人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

歴史は変わる・・・・・「朗読者」

2008-11-24 05:12:14 | 


本との出会いは、タイミングが重要だと思います。
例えば夏目漱石が良いからと言って、
中学生に「友情」が理解出来るかというと、退屈な本です。
太宰の「人間失格」なんて、教育に良いとはとても思えません。

やはり、子供は子供らしい本が良いですし、
ちょっと背伸びするにしても、古典ではなく、
現代小説を読んだほうが、興味を引かれるし、
楽しい読書が出来ます。

先日、アメリカ人の友人と話していたら、
彼は、今、エミール・ゾラに夢中だと言っていました。
何がって・・・当時の風俗や思想を克明に描写していて興味深いと・・。
「当時のフランスの上流階級と下層階級のモラルハザードはすさまじく、
本当に誰とでも寝るんだよ。」って。

学生時代は教養として、無理に読んでいた古典や近代の小説も
年齢を重ね、知識が増えると、
つまらなかったと思っていた本が、突然魅力的に感じたりします。
古典小説に限らず、流行小説でも同じ事が言えるかもしれません。

ベルハルト・シュリンクの「朗読者」も正にそういった一冊かもしれません。
もう十年近く前のベストセラーですから、今更な感はしますが、
10年前の私には理解出来なかったと思います。
何が?と言うと、歴史という物や、戦争への認識が当時の私は未熟でした。

15歳の主人公は20歳くらい年上の女性ハンナと肉体関係を持ちます。
年齢の差による抑制が、むしろ二人の関係は深めていきます。
ある意味、非常にインモラルでエロチックな関係ですが、
ヨーロッパ映画にも通じる、温度の低い湿り気、
彩度の低い色合いが、二人の関係を静かに描き出します。

ハンナは主人公に本の「朗読」をせがみます。
学校の教材、父親の本、種々の本を主人公は「朗読」し、
ハンナは率直で素朴な感想を述べて行きます。

そんな二人の関係がしばらく続き、
主人公にとってハンナがかけがえの無い存在となってきた時、
ハンナが突然、街から姿を消してしまします。

二人が再開するのは、主人公が法科の学生として傍聴する裁判所でした。
ハンナはナチスの看守として、被告人となっています。
告発された罪は、連合軍の爆撃の中、
ユダヤ人収容者達を教会に閉じ込めたまま死なせた罪。

警備の軍が逃亡し、女性看守だけでは収容者を統率出来ない状況での悲劇でした。
ハンナは認めるべき罪は率直に認め、主張すべき事は毅然と主張します。
しかし、裁判は彼女が不利な方向に進んで行きます。
同僚の看守達も、ハンナに罪を着せていきます。

さらに、ハンナは若く体の弱いユダヤ人収容者(女性)を傍らに置いていた・・・。
彼女達はある一定の期間が経つと、収容所に戻され、交代していた・・・。
そんな、看守の証言も彼女を不利な立場に追い込みます。

裁判が進むにつれて主人公はある違和感を覚えてきます。
ハンナが裁判の資料を読んでいないのでは?
原告が出版した告発的な本も読んでいないのでは?
若い頃、何故自分は「朗読」をさせられていたのか?
何故、彼女は街を去ったのか・・・何故、看守になったのか?

・・・ハンナは文字が読めないのだ・・・。
遂に、主人公は気づきます。
ユダヤ人の少女達にハンナは「朗読」をさせていたのだ・・・。
その事実が露呈する事を、ハンナがいかに恐れているかを・・・。

この本の一つの主題は、「文字が読める」という現代では当たり前な事が
いかに人間にとって大事な事なのか、
「読める」事による知識が現代人を現代人たらしめているというを事。
「読めない物」の劣等感と損失がいかに重大であるかという事。
文明の隙間に落ちた人間の苦悩を淡々と描いています。

しかし、「朗読者」の本質は「歴史認識」にあります。
作者自身、法学者である事からも、
この本は、ドイツの戦後の「戦犯」に対する裁判を
現代の法律認識から、再検討する事にこそこの本の主題があります。

日本でも昨今、「自虐史からの脱却」が試みられています。
航空自衛隊の幹部の論文が問題になっていますが、
戦勝国による一方的な歴史認識の押し付けと
周辺国の歴史捏造に対して、正しい歴史認識や
当時の正確な状況把握を試みる動きが活発化しています。

歴史というものは「不変」のような顔をしながら、
なんと「移ろい易い」のでしょうか。
勝者の歴史と、敗者の歴史はなんと乖離しているのでしょうか?
たかだか、60年前、写真も文字も、さらには「生き証人」のいる時代の歴史すら
時代とともに移ろってしまし、事実の確認すら困難な事の歯痒さを
多くの日本人が今感じています。

同じ歯痒さを、きっとドイツ人も感じているのでしょう。
ユダヤ人虐殺に関しては、ドイツは国際的には逃げも隠れもせず
堂々とその非を認め、ナチス戦犯を裁いてきました。
しかし、そんなドイツでも、
時代に翻弄された「戦犯」達の個人の尊厳を回復しようという動きがあるのでしょう。

ネオナチのような極端な反動活動ばかりが注目されますが、
正しい歴史認識を欠いた状態こそが、稚拙な反動活動を生み出す温床とも言えます。
日本にしても、学校で現代史をほとんど教えない現実。
教えても、左派系教師の偏狭な視野からの教育が多く、
メディアも左傾化の傾向が強い状況で、
どれだけの日本人が先の戦争の実態を正しく認識しているでしょうか。

戦争=殺人・・・これは確かに事実です。
ただ、個人の殺人と、国家の戦争はあきらかに異なるものです。
戦争は国家間の生存競争であり、
国家間の利害の最終調整は戦争で行う事が当たり前であった時代の
個人の戦争責任を問う事がいかに難しい事か・・・。
そういった事への想像力を欠いた国の将来に不安を覚えます。

「朗読者」の作者も同じ焦燥から、
この文学的にも素晴らしい本を書いたのではないでしょうか。

10代に「朗読者」を呼んでいたら、性的描写に興奮した事でしょう。
20代ではれば、文学的な構成と抑制の美学に感動したでしょう。
今、40代になって、歴史認識というあらたな視点で考えさせられる事の多い本です。

本との出合いはタイミングが重要だと、つくずく思わせる1冊です。




日本文化の厚み・・・マンガ「天顕祭」

2008-11-22 11:23:00 | マンガ


このブログ、3日坊主の私としては、
いつまで続くか心配でしたが、
毎日何人かの人が覗いてくれているようなので、
それを励みに、思い出した様に更新しています。
気づいたら、カウンターも400を超え、
ちょっと嬉しい今日この頃です。

さて、ドライなアメリカ文学の次は、
ウェットなヨーロッパ物でもと思っていたのですが、
昨日、面白いマンガを見つけてしまったので、紹介します。

「天顕祭」、白井弓子・・・って言っても分からないですよね。
私も表紙の絵の目力に射抜かれて衝動買いしただけですから。
帯には「文化庁メディア芸術祭マンガ部門で初の同人誌受賞作品」
とあります。
こういう筆致のマンガ、思わず買ってしまうんですよね。

「文化庁メディア芸術祭」って、地味だけど頑張ってますよね。
黒田硫黄であったり、吉田秋生だったり、
本当に今、旬だなという漫画家が受賞していますね。
吉田秋生の「海街diary」、今本当に良いですよね。
(願わくばオノ・ナツメにもあげて下さい。
「無限の住人」のアニメ化を記念して沙村広明にも・・・・。)

さて、「天顕祭」とはいかなる作品かというと、
舞台は多分核戦争後の近未来、あるいは多元宇宙のどこかの日本。
人々は汚染を免れた土地に密集して暮らしています。
汚染地域には竹が生え、土地を浄化しています。
街の雰囲気は昭和30年代の日本。

復興建築の足場を竹で組む鳶職の若頭「真中」は、
飲み屋でホステスの「木島」を酔った勢いでスカウトしてしまいます。
高い所が好きな「木島」は女ながらも、現場で働き出します。
街は折りしも「天顕祭」が近付いて活気付いています。
今年の「天顕祭」は50年に一度の大祭。

「天顕祭」は、背中に「蛇のウロコの印」が顕れた女性を
「クシナダ姫」としてヤマタのオロチに捧げる祭りです。
実際には有力者の娘の背中に、縄で跡を付けるだけですが・・・。

実は「木島」は、とある村の「クシナダ姫」でした。
日々強まる大蛇の幻覚と、クシナダ姫の幻影に恐れ、
村を出奔していましたが、とうとう連れ戻されてしまいます。
彼女の背中には蛇のウロコの傷跡がくっきり浮かび、血が滴ります。

そんな「木島」を奪還すべく、「真中」は作業員を装い村に向かいます。
そして、スサノオ伝説の渦中に巻き込まれていきます。

とまあ、マンガではありがちなヒロイック・ファンタジーなんですが、
「蟲師」にも通じる独特の世界観や生活感、人々の心の機微を緻密に描き、
伏線の張り方や、エピソードの繋がりも破綻が無く、
ずっしりとした読み応えのある一冊に仕上がっています。

古事記を題材にしたマンガは安彦良和の「ナムジ」が有名ですが、
あちらは、神話を古代史に変換して、日本のルーツを探っているのに対し、
「天顕祭」は、古事記を素材に、もう一つの世界の神話を再構築していて、
「風の谷のナウシカ」に通じるものがあります。
シブリの宮崎五郎さん、父ちゃんに怒られてもいいから、
この作品を劇場アニメにしてくれないかな。
「ナウシカ」と「もののけ姫」を繋げる作品として、どっしりと重たい作品を・・。

しかし、同人誌にこんなクオリティーの高い作品が掲載されているなんて驚きです。
同人誌って、オタクがキャラクターを弄ぶ世界だと思っていました。
かつて「超人ロック」が同人誌(当時は手描き原稿の回覧だったようですが)から
登場したように、商業誌に相手にされない隠れた作家が沢山いるのでしょうか?

我が国の首相は、「ゴルゴ13」がお好きな様ですが、
私としては、せめて「ワイルド7」が好きと言って頂く方が、
この国の未来に期待が持てます。

混迷を極める政治の世界はしょうがないとしても、
黒田硫黄やオノ・ナツメの様な作家が活躍し、
同人誌からこんな作品が生まれる「日本文化の厚み」に、
この国の将来は捨てたモンじゃないな・・・なんて期待してしまいます。

たまには大人の読書

2008-11-08 03:56:54 | 


「終わりの街の終わり」。
変なタイトルです。ハードボイルドの様な・・・。
ところが、帯には「ネビュラ賞ノミネート!」と書かれています。
って事はSF小説なの?
受賞ではなくてノミネートって、宣伝としては中途半端じゃない??

ここの所、ライトノベルばかり読んでいて、
すっかり高校生的気分になってしまったので
久々に海外の最新小説でも読んでみようか・・・。

作者はケヴィン・ブロックマイヤー。
アメリカ期待の若手小説家の様です。

「終わりの街」とは、死後に人々がたどり着く街。
死者は、現世に自分を記憶している人がいる限り
この街に留まり、現世と同じ様に働き、恋をし、生活します。
ただ、年を取る事も無く、
そして現世に自分を覚えている人がいなくなれば街から消える・・。

そんな、死後の街の住人がある日突然減り始める。
街もどんどん小さくなっていきます。
そして、ある人数で安定してしまいます。
彼らの共通項は、「ローラの知人」である事。
現世ではいったい何が起こっているのか?

一方、ローラはコカコーラ社の環境調査員として南極に派遣されています。
外界との連絡が途絶えた為、同行の二人は、別の基地に行ったきり・・。
彼女は意を決して、彼らの後を追い、一人氷原を隣の基地を目指します。
そして、彼女がその基地で知った現実は・・・
ウィルスによる人類の滅亡・・・。

たった一人残された現世の人間ローラの死は
すなわち「終わりの街の終わり」を意味します。
終わりの街の住人も、自分達の共通項がローラである事に気付き
やがて訪れるであろう終末を静かに待ちます。

っと、あらすじを書くと「何だこれ?」みたいな本です。
全然、SFじゃないじゃん・・・。
では、つまらないかというと???
乾いた筆致による、克明な描写は特筆に価するし、
感情を排して、事象の描写を重ねる事で小説を構築する手法は
まさに、アメリカ文学血脈を受け継いでいます。
サービス過剰な小説が氾濫する中では、潔い小説ともいえます。

万人に受ける本ではありませんが、
フォークナーを読んだ後のように、
心の中が砂埃でカサカサした感じがいつまでも残ります。
延々と描写させる雪上のシーンは、
アーシュラ・K・ルグインの「闇の左手」を想起させます。
80年代のポストモダンの書き手と比べると、
圧倒的に温度感が低く(南極だし)、ドライな小説です。

だいたい私の中で小説は二つに分類されます。
「乾いている」か「湿っているか」です。
ヨーロッパの小説は「低温で湿って」いますし、
日本の小説は「生暖かく湿って」います。
ハードボイルド・リアリズムの流れを汲むアメリカの小説は「乾いて」います。

ただ、ラノベはこの分類から外れていて、
なんか、プラスチックというか、「ツルン」とした感触がします。

ところで、「終わりの街の終わり」はお勧めかと聞かれると、
多分、古本屋に持ち込まれる事もなく、
私の書棚の片隅でホコリをかぶっていく事になると思います。
多分、再読する事は無いけれど、
いつも背表紙をチラっと見て、
なんとなく鼻が乾くような気にさせてくれるのでしょう。