『アリスと六蔵』より
■ 近代化と実存主義の登場 ■
「実存主義哲学」などというと堅苦しいけれど、「自分とは何か」という問いは現代人にとっては大切な問題です。
自我が確立する頃にちょっと賢い若者ならば、誰でも考えるであろう「自分とは何か」という問題。「オヤジとオフクロがチョメチョメしたから今の自分が在るのだけれど、ではオヤジとオフクロが出会わなければ自分は存在しなかった・・・」、この程度の思考は誰でもするでしょう。
哲学は「世界とは何か」を問う学門でしたが、近代になって科学が発達すると世界の在りようは一変します。「神が創造した世界」がダーヴィンの進化論によって「自然の気まぐれと淘汰によって出来た世界」になってしまってのですから、「神の創りし世界の有り様を追求する」旧来の哲学はその根幹を大きく揺さぶられます。
「神は死んだ」と言ったのはニーチェですが、神と個人の関係を再構築しようとしたキルケゴールも、近代科学の影響を無視する事は出来ませんでした。サルトルに代表される「実存主義」と呼ばれる哲学は、近代化によって人々が二度に渡る大戦を経験した事の反省として「国民国家」と「個人」の関係を再定義する過程で注目を集めますが、実はニーチェやキルケゴールやハイデッカーなどにその起源を求める事が出来ます。
「実存主義」とは「神との繋がり」を絶たれた人々が、「神の存在無くして自分を確立する」為の思考実験であったとも言えます。これを現代的に捉えるならば「神=社会」となるのかも知れません。
近代化は神を殺しただけでは無く、旧来の「帰属集団」をも崩壊させます。日本では「個人と神との契約」は希薄ですが、「ムラ社会と個人の契約」は確固として存在しました。それは「掟」として個人を規制すると同時に、「個人の存在理由」を決定するものでもありました。「ムラの為に存在する個人」という関係は「ムラに帰属する個人」という存在を確固なものにしていたのです。
しかし、近代化はムラ社会は解体し、都会という「帰属性の希薄」な社会を出現させます。それでもバブルの崩壊頃までは「会社」という単位がムラの代替として機能し、多くの人は「自分とは何か」などと問う事も無く、妄信的に「会社というムラ」に帰属して生きて来ました。
アイデンティティーの崩壊に直面していたのは家庭に孤立してしまった主婦だったのかも知れません。しかし主婦は主婦で、家庭を最小単位のムラとして再定義し、「夫と子供に奉仕する」事で、アイデンティティーの崩壊を食い止めました。
■ 構造主義の登場 ■
「実存主義」は古い共同体の崩壊によって個人を再定義する為の生まれた哲学ですが、「構造主義」が台頭する事によって「古い哲学」或いは「哲学未満」的な位置づけに追いやられます。
構造主義は「実存主義が肥大化してしまった個人を解体し無化」する事で社会と個人を再定義しようとしたと私は捉えています。個人の枠に閉じこもってしまった哲学を、再び「世界とは何か」という問いかけのフィールドに引き戻そうとしたのだと・・。
但し、そこには既に世界を創りし神は不在だったので、「世界を形作る不変のルール」を見つけようとした。その方法論はソシュールの言語学にも見られる様に、一旦現実をバラバラに分解し、社会を形作る基本構造を見つけた上で、それがどの様に構成される事で社会が形成されるのかをシミュレートしようとした。これは近代科学の手法と同等です。
「実存主義」は個人を肥大化する事でニーチェの超人や、その劣化版コピーである「かもめのジョナサン」を生み出し、さらには「涼宮ハルヒ」を生み出しますが、一方で現代人は自分の狭い六畳間を一歩出れば、超人でも何でも無い70億人の内の一人である事を痛感させられます。
「構造主値」は、徹底的な相対化によって「自分とは70億人の内の一人」である事を再定義しているに過ぎず、現代の個人を救済する哲学には成り得ません。
現代人はこの様に「個人と世界の関係の危機」の上に存在していすが、多くの人はこれを「人間関係は難しい」とか「社会で生きるのは難しい」という概念で認識しています。(ナンチャッテ・・・)
■ アニメはいつも哲学的だった ■
アニメや漫画というジャンルは、実は昔から意外に結構哲学的です。
そのルーツは手塚治に求める事が出来ますが『鉄腕アトム』はロボットやAIのアイデンティティを問うものとしてアシモフなど黄金期のSF小説に共通するテーマを秘めていますし、『火の鳥』などは「実存主義の思考実験の場」と定義する事も出来ます。
手塚治が切り開いた世界は『風の谷のナウシカ』や『機動戦士ガンダム』や『攻殻機動隊』や『ボトムス』などのアニメや漫画に引き継がれます。「世界と個人の関係」を描いた作品では永井豪の『手天童子』も忘れる事が出来ません。世界は精神を病んだ母親の夢だった・・・これはフィリップ・K・ディック的な実存主義で、その流れは『エヴァンゲリオン』など「世界系」と呼ばれるアニメや漫画やラノベに引き継がれています。
■ AI時代だからこそ生まれた『アリスと蔵六』 ■
『アリスと蔵六』より
今期アニメは名作、秀作が目白押しでしたが、その中でもダークホースだったのが『アリスと蔵六』。
漫画原作のこの作品、「アリスの夢」と呼ばれる「異能」を持った人達が世界に出現して、その帰属を巡り日本政府やアメリカが争うという「異能バトル」ものとして始まります。何だか『極黒のブリュンヒルデ』みたいだなと思って1話切しようと思いましたが、OPはEDがあまりに素晴らしいので、ついつい視聴を続けていました。
不思議の国のワンダーランドで生まれた女の子が、現実の世界に逃げ出す所から始まりますが、ワンダーランドはアリスの夢と呼ばれる超常現象が作り出した空間。そして逃げ出した「赤の女王」と呼ばれる女の子は、ワンダーランドが生み出した存在。そう、彼女は人間では無く、初めは人の形すらしていなかった。それが段々と人を模して女の子の形に収束したモノが「赤の女王=紗名」なのです。
研究所を逃げ出した紗名を保護したのは頑固ジジイの蔵六。彼は見かけによらすフラワーアレンジメントの世界では名が通った存在ですが、曲がった事が大嫌いです。そんなジジイがコンビニに行くと、一人の少女がお弁当を食い入る様に見つめています。そして彼女は目の前から突然消えてします。
普通なら関わりを持ちたく無い存在の紗名ですが、蔵六は彼女を放っておく事が出来ません。彼女が不思議な力を持ち、誰かに追われている厄介者である事よりも、蔵六には「小さな女の子が行く当ても無く困っている」事の方が重要だったのです。
物語の前半こそは紗名を奪還しようとする組織との異能バトルが繰り広げられますが、物語は次第に紗名ちゃんの日常アニメは豹変してしまいます。
ワンダーランドしか知らない紗名は、現実の世界は見る物、聴くもの全てが新鮮です。一方で現実世界のルールに戸惑います。ワンダーランドでは彼女は「創造主」が如く、思う事が現実化します。現実世界でも彼女の能力は健在で、様々な物を瞬時に生み出す力を持っています。そんな神にも等しい紗名が、一人の人間の女の子になる・・・これが『アリスと蔵六』という作品のテーマなのです。
実はこれは非常に現代的なテーマで、「AIが自我を持ったら・・・」とか「肥大化した実存(自我)が現実の社会に出たらどうなるのか」など、哲学的な要素が満載です。
全能の紗名はワンダーランドに一人で居る時は「世界=紗名」です。これは「世界系」の主人公とも言えますが、世界系の主人公は自分と世界が同化してしまう事で、個人の存在は希薄化してしまいます。
要は六畳間に閉じこもっていたら自分が誰だか分からなくなってしまい、ただ、六畳間に居る間だけは彼は全能で、食事も定時にドアの前の現れる・・・。そんなオタクの肥大化した自我の反映こそが世界系の全能の主人公であるならば、紗名は部屋から出たオタクだとも言えます。
紗名は蔵六に社会のルールを教わります。朝はきちんと挨拶する。寒くても新聞受けから新聞を持て来る・・・そういった小さなルールを守る事で、紗名は蔵六や周囲の人達に「認められ」て行きます。
このかわいらしい物語は、実は「自己=世界」として実存が希薄だった紗名が、周囲に認められる事で、「樫村紗名」という確固とした実存を獲得する物語なのです。
「実存主義」はともすると「自己の肥大化」という落とし穴に落ちてしまいがちですが、実は「自己」とか「実存」というものは周囲から「観測」される、或いは「認められる」事によって確立するのです。
アニメは大人になった紗名=実存を完全に回復(確立)した紗名が六蔵に感謝するモノローグで終わりますが・・・ちょっと感動しちゃいました。
■ 作品やキャラクターはファンの承認によって実存出来る ■
『recreators』より
『Fate zero』の「あおきえい」の新作『recreators』は、今期アニメで一番オタクの心を鷲掴みにした作品では無いでしょうか。異なるアニメや漫画やラノベの登場人物たちが、現実の世界に顕現してバトルを繰り広げる・・・そんな妄想にオタクなら一度は浸った事があるでしょう。
『Fate』シリーズは歴史の登場人物が魔法によって召喚されて戦う物語でしたが、今回は「軍服の姫君」という謎のキャラクターの力で、物語の登場人物が現実世界に召喚され闘います。
魔法少女とファンタジーの主人公とロボットがバトルする作品・・2次創作では在りそうですが、商業作品としてTV放送されるとワクワクします。特に魔法少女が強い所がGOOD!!
さてさて、実はこの作品も非常に哲学的です。
キャラクターや作品を作り出すのは作家や制作スタッフで、彼らはキャラクターや作品世界から見れば神の様な存在。
一方で、世界には自称作家やクリエーターを含まれば神は無数に存在し、無数の物語世界が日々増殖しています。しかし、その中で一般の人達に認識され、ある程度の数のファンを獲得した作品は少ない。
『recreators』で面白いのは、作品世界の中で確固とした実存を獲得していたキャラクター達が、現実世界に顕現する事でアイデンティティーの危機に陥るというのがこの作品の面白い所。
ただ、顕現したキャラクター達は、最初は戸惑うもののアイデンティティが崩壊する事はありません。それは、ファンが彼らを確固とした存在として「認識」しているからで、「認識」されている限り、彼らの実存は揺らぐ事が無い・・・。
かなり強引ではありますが、『recreators』はキャラクターや創造物の実存を問う意欲作であり、これを拡張すると「キュラクター=神」となる訳ですね。神様は人間が作り出した神話のキャラクターですから。
■ 古典的なテーマの『ID0』 ■
『ID0』より
黒田洋介のオリジナル脚本作品の『ID0』も「自分とは何か」をかなりストレートに問うSF作品。
記憶とIDを失い、さらには肉体をも失ったイドは機械の体に意識をトランスさせた存在。肉体すら無い彼は「自分が何者」なのかを探しています。
イドはエスカベーターと呼ばれる鉱物採掘業者の一員ですが、クルーの多くは肉体を失い機械の体の意識を移したエヴァートランサーと呼ばれる存在。
しかし、エヴァートランサーは記憶も意識も肉体を持っていた時と変わりが無いので、「自分とは何か」という問題に悩む事は有りません。ただ、かつてレーサーだったニックは、実は意識と人格のバックアップで、本人は死んでいます。彼も実は「自分とは何か」という問題を抱えていますが・・バカな?彼はその事を深く考えて悩む事はありません。自分を自分として素直に受け入れています。
「実存」があいまいなイドとニックですが、彼らの大きな違いは「記憶」が在るかどうか。記憶を有するニックはコピーと言えども自分の実存にあまり疑問を持ちません。一方、記憶の無いイドは実存に疑問を抱き続けています。
実はイドは有名が科学者であった事が物語の後半で判明し、彼は記憶の一部を取り戻しますが、最終的に彼は採掘屋のイドである事を選択します。イドという存在は、採掘屋仲間からの「認識」によって形作られたものですが、ここでも「実存とは他社の認識によって生じる」というテーマが貫かれます。なーんちゃって・・・。
■ 認識できない物を固定化して失敗した『正解するカド』 ■
『正解するカド』より
今期一番期させて、見事に外れだった『正解するカド』。
「異方」と呼称される高次元の高度な科学技術を有する知的存在が日本に表れ、外務省の交渉官が彼との交渉に当たるというポリティカル・サイエンス・フィクション。
実はこの作品、一番面白かったのは、経営が傾いた町工場を救うプロジェクトXの様な0話だった。そこから一気のSF的な展開に入るのですが・・・これが何故か面白く無い。
高次元体であるヤハクイ・ザシュミナは人間の形を模して現れますが、この事で一気に物語が陳腐化してしまいました。高次元体は認識出来ない存在なのだから、一定のキャラクターを付与する必要は無かったのでは無いか・・・。
見る人によって様々な姿を取ったりしたら、結構面白い作品になったのかも知れません。この作品、「神の具現化」という「実存の獲得」によって失敗したのかも・・・なーんちゃって。
本日は「実存主義とアニメ」について強引にこじつけてみました。
過去にも似た考察をした事が在りますが、こちらの記事の方が真面目です。
揺らぐ「実存」に対するアニメ的な回答・・・『ゼーガペイン』は『エヴァンゲリオン』への回答