「星野、目をつぶって。」より
■ マンガは誰に向けて書かれるのか ■
「マンガやアニメなんて下らない」と言う大人は、マンガやアニメが誰に向けて発信されているかを考えていない場合が多い。例えば、本日紹介する『星野、目をつぶって。』は、少年マガジンに2016年から2018年まで連載されたラブコメ作品ですが、対象は明らかに同年代の中高生。
思春期特有の「悩み」を誰もが抱えながら、それでも学校という集団生活の中で、どうにか自分と他人のバランスを取りながら成長していく高校生達の物語は、同時代の若者の共感を呼ぶ作品ですが、これを50代、60代の大人が読んでも「ああ、そんな時代もあったな・・・」程度の感想しか得られないでしょう。
だからと言ってマンガが下らないものだとは私は決して思わない。いえ、むしろ、少年少女の心を失ってしまった事に悲しみすら覚える。(私はこの作品に胸キュンでしたが・・・)
「絵本」を下らないと言う大人は居ないのに、マンガやラノベ、アニメは何故「下らない」という評価をされるのか・・・・。一般的にはマンガやラノベは小説の下位互換、アニメは実写映画の下位互換と考えられているからだと思います。
しかし、現代の子供達はラノベすら面倒だと言って読みませんから、この様な子供達に何かを伝える手段としては小説は全く機能しません。「読んでもらえない」のだから・・・。だからマンガやアニメが有効ですが、何を伝えるのかという姿勢は問われます。
読者の欲する「異世界に行ってオレ最強」などというテーマにはあまり価値を認めませんが、『星野、目をつぶって。』が提示する「本当の自分とは何?」というテーマは思春期の子供達には永遠のテーマであり、マンガだからこそ、彼らが読み、そして何かを伝えられる。
誰かに読んで欲しい、誰かに何かを伝えたいならば、その時代やターゲットにあった手法を用いなければ無意味です。
■ 青春特有の自己否定と、その裏返しの「人の役に立ちたい」という強迫観念 ■
『星野、目をつぶって。』は、冴えない素顔をメイクで隠して「イケてる」グループで高校生活を満喫する星野 海咲(ほしの みさき)と、友達も居ない、そして他人をツマラナイ奴らと軽蔑している美術部員の小早川 瑠依(こばやかわ るい)のラブコメです。
星野はイジメられた経験から、メークをして遠くの中学に通い、そこで新な自分と友達作りに成功します。一方、小学校の頃から孤立しがちな小早川は、友人へのクラスメイトのイジメを機に不登校のまま小学校を卒業し、中学、高校とボッチ街道をまっしぐら。
星野のメイクは星野の幼馴染の美術教師が施したものですが、その役割を美術教師は小早川に押し付ける。二人にとって有益だと考えたからです。充実した高校生活を送りながらもメイクの下に本当の自分を隠した星野と、充実した高校生活に密かに憧れながらも、それが出来ない自分を隠す事も無い小早川、一見相反しているかに見える彼らですが、共通しているのは「誰の役に立ちたい」という「自己否定が生み出す強迫観念」。
星野は困った人を見ると後先考えずに行動するし、それを止めようとする小早川も結局は自分を犠牲にしても相手を助けてしまう。そんな二人の周囲には、いつしか仲間が出来、小早川に思いを寄せる女子も現れます。
ここまでは一般的なラブコメと大差ありませんが、高校2年生の彼らは、助けた方も、助けられた方も、問題もコンプレックスも決して解決した訳では無い。内に抱えた問題を共有するだけで、彼らは「変わる事は出来ない」。
実は人間なんてものは、どんなに器用に自分を取り繕っても、本質は思春期の頃も中年になってもあまあり変わらない。変わらない事にある種の諦めを抱く時、人は「大人になる」のかも知れません。しかし、高校2年の彼らにとっては「変わりたいのに変われない」のは大いに悩みであり、日々変わろうと葛藤する。そして少しずつ、自分の本当の姿を見出して行く。
主人公達が助けた友人達が、もがきながらも何者かになろうとする一方で、星野は変化を恐れて前に進めない。素顔の自分と、メイクをした自分を統合する事が出来ずに、自分の本質をどんどん見失って行く。一方、小早川は自分の殻を破って目覚ましい成長を遂げる一方で、それが本当の自分なのかに悩みを抱く様になる。そんな二人の関係は、いつしか相互依存になり・・・。
掲載誌の『少年マガジン』には『聲の形』という聾唖の少女を巡る虐めと許しの素晴らしい作品が有りますが、『星野、目をつぶって。』は、もう少し一般的な高校生の現代的な悩みを軸に、序盤はコメディータッチで物語が進行します。しかし、中盤以降は、かなり濃密な群像劇へと変化して行きます。葛藤と軋轢の中で彼らは問題解決の尻尾を掴んで行く。
「子供向け」の作品と決して侮ってはいけない。私達が大人になる時に「誤魔化した」何かを、もう一度目の前に突き付けられる・・そんな作品だと私は思っています。
■『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』と『星野、目をつぶって。』の違い ■
物語の構造は、超ネガティブな主人公が無理やり「奉仕部」に加入させられて、生徒のお悩み解決に奔走するラノベ作品の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』に良く似ています・・・と言うかこの作品が現代の若者達に与えた影響は、夏目漱石が明治の若者に与えた影響に等しいものがある。
ただ『星野、目をつぶって。』は、『やはり俺の・・・』のその先、さらには『聲の形』のその先の何かを模索している。作者は連載の最後を「或る種のバットエンド」で終わらせているが(単行本のエピローグでフォローはしているが・・・)、人は簡単には変れない事を強調したかった様だ。
自分との付き合い方、他人との付き合い方を調整する事を覚えながら、人は大人になって行く・・・。ある種の誤魔化しではあるが、30歳にもなれば、本当の自分がどうだとか考える事も無くなる。
■ 『夜のピクニック』へのオマージュ ■
『星野、目をつぶって。』のクライマクスは、2昼夜を掛けて80kmを歩き通す学校イベントだが、このシーンは恩田陸の『夜のピクニック』を模している。歩き通して意識すらも半ば混濁する中で、共闘意識が芽生え、他人との境界が曖昧になる・・・ナイトハイクイベントの心理効果を『夜のピクニック』は上手に描います。
一方、『星野、目をつぶって。』は、長く伸びた隊列の前後の移動のダイナミズムを利用して物語を進めて行く。マンガには動きが必要なので、「同じメンバーと歩く」というシーンの連続ではマンガ的には単調になるから。隊列の前後を移動する事で、今まで関わった友人達とに関係に決着を付けて行くという発想は面白いのだけれど、少々慌ただしく散漫な印象を持つ。
『夜のピクニック』をマンガ的に表現したいという作者の意気込みは否定しないが、むしろ主人公の二人を固定して、友人達がすれ違って行く様な演出の方が良かったかも知れません。
■ 50才、60才が読めるか? ■
私はデザイナーとう仕事柄、若者の感性に貪欲である事を自分に義務付けていますが、一般的な同年代の男性、或いは女性がこの作品に共感出来るか非常に興味が有ります。
「オレはまだオヤジ(或いはオバサン)じゃないぜ」という青春まっただ中の方にはお勧めの漫画です。