内閣府の防災のページで面白い記事を見付けました。
<引用開始>
我々は子どものころから、台風がきたら何をしなくちゃいけないかというのは、分かっていたんです。この土地はまわりに比べて低いから、「雨が降ったら大変だな」という思いは、自然と体の中にしみついていました。
昔は、農業をしている家は、だいたいが食料の米や麦などを床下に置いていて、どこの家も台風がくるとなったら、そういうものを家の中に移動して、畳はぬれないように柱に立てかける、いわば「畳上げ」をしたものです。そういう準備に必要な角材や丈夫なヒモなどは、私の家にもありました。
けれども、10年ぐらい前に、ここに雨水ポンプ場という排水施設ができてからは、「もう水は上がらないよ」という雰囲気になっていたんです。ところが今回は、「未曾有 ※ の雨」だから、どうにもならなかったんですね。私も、水が出そうかなんて、いっさい気にしていませんでした。ちょっと油断があったのかなと反省しています。
※未曾有(みぞう)とは、昔から今までに、まだ一度もないこと。
<引用終わり>
赤字に大した意味は有りません・・・ただ、内閣府のページなので。。。グフフフって思っただけ。(私自身、誤字王ですから!!)
■ かつて浸水被害は日常的に起きていた ■
今から20年から30年前までは、少しの雨でも中小河川の多くが氾濫していました。東京では神田川や善福寺川は集中豪雨があると、直ぐに氾濫して、床下浸水や床上浸水のニュースが流れた。神田川近くの秋葉原の電気街では台風の前にはシャッターの前に土嚢を積む店舗も有りました(石丸電機とか)。神田川は高田馬場の周辺でも良く溢れていました。
身近な場所でも、大雨になると「水が出る」場所は沢山あった。旧川筋や、かつて沼だった地域は大雨に弱かった。私の通っていた中学も、かつて沼地だった畑の真ん中にあったので、中学1年の時に振った豪雨で冠水して下校出来なくなりました。
この様に、都心部、郊外、田舎に限らず、かつては大雨による浸水被害は日常茶飯事で、台風の時などは1000軒単位で床下、床上浸水などは普通に発生していました。
■ 治水事業で浸水被害は過去のものになった? ■
自治体もこれらの浸水被害に無策だった訳では無く、様々な対策を講じています。
1) 河川改修で川を流れやすくする
2) 護岸工事で護岸を崩れにくくする
3) 貯水池を整備して、短時間に大量の水が川に流れ込まない様にする
4) 排水機場を整備して、低地の排水性を向上させっる
地表をコンクリートで固められた東京では、神田川や善福寺川に多くの雨水が短時間に流れ込んで氾濫を繰り返していました。そこで、東京都は地下に巨大な貯水池を作り、川に流れ込む雨水を調整できるようにしました。
下の写真は善福寺川の地下調整池ですが、公園などの地下に巨大な空間が作られています。この様な地下調整池は宅地化が進んだ地域の学校のグランドの地下などにも有ります。
■ ゼロメートル地帯などでは排水機場が整備された ■
東京では江東区などの下町も洪水被害の多い地域でした。この一帯は地盤沈下によって海面よりも土地が下がっているので、大雨で川に放水出来なくなるのです。排水機場が整備される事によって、ポンプで強制的に低地の雨水を川に放流できる様になり、この地域での浸水被害も過去の話となります。
■ 佐倉一体は洪水地帯だった ■
今回の豪雨で浸水被害のあった千葉県の佐倉市一帯は洪水との戦いの歴史でした。
平安時代までは「内海」だった印旛沼周辺は、渡良瀬川(現利根川)の堆積物で海と隔てられ「印旛沼」となりますが、雨が降ると周辺の雨水は全て沼に流れ込んで来ます。今回氾濫を起こした鹿島川も印旛沼に流入する河川です。
一方、明治時代までは沼から海に流出する河川は有りませんでした。逆に、幕府による利根川東遷によって増水した利根川の水が印旛沼に流入する様になり、印旛沼は調整池になってしまいす。(江戸時代に安食に水門が建設されます)
大雨が降ると印旛沼の周辺の低地の干拓地では農家が水に浸かった。農家も慣れっこだったので、天井裏に小舟を常設していて洪水に備えていまいした。
江戸時代に印旛沼の水を東京湾に流す河川を作る工事が何度か試みられますが、難工事を極め完成には至りませんでした。明治時代になってやっと「花見川(新川)」が東京湾に開通し、大雨の水を印旛沼から排水出来る様になりました。
印旛沼周辺の干拓地には多くの排水機場と、沼をグルリと囲んで排水用の水路が整備され、最近では洪水は過去の話になりました。しかし、私が高校生に成る頃までは、鹿島川は大雨で度々浸水被害を起こす川でした。しかし、それもここ20年程は記憶に有りません。
■ 限界を超える雨が降ると、「水が出る」地域から浸水する ■
過去の話の様になった「浸水被害」ですが、台風19号や、21号の様な記録的な豪雨に見舞われると、貯水池や排水機場の能力が限界に達して浸水被害が発生します。
二子玉川では土手の整備されていない場所(明治時代に川岸に料亭が立ち並び、堤防工事に反対した為、土手が住宅地の背部にあるので、この地域は正確には「河川敷」)で浸水が発生しましたが、地元では水害で有名な地帯だった。
この様に、かつて「水が出る」とされる地域では、治水設備の限界を超える雨が降れば、当然浸水被害が発生します。
実は私の家の前の市道も、以前、台風の大雨で冠水した事が在ります。この様な場所では、マンションの立体駐車場の地下部分は、排水が出来なくなるので、車が水没する恐れが有り、注意が必要です。さらに、マンションの地下に受電設備やポンプ設備が有る場合も、これらが浸水被害を受ける可能性が有ります。
■ 急激な都市化によって新しく起こる災害 ■
タワーマンションが林立する武蔵小杉でも浸水被害が発生していますが、急激な都市化が引き起こした災害と言えます。
武蔵小杉の浸水は多摩川の水が下水を逆流した「逆流氾濫」です。河川の周辺は「後背湿地」で、昔は大雨が降ると川から溢れた水が一体を覆った地域です。ですから増水した川の水位よりも土地が低い。こんな場所は全国の低地の平野部はほとんどです。ですから、河川が増水した時は、河川への下水の流入ゲートを閉じて逆流を防ぎ、ポンプによって排水をします。
ただ、明らかに増水による逆流が懸念される地域以外は、ポンプの排水施設を備えていない場所も多い。川崎市では多摩川河口近くの川崎区や、幸区、そして武蔵小杉の有る中原区の一部もポンプ排水のエリアでしたが、土地が若干高い武蔵小杉には下水道にポンプ排水設備が無かった様です。
一方で急激な都市化で下水道への生活排水や汚水の流入量は増え、雨水も地中にしみ込む事無く排水溝に集まって来ます。武蔵小杉の駅から南側の地域では、古い下水設備を使用していて、下水と雨水を同じ下水管で流す「合流式」。下水道の多摩川へのゲートを安易に閉鎖すると大雨によって下水が溢れる「内水氾濫」が発生する可能性が高い。そこで、ゲートの閉鎖を躊躇った結果、急激な多摩川の増水によって、多摩川の水が下水を伝わって逆流したと見られています。
ただ、ゲートを閉じた所で、大雨による雨水は行き場を無くして、結局は下水は溢れたと思われます。武蔵小杉一体はかつて沼だったと言われ、周囲より低くなっているので、ゲート閉鎖で逃げ場を失った下水は、やはりこの一帯で「内水氾濫」を起こたハズです。
以前は田圃を埋め立てたり、ゆるい丘陵地帯を急激に宅地開発するなど、未計画な都市化によって保水力が失われ、それらの地域の低地で浸水被害が多発しました。現在では調整池が整備され、ポンプ設備なども作られて、これらの地域の浸水被害は随分少なくなりましたが、やはり予想を超える降雨量には注意が必要です。
■ 災害に強くなって、災害を忘れた日本人 ■
台風15号で房総の被災地で高齢者達が口々に語っていたのは「油断していたよ」という言葉です。房総地域は台風の通り道ですが、近年、大きな台風は房総半島を避ける様な進路が多かった。
今回の千葉県の豪雨被害でも、「やっぱ水が出る所に住むべきじゃないね」と、昔なら当たり前だった事が改めて意識されたと人々が言い合っていました。
高校時代の教師の話では、四国では台風を前に、窓に板を打ち付けたり、天戸の裏に竹の棒を通す準備をしたと言います。
冒頭の内閣府の記事ではありませんが、水の出る地域では「畳み上げ」は台風の風物詩さったでしょう。
しかし、現在は二重サッシの実家のマンションでは、台風19号の強い南風の音も、ほとんど気付かなかったと母が語っていました。(1重サッシの我が家では、いつ窓が割れるかと寝る事が出来ませんでしたが・・・)
この様に、治水設備が整い、住宅の性能が上る事で、私達は「災害」を意識しなくなりました。畳上げが出来るのは畳の上に物が無いからで、現在の老人の住宅は家具や物に溢れていますから、いざ畳を上げように上げる事が出来ません。
昔は、座敷には物は置かず、板敷きに納戸(なんど)に功利などの少量の衣類や道具が収納されていました。この様な生活をしていれば「畳み上げ」も「功利の移動」も簡単に行えます。板敷きならば、浸水しても水が引いたら雑巾掛けでキレイになります。
今回の様な記録的な豪雨は、そう何度も起きる事では無いので、それに備える事にどれ程の意味があるのか、経済的には微妙ではありますが、イザという時の心構えは、日頃から怠らない様にしたいものです。少なくとも、避難指示が出た時に、防災グッズと貴重品だけは、直ぐに持ち出せる準備は必要なのかも知れません。