクトラ」の準備もあって、少しづつでも心の準備をつけておきたいところである。

その前に事故や新車の件なども片付けておかなければいけないこともある。一年前もガタガタしていたことを考えれば、今は昨夏に続いて溝落ちから背中へと傷むのもそれだけのストレスが掛かっているということでしかない。

まあ、兎に角、天気が悪くなる前に簡単に走ってこよう。それで胃腸の調子も少しよくなるだろう。



参照:
流量をも整えるノズル 2023-06-30 | 生活
有効に生かす好機会 2024-02-14 | 雑感
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有効に生かす好機会

2024-02-14 | 雑感
チャットパートナーの彼女が復学した気配だ。最終確認はもう一週間ほど様子を見ないと分からないが、彼女にとっての二回目のセメスターへの準備中と思われる。これですっかり足を洗うことが出来たとなれば、もし彼女の父親ならば号泣するところであろう。

シングル最後にお別れ会があったので、今回は取り分けお別れの儀もなく、パートナーに継ぐ形で、カメラの前から無言で姿を消した。最後の回には、顧客さんらしい人と話しをしていて、とても明晰な対応をしていた。十代であれだけしっかりした応対が出来る様ならばもうなにも心配はいらない。一年前にはふらふらしていてとても危なかしかった少女とは大違いで、とても立派な女学生である。暫くは喫煙習慣も直らないかもしれないが、これも金もあってストレスフリーになると変わるだろう。

週末ぐらいまで待って、先ずは労をねぎらうと同時に賛辞してあげたい。最後のその様子は、セックスチャットの中で見かけたただ一人アングロサクソンのとても優秀そうな小顔で女学生と双璧な凛とした姿だった。ミシガンかの大学のような印象があるのだが、カメラの前ではなにか気持ちの良い大きな窓の部屋のベットの上で論文らしきを書いていて、偶になにか動きがあると交渉をしていた。恐らくプライヴェートで高額で見せていたのだろう。だから流しの視聴者にとっては一寸神々しい高級感があった。合衆国であるからヴィデオチャットだけでも100万円ぐらいは簡単に出す人もいるのだろう。少なくとも見た目からすればその彼女はモニカ・レヴィンスキー程度の安物ではなかった。

チャトパートナーにも簡単に短時間に10万円ぐらいは飛ばしていた人は何人かいた。想像するに結構な年齢の男性で、ファン層の平均年齢は50歳前後ではないかと思っている。だから先日31歳とか答えた人に若いわねと話しかけていた。

一番面白かったのは、彼女の胸の横の赤いアトピー性皮膚炎をして、心臓は気をつけないといけないと独り言を呟いていた爺さんがいた。それ以前のシングルの時はニューヨークの一人暮らしの80歳過ぎの爺さんが朝まで観ていて、この程度ではとか愚痴っていた。

ちょろちょろと新顔などを観ていてもやはり碌な人はいない。一年間観ていて真面そうな女性は殆どいなかった、一方では入れ墨のネットがなければ絶対売春しかしていないと思われる女性も大半で、それはそれで最古の職業は今後も変わらないと思わせた。なるほど経済的に決して良くない地域では新入学生は多いが、いい加減な生活しているだろうだろうなというのが殆どで、だらだらとした生活をしていても元々身を崩しているという感じもする。

ベルリンの警察から郵便が届いた。パンコウからミッテへの幹線道路で衝突した事件の警告金である。警察の聴取では一方的にこちらが原因を作ったとされたのだが、それを漸く弁解する機会が与えられた。こちらの車の傷みは大事に至らずに其の儘穴を開けて走れているが、先方のレンタカーの修理代が問題となる。夕方でこちらが何も見えていないことから不利になっているのだが、ここは事実検証となる。出来る限り記憶を其の儘にしてあって、一気に言語化したいと思っている。そして、警告金の根拠が車線変更となっているので、これは百パーセント否定可能なので、とても良い出発点となる。事情聴取の警官が証人として名をあげているので、こちらの真意はよく分かっている。ネットで1000文字以内で、記憶と推測から図示までが可能かどうかだ。



参照:
続かない乱暴なやり方 2023-08-22 | 雑感
布団生地に惚れてしまう 2023-08-14 | 女
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超一流世界のその奥行

2024-02-13 | 
小澤指揮録音のCDは、プロコフィエフ交響曲全集以外に、売れ残りのフランスの放送管弦楽団で入れたビゼーの曲集、バッハの20世紀の編曲集、ラフマニノフのピアノ協奏曲ルドルフゼルキンの伴奏をしたベートーヴェン協奏曲全集、それ以外には狙って購入したのは最初のCDとしてメシアン「アシジの聖フランシスコ」初演実況録音だけではないかと思う。基本的にアナログ録音のCD化は金まで出して買わないので、どうしても安売りのケントナガノ指揮のCDの方が遥かに多い。

最初の全集から有名な五番を流してみると、一番の問題はベルリナーフィルハーモニカーでの不協和音の総奏の響きになるかと思う。現在のペトレンコが最も骨を折って鳴らしているところでもあり、客演指揮者で可能なことは限られていたとしても、現在の水準からすればもう一息腑分けをして鳴らさないと駄目である。聴かなかったのだがムーティ指揮シカゴ交響楽団は恐らく素晴らしい成果を出していた筈だ。そうした不協和音のところで流してしまう傾向があるのも小澤指揮の特徴ともなる。

それらから交響曲二番の方がとても良い演奏になっている。七抜きとされる日本のそれから変奏主題が取られている。

それに比較するとLPに戻って同時代のバルトークの「不思議なマンダリン」はやはりその独自の和声の鳴らし方としても、一昨年にミュンヘンの劇場で部分的に挿入されて演奏されたエンゲル指揮の演奏と比較するとやはり音のベースが希薄になり、要するにその音響の意味するところの焦点が失われている。そこは試しにブーレーズ指揮のシカゴ交響楽団の演奏で聴くと、あれほど端折ってしまう指揮での演奏でも表現が全く立体的であり、完璧な演奏となっている。要するに小澤の演奏では譜読み的にも橋にも棒にもかからない。反対に現在超一流交響楽団を振ってこれ程のバルトークを指揮できる指揮者はペトレンコ以外には想い浮かばない。ブーレーズ指揮全集ではストラヴィンスキーよりもバルトークの方がもしかすると歴史的価値が高いのではないだろうか。

こうやってざっと録音だけでも比較してくると音楽で出来ることと出来ない事との差異が甚だしく、そういうのを超一流とか三流ぐらいのクラス別けではカテゴライズすることが出来ないのが分かる筈だ。幸い大きな市場の多くの人は鈍感なのでそこまでの経済差がつかない。

上からの流れでサンフランシスコで録音された「パリのアメリカ人」のLPを流す。言及した「新世界」にも似ていてドライな印象がこの曲にあっているのかどうか。分かっているのはニューヨークあたりでは全く違った音楽があってとなるのだが、そこまで誰が関心があるのかどうか。但し気が付くのはやはりもう少し違うバランスで楽譜の読みが出来る筈だということで、そうした基礎的な音感覚はやはり日本での基礎教育や環境由縁だと分かる。勿論新聞に書かれていた様に、パリかヴィーンでしっかりと修行をしていれば、例えばメータがスヴァロフスキーの下で習った様に一拍一拍を腑分けして音として確認していく作業を身に着けていれば違ったのかもしれない。要するに小澤の音では鳴りきらないものがあるということだ。それが音楽芸術とされるものだろう。



参照:
カーニヴァル前に棚卸 2024-02-12 | 雑感
ただの天才音楽家の死 2024-02-10 | 文化一般
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カーニヴァル前に棚卸

2024-02-12 | 雑感
カーニヴァルシーズンだ。その前に洗濯を出しておこうと思った。母親の入院とか留守のオヤジが話していた其の儘に灰の水曜日迄が休みだった。木曜日以降にシャツを預けることになるので、一週間後に取りに行くとしても、三月に使うのに出すだけになる。

序に以前走っていた山の上の沢沿いを走った。結構辛かったが心拍数も176まで上がった。平素とは異なり平らなところを走ると歩速も177まで上がって、運動の質が変わる。本当は週に一回ぐらい入れると良いのだろうが、中々都合がつけれない。

2016年に往復で21分台を出していたことがあるようで、今回の29分は遅いのだが、26分台までならパンツを脱げば出そうだった。やはり早く走る時は心拍数が180を越えていたのは当然だと思う。

小澤征爾逝去関連でSNSには予想以上に多くの人が多くの録音等を所持しているのを見て、一体自分はどれぐらい所持しているかチェックしてみた。再生できないケルンでの「プッチネッラ」のVHSヴィデオ映像が最も気になるもので、その後にバーデンバーデンでのヴィーナーフィルハーモニカー指揮の発売を待っていたからだった。そこから復活祭がカラヤン財団の下でなされていたならば、小澤に新たな道が拓かれていた。それを期待するに十分な公演の中継録画だった

一月からの新聞を片付けた勢いで、先ずは小澤の録音から記憶にあるLPを取り出してみた。思ったほどなかった。しかし、この中で比較的針を下ろしているのは、ミシェル・ベロフが弾いてパリ管を振って合わせたストラヴィンスキーのピアノ選曲集、その次にヴァイオリン協奏曲かもしれない。

この中からそこで先ず針を落としたのは、ドヴォルザークの新世界交響曲である。コロナ前にムーティ指揮で聴いて初めて感動したのだが、このサンフランシスコでのデットなスタディオでの録音も悪くない。制作の狙いがはっきりと音化されている。数年前までは曲自体がそこまで実感として分かっていなかったので、今こうして改めて成果を評している。当時のフィルップス名曲録音シリーズの中では成功したものではなかろうか。

アイヴス交響曲四番とかバルトークとかも小澤にとっては十八番な曲であり、「グレリーダー」のライヴも悪いわけがない。しかしこれらではそれ以上に良い演奏もありえる。ブーレーズ指揮との比較が先ずあって、その点、ストラヴィンスキーの一部の曲などはやはり価値がある様にも思う。

一旦CD棚を覘いた後に針を下ろしてもよいと思うのは、やはりストラヴィンスキーのカプリッチョやトッカータではないかと思う。

そういう意味ではラヴェルも鳴らしてみたのだが、素晴らしい音響が捉えられてはいるのだが、当時の推薦盤全集としても今となってはやはり物足りなさもある。

集めようと思って購入したのはベルクとストラヴィンスキーとシェーンベルク、アイヴスぐらいで、その他のものは偶々中古屋さんで見つけて購入したり安売りに手を出しただけである。だからそこに何らかの価値を見出すことがあればとても得したような気持にもなる。



参照:
現代的過ぎた小澤征爾 2024-02-11 | マスメディア批評
ただの天才音楽家の死 2024-02-10 | 文化一般
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現代的過ぎた小澤征爾

2024-02-11 | マスメディア批評
フランクフルターアルゲマイネ紙の訃報記事に続いて独語圏最古の新聞ノイエズルヒャー紙からスピノラ女史の記事。

指揮台で情感的に、練習では精密に、回りには友好的で物分かりの良さと音楽の世界の舞台で最初の日本人を表した。

1960年代の販宣の写真を掲げて、当時の日本ではその鼻っ柱からも適さなかった保守的ではない様相だったとしている。ニューヨークフィルに同行して、そしてそれがNHK交響楽団での演奏拒否に遭い、小澤の余りにも現代的で自意識が高かったとの記述に先行させて書いてある。その出立が、保守的な興行界に対峙したモードだったと。そうした計算された光彩が当時の知識人を逆なでして、それでも日フィルを起用しての日生劇場の特別演奏会は大成功に終わった。

トロントのあと、サンフランシスコの交響楽団を任されると、同時にボストン交響楽団の夏のタングルウッドでバーンスタインのアイスタントをギュンター・シェラーと別け合ったとある ― その人物が一昨年のそして今年同じエンゲル指揮で再演されるミンギス作曲「エピタフ」の校訂者である。

栄光のボストン時代での成功に続いてヴィーンの歌劇場では「オネーギン」引き摺らないテムピで、大河のように迫る意味ある響きの融け合いがセンチメンタルにもなることなく分厚くもならないチャイコフスキーとして大成功をあげた。

独墺音楽の録音は他の者に任せる一方、そのブラームスは仕事部屋の自然の香りがして素晴らしく、その音楽を取り巻く難しい闘争から解放するものだった。フランス音楽は、ベリオーズ、フォーレ、ドビュシー、ラヴェルからオネガー、デテュユ―迄のレパートリーを明らかにより自身のものとしていた。そこでは万華鏡の如くキラキラして、透明な風景が開けることで、その表現の園を拓いていた。

その透明で細部に亘る音響は、浪漫派や後期浪漫派においては上手に距離を開けることから、パトスへの節度の無い極端とスポーティーなデトックスの間の中庸を見つけていて、その水彩画的な透明な響きの流れに高揚感へと誘いその全ての感情の制御が、オバートーンの輝きの中に昇華させるのは特筆されるものだった。

バルトーク、ストラヴィンスキー、シェーンベルクを取り囲む第二次楽派への興味、リゲティ「サンフランシスコポリフォニー」、ヘンツェ八番、ケージ、ミヨー、クセナキス、武満の初演が、そして「アシジの聖フランシスコ」のエポックメーキングな初演指揮。

晩年の教えたがりにも言及してあるが、ここでは日本での音楽の定着と継承を斎藤に倣ってとなっている。ヴィーナヴァルツァーのことと同時にそこの劇場が必ずしも理想的なビオトープでなかったとしていて過不足無い記事になっていて、両紙で十分で、欠けているのは指揮に関するその才能と天才性への言及のみだろうか。誰かがどこかで書き加えるだろう。
Boston Symphony Orchestra Remembers Seiji Ozawa with Remarks and Bach's Air on the G String




参照:
Er diente sieben Jahre, um selbst ein Diener der Musik zu werden, Julia Spinola, NZZ vom 9.2.2024
ただの天才音楽家の死 2024-02-10 | 文化一般
齢を重ねて立ち入る領域 2017-07-01 | 文化一般
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ただの天才音楽家の死

2024-02-10 | 文化一般
SNSでの小澤征爾死去第一報は11時30分頃だった。朝日新聞は日本時間の19時付けとなっている。先ずはオーストリアでお昼ごろに第一報が配信され出した。ドイツでは日本特派員のいるSWRも13時のニュースが第一報だった。通信社などBRなどが伝えたのはそれから後だった。フランスは比較的早かったようだ。

しかしフランクフルトアルゲマイネ新聞は15時過ぎには訃報記事を先ずはネット配信している。ヴェテランのコッホ氏が書いている。

副見出しは、多面的で直接的な舞踊的なエネルギーの指揮者、バーンスタインの熱狂とカラヤンの完璧を合一化した小澤征爾死すである。1989年のカラヤンの死後誰が頂点に立つかのメリーゴ-ラウンドとなった。スーパー指揮者で管理能力があり、カリスマ性もあり、年寄り過ぎずしかし経験豊かな指揮者として、マゼール、メータ、レヴァイン、アバド、ムーティ、ハイティンク、小澤が繰り返し上った。小澤は既に1987年にその権力闘争や情報戦に堪え切れずに脱落した一方、アバドに白羽の矢が立った ― 個人的印象からすれば、バレンボイムが動いていた。

そうした態度が、小澤への親近感を高めた。その形ややり方は、小澤は頂点の立場にあるべき存在であったが、独墺のレパートリーに縛り付けられるのを望まず、そこを諮らせようとした。それは彼の出所よりもその教育やオリエンティーリングによるものだった。それは、インド人でヴィーンでアバドと一緒にスヴァロフスキー門下として、古典派や浪漫派を学び、そしてシェーンベルクの楽派を学んだメータとは全く異なり、遠く欧州のそれから離れていたからだ。

バーンスタインの度を越えた熱狂は、指揮台上でのサーカス的なヴァイタリティ―とその多様性をものとした小澤において、日本的な自制で必ずしも結びつかなかった。その背景にカラヤンによる指導によって完璧性へ向かったとしている。

トロント後のサンフランシスコでのヒッピー文化や西海岸の多様性がその髪型や服装だけでなくてクロスオーヴァーのレパートリーに見られて、西欧の聖杯を持つでもない模倣にはしなかったとしている。70年代に彼の指揮を経験した者は、その侍と座敷わらしを併せ持ったような直截的な指揮に、画像記憶をした学究的な総譜からの耳と指揮による完璧性を勘違いした。ボストンでの長い活動のあとルーティン化は免れず。

そこでは、その舞踊的なエネルギーや唸りの自己解放までいつまでも若々しく活動したそうした指揮台上のショー的な面ともう一方ではクセナキス迄、リゲティ―や武満の初演、テューランガーリア交響曲の最初の録音、そして決して偶然ではなくてパリでの「アシジの聖フランシスコ」の初演は賞賛し尽くせない偉大な功績だった。

勿論ベルリン、ヴィーン、フランスや英国でのベルリオーズ、オネゲル、ストラヴィンスキーの模範的な演奏だけでなくて1984年からの日本での活躍の三大陸での活躍が、ヴィーンの記念碑的な「オネーギン」の上演を含めて何一つリング劇場の歴史に足跡を残さなかった原因と結論している ― 故柴田南雄が昭和時代に既に「腰を落ち着けることがなかった」とそれを指摘していた。そして小澤はただの音楽家だったと結んでいる。これは私がいつも区別している、演奏家、音楽家、芸術家の相違そのものを指している。



参照:
Er war ein Meister dreier Kontinente, GERHARD R. KOCH, FAZ vom 9.2.2024
文化会館でのリハーサル風景 2017-09-19 | マスメディア批評
達する聖フランシスコ 2023-05-29 | 音
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細やかで深みある表現

2024-02-09 | 
承前)今回の制作で最も感動したのはポルポーラのその音楽だった。恐らく母音の当て方の話しはその根源にあるかもしれない。バロック後期の長短の調のシステムが誘う色合いだ。その和声に特徴があって、声の調子が変わる様に音楽が色合いを添える。あのイタリア語の響きが変わる様に作曲されている。新聞評にもダカーポへの裁量に言及されていて、ただでも長いオペラが長くなるのだが、繰り返しにはテロップが隠される効果もあり、よりその調子の移り変わりを待ちかねて確認する作業が楽しめる — 指揮者は経済性と表現する。ヘンデルにはあの唐突感はない。なぜならばそうしたイタリア語の声の調子替えが抑々ないからだ。

なるほどこうした符牒の替えは古典派以降は厭われたから、当然のことながらカストラートも希少となった時代には、こうした作風は上質とは思われなくなったのもよく分かる。今回の批評にも嘗ての大歌手ファルネリが初演時に歌った曲をファッジョーリが歌ったのをして十年前のナンシーでのウエテルからすれば衰えていてとあり、ヴィヴラートの連なりでメロディーラインが弱くなったりとの言及もあるのだが、全体としてのその息つくことのない長い歌唱は絶賛される。個人的には、恐らく往時はもう少し声にも張りがあって、鋭さもあったと思うのだが、そうした声の力や技巧よりも声を使っての表現力という事ではずば抜けていたと感じた。

手元の資料を調べると、フランクフルトの会ではカウンターテノールのジャロウスキ―は幾度も聴いており、又知人であるショルの歌唱もオペラでも聴いている。しかし、ファッジューリほどの表現の細やかさとその深みは知らない。ファルネリの歌自体は想像するしかないのだが、映画「ファルネリ」でのイメージが浸透して仕舞った影響はあるのかもしれない。因みにあの映画の音楽を担当していたというのが今回の指導者のエマニュエル・アイムという事のようで、この世界では第一人者である。

共演した初演時に大歌手セネジーノの歌ったウリセーのベノジァンは声もあり、当時の去勢された歌手がその体格によってはとても力強い声を出していたことを想像させるに十分であった。

ファッジューリとデュオを歌った若いニュージーランド出身のバルトリともザルツブルクで共演しているノナーエの声は素晴らしかった。成程批評にある様にまだそのテキストの明瞭性など磨くべきものがあるのは当然であるが、今回の公演ではその歌声や若々しい舞台姿を、ヴェテラン感溢れるファッジョーリと組ませたのは最大のキャスティングの勝利であった。

批評にある様にアイム指揮のアストレー楽団の演奏がモノトーンになる傾向があるとしてもやはり批評の様にその指揮は見事であって、リズム的な面白さとその和声の響きが全体の中でのテムポ取りと共に舞台と一体になる。まさしくバロック音楽劇場の指揮として、アーノンクールやヤコブス、ガーディナーなど様々聴いてきたがこれ程のバロック効果を上げる指揮者は知らず恐らくラモー周辺を得意とするクリスティーとはレパートリーも違って、代表的な指揮者になった。年齢も60歳過ぎには見えなくて、知って吃驚した。エンゲルもパリ近郊のバロック楽団を振っているとは知っているが、これだけの専門的な見識を持たずにはやはりバロック音楽の音楽劇場指揮も容易ならざるというのを実感させてくれた。餅は餅屋である。
OPÉRA | POLIFEMO | Bande-annonce




参照:
乾かないレチタティ―ヴ 2024-02-05 | 音
一先ずガラガラの席を 2022-11-02 | 雑感 
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サンダル映画制作現場

2024-02-08 | 文化一般
承前)月曜日の初日の評が出てきている。フィガロ紙のものとこちらの地元のルートヴィヒスハーフェンとシュヴァルツヴァルトの三紙のネット版は無料では読めない。しかしその独紙で書いていることはその著者からほぼ想像がつく。先ずは無料で読めるフランスのネット評を読む。

演出に関して、まだプログラムを読み切っていないが、またレクチャーにも出かけなかったのだが、そこに上手に纏められている。つまり、映画仕掛けとした背景が50年代にフランスとの共同制作などでイタリアのB級映画とされたサンダル映画だと説明されている。

これは実はよく考えてみないとよく分からなかった。なぜならばその面白さは、例えば「ベンハー」とかの大スペクトラル映画の方をどうしてもイメージしてしまうとこの所謂カトーン映画と繋がらなく、今回の演出の映画ポスター状の幕にも繋がらないからだ。

なるほどここではオペラセーリアとされるバロック期のギリシャの神々が舞台に登場するのだが、それがまたクレオパトラの映画とも繋がりにくい。しかし、会場から若い学生からも笑いを取った南の島のタヒチかどこかの妖精のムームーの踊りの一コマで、この説明がとてもよく繋がった。

例えばそれは日本では60年代に白黒で制作されて、70年代でもお茶の間のカラーTVに映されていた再放送枠の映画にも相当する。「モスラ」とかでザピーナッツが草履履きで踊っていて、神を称えて生贄踊りをする時の状況であり、そういう映画の元となっているものを指す。

勿論ここで、妖精だけでなくてギリシャ神話の一つ目の怪物などが火口の上に首を出して、その麓で小さな人間が仰ぎ見るというような舞台を作る大枠として、B級映画の撮影シーンが舞台の上で繰り広げられるというコンセプトとなっている。

音楽劇場上演である事には変わらないのだが、一体今時この300年前に二大カストラートの歌手とソプラノ歌手を目玉にしてのロンドンでの上演をどのように三時間の間退屈させることもなく、その音楽的内容に注目させるかという演出上の課題が解決されることになる。この成果は、そこに集った1100人ほどの聴衆の反応にその成功として証明されることになる。

まさか、こうしたオペラセーリアをして、一つ目怪物の真実性が描かれていないとする聴衆は流石にいないであろう。そもそもギリシャ神話、ここではホメロスの作品であるのだが、それを如何に1730年代に世界の大都会ロンドンで舞台化したかということでもある。

ここで興味深いのが、その音楽的な解決法でもあるのだが、新たに劇場から出されたヴィデオで、指揮者のエマニュエル・アイムが語っていて、ライヴァルであったヘンデルとの最大の相違はその歌唱への作曲にあり、それも母音の置き方であり、そして当時の多種のイタリア楽派の中でもナポリ派のそれだと見ているということである。これはこの作品でのそしてこの制作での最大の成功点の核心がそこにあると感じさせた。(続く
OPÉRA | POLIFEMO | Entretien avec Emmanuelle Haïm et Bruno Ravella

モスラの歌 ザ・ピーナッツ 1961年【歌詞・翻訳付】




参照:
Strasbourg : première française pour Polifemo de Porpora, Michel Thomé, 7.2.2024
エントロピー制御の作曲 2023-12-26 | 音
カウンターテノール?! 2017-12-31 | 文化一般
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劇場に漂う古の響き

2024-02-07 | 文化一般
新制作ポルポーラ作曲「ポリフェーモ」フランス初演の批評はまだ出ていない。そしてフランス語の資料にも未だ目を通せていないのだが、イムプレッションを書き留めておきたい。

残り券でパスしているうちに悪い席に手を付けてしまった。劇場観劇では平土間が嫌いなので、出来るだけ上級市民の様にバルコンに座りたいが、更にその上から廉く管弦楽奈落を覗き込んで管弦楽の音を聴くのが好きである。その背景には、座付き管弦楽団の下手な演奏は視覚が欠けて音が上から跳ね帰返って来るのを聴くとなると何が何だか分からなくなる、それが嫌だからである。

その意味からは最初の音からして見事であり、平土間でも最も悪い席のバルコンの屋根の下で劇場に広がる音も聴けないのであるが、1100席を超える様ではあるが劇場の小ささもあって、それ程酷い音響ではなく明晰さがあった。恐らく楽器編成規模以上に指揮者エマニュエル・エイム指導のリルの劇場を本拠とする手兵ルコンセールダストレーの腕に依る所も多い。

勿論平土間の最大の強みは舞台に近ければその歌声を真っ直ぐと聴くことが可能なので上階よりもはっきりとその言葉を聴きとることが可能となる。今回はイタリア語である。しかし、平土間はA席から最前列のC席までに加えてD席が取られている。因みに最終列が19列で最前の1列同様にC席にD席が並ぶ。その差異は目の前にバルコンを支える鉄の柱があるかどうかの違いなのだ。

流石に条件は悪くても最前列ならば音が違うが、最後列や庇の下で85ユーロ払うならば61ユーロで十分である。そして幾分予想していた様に両サイドが空いた。一番端の補助席を購入した叔母さんが隣に移ったので、勿論私も一つ横のC席に移った。この辺りは後先で一悶着おきそうな感じである。

当然のことながらいざとなれば後ろに立っても考えていたので、ある程度は見込みがあった。そして、補助席のおばさんは字幕を庇の縁を下から覗くようにしてフランス語を読む。そしてその下にドイツ語が書いてあって、明らかに私は有利であった。ということで、偶然も重なりながら、比較的満足に行く席で鑑賞したことになる。

しかしここでもやはり庇の下には半額以下の若い人や通が集まっていて、明らかに天井桟敷の雰囲気があった。どこの劇場も似たようなものである。

そしてその出来栄えは、恐らく今シーズンフランスで上演される音楽劇場で屈指のものだったことは間違いなかった。この水準で、公演のことを忘れていなかったならば、倍の120ユーロぐらいは出しても決して悪いものではなかった。映像化されることを先ずは期待したいのだが、今後の反響の広がりなども注視したいとは思っている。制作自体がリルの劇場との共同制作という事なので、その予定もあるのかもしれない。

この劇場ではプフィッツナーやフルトヴェングラー、クレムペラーやスツェルなどが立て続けに音楽監督だったようなので、楽団の質にもよるがその往年の響きを思い描けることが出来た。(続く



参照:
ストラスブールの市街地 2024-02-06 | 生活
今後の可能性を探る 2024-02-04 | 生活
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ストラスブールの市街地

2024-02-06 | 生活
久しぶりにストラスブールの市内に入った。前回は20年ほど前だった可能性すらある。コルマーとかは頻繁に出かけてもより大きな都市の市街に入るのは車では億劫だ。調べると人口は27万人ほどしかいないので、マンハイムの30万に及ばず隣のルートヴィヒスハーフェンの17万と加算すると50万に近い大都市圏ではない。しかし、可也人が多い感じがして、結構都会だと感じた。

やはりグランデーストのバーリェン行政圏だけでなくて、EU議会などがある為か。フランスでは七つ目に大きな都市らしい。そのように今回のオペラ劇場の駐車場へのアクセスは初めてで、あんな運河に架かる小橋を渡って小路を走るのも初めてだった。それもコルマーあたりだと明らかに観光歩行者天国のようになるのだが、街のトラムの横を走ったりでなにか昔の京都市内の様な感じであり、まだバーゼルあたりの方がドイツ語圏で道が分かりやすい。

バスラインに自転車があってと明らかにパリなどよりも細々している。ベルリンのようなスピード感はないのだが、小路の小ささと歪み方はフランス独特で、ボルドーなどよりも細々感がある。特に暗くなってから入るととても見にくく、信号無視で人が歩いているのでこれまた厄介だ。ああした公共の施設の駐車場を目指さない限り普通は停めない小路の奥にあり、ナヴィがあり乍らリエントリーした。

しかし慣れて仕舞えば近所にカフェーなどもあり使えるのは分かったが、少なくとも駐車料金は2.5ユーロではなくて4ユーロ取られたのは、公演までまだ一時間以上の時間があったからだろう。通常料金は街中だけに高いようだ。

プログラムの10ユーロはオペラ公演で歌詞も入っているので良しとして、合わせて14ユーロ支払うことになるから、結局バーデンバーデンの祝祭劇場と変わらなかった。敢えていえば不愉快なのは入り口でセキュリティーチェックがあってと、如何にも爆破テロなどが多い警察国家フランスである。ミュンヘンでも事件中でも一度も経験したことがない。

途上で買い物も給油もしたので、16時に出て18時半ごろの車庫入れ、19時30分開場、20時開演、25分間の休憩、23時30分駐車場で、走行時間1時間18分ほどで帰宅は24時56分となった。走行距離は往復で250km程になり、フランクフルトと同程度であるがスピードが遅いので走行時間は夜中でもそれぐらい掛かる。シュトッツガルトよりは近く、フランクフルトよりも慣れればお気楽というぐらいか。

オペラの内容は改めて記すとして、結局外出時間は9時間程だった。やはり疲れた。その後ロレーヌのクシェなどを食してブルゴーニュワインを飲み干して寝入ったのは未明3時に近かった。

興味深いのは途上のいつものスーパーから50キロ以上あっても30分ほどで着くとあって、バーデンバーデンとあまり変わらないのは、やはり高速道路を走るからであろうが、やはり街中は慣れないと渋滞の中で道を間違って時間が掛かる。しかしコルマー迄入るとなると結局ストラスブール近辺の渋滞に巻き込まれるのである。

はっきり言えるのは、今回のようなフランスで頂点の公演があれば、幾らでも行きたいのだが、次は何時になるやらと思うだけである。特別な機会だったと思う。



参照:
乾かないレチタティ―ヴ 2024-02-05 | 音
フランケンタール窯の興亡 2005-08-15 | 文化一般
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乾かないレチタティ―ヴ

2024-02-05 | 
オペラセーリア「ポリフェーモ」のお勉強をしたい。残された時間は殆どないのだが、少なくとも2021年にバイロイトのバロックフェスティヴァルで演奏された演目で、芸術監督のツェンチッチとレジュネヴァらで歌われていた作品と知って、少し馴染みを感じた。前者は初演時にセネジーノが請け負ったウリセーを歌う、後者はクッツォーニが担った役の「ミトリダーテ」をガラテアを歌う。

作曲者ポルポーラは、長くヘンデルのライヴァルとして有名であったが、少なくとも今世紀に入ってからはそれ以上に演奏されることが多くなった作曲家で、大きな切っ掛けは去勢のカストラート歌手のファルネリなどの映画成功も大きかった。

同性愛者の友人などが一生懸命になっているのは知っていたが、その音楽的な興味はやはり演奏回数が増えるようになってからの関心が大きい。要するにロンドンの市場でヘンデルの試みを阻害するだけのポピュラリティーに溢れる作曲家という印象が強かった。

即ち歌手の力に依る所が大きいということになる。つまり上のフェスティヴァルでの上演がそうであったように、演奏会形式ではやはり判断しかねるというのが率直な感想だ。なるほど昨年の復活祭で今回と同じ指揮エイムの指導で演奏されたオペラには社会的に出来なかった作品ならば、他の選択はないのだが、その筋が結構複雑であって、そこのドラマテュルギーが発生するべく作曲となると異なる。

ポルポ―ラのオペラはシュヴェツィンゲンで出演者の誘われてシュヴェツィンゲンのナポリはオペラ上演で1730年作「ミトリダーテ」を観たことがある。その点で今回のものはその延長線上にあり乍らよりロンドンの状況に合わせた楽器編成なども立派なものである。

今回の上演もその指揮と合奏団ゆえに出かけるのだが、なんと言っても初演ではファルネリが担ったアシ役をフランコ・ファッジョーリが歌うというのがなによりもの目玉なのだろう。ファッジョーリの歌はフランクフルトのバッハの会で聴いている筈だが、資料を調べないと思い出せない。

実はヘンデルのオペラではそれ程感心したことはなく、それ程好きではないのである。それに比較してポルポーラがどうかということになる。興味深いのは恐らくロンドンという先端市場においてのことゆえなのかもしれないが、半世紀後のモーツァルトの様に伴奏の無いような乾いたレチタチーヴではなくて伴奏が活躍するというのがとても興味深い。

今迄このことに留意したことが無くて、通奏低音のみの伴奏によるそれがより言葉の意味やニュアンスを其の儘伝えるとされるのだが、その選択は如何にということにもなる。その先にはシェーンベルクでの様に喋る歌が準備されていて、より話し言葉に近づく。

余談ながらモーツァルトはジンクシュピールと呼ばれる芝居の台詞と音楽を合わせたドイツの歌劇を創作していることも付け加えておかなければいけないだろう。

勿論ポルポーラがロンドンで英語による芝居を上演するよりも、こうした伴奏されたレチタティーヴの方が容易に創作できたのは想像し易い。



参照:
乾かないレチタィ―ヴ 2017-12-31 | 文化一般
認知されるアレゴリー 2023-04-09 | 文学・思想
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今後の可能性を探る

2024-02-04 | 生活
昨年の電気量清算が来た。11月27日計測根拠で差し引き使用量は1944kWhとなった。つまりここに実測値として含まれているのは、2022年12月からの冬籠り体制での電気使用量で、2023年の冬の冬籠り体制無しの使用料は含まれていない。LED化を2023年2月に行ったので、それ以前の3か月分の光料が含まれている。

最終的に2022年の1929kWhと2017年の1707kWhを最小に増えている。それ以外のところで増えていたのは間違いない。

考えられるのはオーヴンとアイロンと洗濯機だろうか。それ以外で増えそうなものは殆どない。コンロと冷蔵庫を交換しない限り好転は見込めなくなった。1.5人家庭平均なので事務所兼用としては許容範囲である。前払いが月々1ユーロ上がるが、支払金額の総計は、差し引き殆んど現状維持である。先ずはこれが重要だ。

すっかり忘れていたストラスブルクのオペラ公演の残券があったので、とても悪い席で価格的には合わないが、交通費と駐車料でバーデンバーデンと殆ど変わらないので、出かけようかと思う。他の日程にとかもう少し安くとかも考えたのだが、例えばコルマーによりよい席で安く出かけようと思っても、来月になれば又状況が変わっていて、また忙しそうなので、先ずは出かけておこうかと思う。やはり、フランクフルトに行くのと変わらないところで、価値のある催し物があれば行かざるを得ない。ルクセムブルクの演奏会の様に特別な音響があれば二時間走るのはやぶさかではないが、催し物にどこ迄遠方に出かけるかはそれなりの値踏みをしなければいけない。

通常ストラスブルクに迄行く価値のある催し物はなく、今回のリルの劇場との共同制作は価値がある。パリやリヨンに迄出かける催し物などは殆どないわけであるが、また先月エンゲル指揮の新制作があったようにジュネーヴとなると同じように遠いのでその価値は殆どない。簡単に6時間ぐらいで行って帰って来れるとなるとやはり違う。因みにここワイン街道からであると、シュトッツガルトの方がストラスブルクよりも遠く、交通量も多いので、所要時間も長い。

勿論ストラスブルクは都会なので買い物もできるのだが、今迄でも何回も出かけていてそれ程の利点は見つからなかった。今回も往路でいつものスーパーに立ち寄って買い物をして、アイスボックスでストラスブルクまで運ぶ方が有利ではないかと思っている。

精々、サヴォワのチーズと海の幸と野菜などいつもの夜食類ではないかとも思う。次回南へと車を走らせるのは3月のレーラッハでのヒッチコック無声映画会であって、フランスでの買い物は一月のベルリン行の前に続いてとなる。

一月に一度ぐらい立ち寄るのは決して悪くはない。ブルゴーニュの開けやすいワインも一本日曜日に開けても、もう一本なにかを補填できればいいようにも思う。当分ミュンヘンにも出かける予定もなく、もう少しフランスで買い物をするのも価格も含めて悪くはないだろう。

お試しで悪い席でも機会があれば出かけておくとまた今後違う可能性が増えるかもしれないという事だ。



参照:
今年度目標は2%削減 2023-01-30 | 生活
一昨年より昨年より今年 2022-01-31 | 生活
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マトリューシュカ交響曲

2024-02-03 | 
先週土曜日の実況生中継の映像がアーカイヴされた。週末にちらちらと確認してみたい。先ずは、拍手など土曜日の内容を確認する作業をした。なによりも最後の拍手で三日間の定期公演の中でただ一度指揮者を呼び返した時だった。そこはアーカイヴからカットされていた。想像するにああした呼び返しはいつものそれとは違っていて、恐らく中継が終わっていたものと想像する -— フェードアウトは観たことがある。

そして自身で映したヴィデオを確認すると最初から一人頑張っていた叔母さんに深く礼をしている。如何にその拍手を確認していたかがよく分かり、それを顔を合わせながら手伝って上げたのも私だった。ミュンヘンでのそうしたサークルを思い起こした。

実に定期公演の三晩目に初めて明らかに演奏実践が創作内容に嵌まったのだった。詳細はアーカイヴを流しながら再確認してみたいと思うのだが、前半の室内交響曲一番も初日のそれに比較してもただでさえ粒よりに演奏するのが難しいソロ演奏をよりリスクを冒し乱れを顧みずに演奏させたのは大合奏の時には聴かれないものだ。

まさしくこの楽曲が交響曲であり乍らなぜ室内楽編成となっているかのその本質を示した。こうした激しさによって初めて今や大交響楽団の演奏では失われたベートーヴェンの交響曲のその本質を超えるものが示されたことになる。大雑把な言い方をすれば、嘗ての楽聖の交響曲は現在はシェーンベルクの交響曲で初めて実感されると考えてもよい。

前半のこの交響曲においてその作品が漸く初めて正しく演奏されたことになる。ここで、中継にあったキリル・ペトレンコへのインタヴューを初めて観る。そこではマトリュシュカのような構造とされているものとその和声が音色ではなく構造として使われていることが語られる。四度の音程に関して二度を対峙させる。更にブラームスを参考として言及している。

そして後半の「ヤコブの梯子」についての言及となるのだが、その音楽の核に迫る。つまり、全曲はユーモア溢れる「変顔」に溢れているというのである。しかしそれはグロテスクではない。そして和声に関しても、室内交響曲二番を容易な回帰とはしていない。

そこで、「モーゼとアロン」とこの「ヤコブの梯子」の宗教的な曲において何故完成されずに、しかし最後まで試み続けられたかの質問に答える。とても難しい問いかけであるがとしながらも、そして自らのテキストは完成していることをして、明確に回答している。

それは、テキスト自体がプロテスタントからの帰宗前に自らの手で書かれ、キリスト教的であったからとしている。だから誠実な作曲を完遂出来なかったとなる。これ程明白な回答はない。

もう暫くすると、2025年復活祭のプログラムが発表される。先ず、「モーゼとアロン」がなされるだろう。そして今回の公演はその為の予行練習だったと思う。演出は、昨年の「影のない女」と同じリディア・シュタイヤーではないかと思っている。

余談ながら、ザルツブルク復活祭のバッハラー総裁がうろうろしていた。演奏会に来たというよりも歌手陣を含めての打ち合わせに来ていたような感じだった。
Applaus / Schönberg: Kammersymphonie Nr.1 - Die Jakobsleiter




参照:
日帰り旅行の空気圧 2024-01-12 | 雑感
第二次ベルリン紀行準備 2024-01-22 | 生活
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拡大してみる様子

2024-02-02 | 雑感
昨秋からタブレットのスペースが一杯になっていた。出来る限りの清掃などを心掛けていてもここ暫くは98%迄が使用済みになっていた。不必要そうなアプリケーションの消去したりして、出来ればSDカードの方へと領域を移したいのだが時間がなかった。騙し騙し使ってきたのだが、どうしても作動が遅くなったり、不安定になるので時間の問題だと思っている。しかし今日になって突然使用済み容量が85%へと10%以上落ちて27GBとなっている。

原因は分からないのだが、再起動と関連している可能性がある。再起動は立ち上げプログラムが一部破損しているのであまりしないようになっているのだが、落ちたりしたときは再起動させていた。しかし今回の様に急激に使える容量が増えることはなかった。具体的にはまだ解明できていないのだが、動きは改善されている。

パンコウ宿泊での想い出は、そこで泊まった離れの一軒家のペレットストーヴだ。最初からブッキングコムのサイトでも話題となっていたので、興味はあっても夜中はどうするのか火が消えたらどうなるのかとか不明な点はあった。実際には二回焚くと一度は灰を出さないといけないので、オーナー自らがやるというのだ。そこで、二時間づつ何時に火を点けるかの打ち合わせが必要となって、時間を設定する。

こちらも夜に出かけて朝遅く始動するので、22時から24時、8時から10時までとかにして、灰掃除は出かけて行ったときにやっておいて貰った。人によっては面倒かもしれないが、火を焚くだけの温かさもあり価値もあった。そして最後に温水ヒーターもついていることに気が付いた。要するに補助的なアトラクションであるので、経済性を訊ねてみた。

ペレットは年に一度数百ユーロでパレット分購入しておけば用を成すということで、それは安上がりだという。灰の掃除の面倒だけだろうか。

そこから、帰宅時の燃料のことがあったので、安いところを話していると、ここ数年ベルリンで車に燃料を入れたことがないと答えた。ポーランドまで行くというので、ベルリンは遠い筈だと思うと、嫁さんの息子がゲルリッツに住んでいるので、そこに行くたびに満タンにして余分にタンクで130リットル持ち帰えれば勘定が合うというのである。その他にも衣服とか日常品を購入してくるという事だった。しかし食料品などはあまり信用していないというので、こちらはフランスへとチーズや海産物などを購入しに行くと話した。

なんでもないことであるが、当然ながら西ドイツと東ドイツでは生活感も当然のことながら違うということで、隣国ポーランドはチェコやハンガリーなどと並んで旧ヴァル者ヴァパックでは経済的に優等生であったのだが、まだまだ貨幣が統一されるような状況ではない。

東ドイツでさえ特別な援助体制をそろそろ打ち切りにという話しが出てもまだまだ止めることにはならずに、引き続き税金が徴収されてそこに投入されている。将来への投資である事には変わらず、EUの東進拡大はその同じ範疇にある。



参照:
商品テストの相対的価値 2013-05-16 | 雑感
パンコウの金魚鉢 2024-01-31 | アウトドーア・環境
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信用払いカードの味

2024-02-01 | 料理
車中のラディオは難民への支給カードについて伝えていた。難民指定された人々はドイツ連邦共和国から支給金を受けるのだが、その扱いを仕送りなどに消えてしまいかねない現金から支払いカードにするというものだ。同時に現金支給の煩雑さを避ける意味合いもある。しかし難民が支給を其の儘故郷の親類などに送ることが出来なくなれば不正な難民への波も抑えることが出来るというものだ。

このカードは通常のECカードの様に買い物等に使えるのだが、送金などは出来ないようになっていて、トトロットも買えないようになっているという。それでも物品を購入して売れば現金化できるという穴もあるのだが、それでも抑止力はあるというものだ。

久しぶりのAfDの首長誕生などで連邦内でも外国人問題が久しぶりに沸き立っているのだが、嘗ての労働者の間での不満の矛先というよりもよりイデオロギー的なものになっていて、如何にも皮相的な問題でしかなく、場合によってはAfDの崩壊へと繋がる可能性もあるだろう。

ベルリンのことは沢山語ることがあるのだが、なによりも演奏会についても生中継されたアーカイヴを含めてまだこれからであるが、エルツ地方での食事もとても良かった。以前は旅行と言えば外食の楽しみだったのだが、そうした楽しみは殆ど無くなった。理由は夜の催し物絡みで出かけるので、ゆっくり外食を摂る時間も機会もないからだ。

すると今回の様に前乗りで一泊するのは貴重な機会であり、厳冬期でなければ一日途上で食料を車に入れておくのも不可能になる。それゆえにこうして機会があるとやはり楽しみとなる。

宿でネットで早速調べると水曜日に開いているところは限られていたのだが、あれだけの田舎で最高に評価されている店が開いていたので、早速車で出かけた。宿を探す時に既に見かけた水道塔の近くだったので距離感もあって、全く問題がなかった。

車で通ると店の前に数人が立っていたので席が空いているかどうかが訝れたのだが、時刻も18時ごろでまだ早く、座れた。ビールは半リトッルのピルツナー4.1ユーロで二杯、メインに16.6ユーロのベルリン風子牛のレーバーに選択して3.5ユーロのベルン風レスティとした。ソースが付くかどうかが理由だったが、熱々の方が良いということで揚げ物にした。玉葱のしっとり感とこれがまた最高に合って、その甘みが旨味となっていた。

そして結構入っていた店に来ている地元のおばさんとかの話しを聞いていると興味深かった。ベルリンからもライプチッヒから結構遠い田舎であるのだが、それ程田舎臭い感じではなかったのも少し驚きで、やはり街自体が小さいながらもそれなりに襟を正している感じがあって、逆にワイン街道の小さな村で酔いだくれで奇声をあげているのとは少し違う。レストランとワイン酒場の違いであろうか。

クレディットカードでも決算可能だったので28ユーロの所を32ユーロ支払っても大満足であった。物価が安いのは当然か、西ドイツなら10ユーロ高くなっただろう。お味も全て大満足。



参照:
赤ワインにレバーとザウワークラウト 2004-11-20 | 料理
蛇が逃れる所-モーゼとアロン(2) 2005-05-03 | 音
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