人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

「走れ!T校バスケ部」・・・複雑な時代に

2008-09-18 03:48:32 | 


「お父さん、この本絶対読んで!!お母さんも!」
「この本人気だから、1日で読んでヨ!」
娘が学級文庫で借りてきた本を強引に手渡してきました。
「走れ!T校バスケ部」・・確か近所の丸善でワゴンに山積になってました。

仕事の往復と、昼休み読み切りました。
・・・と言うか、結構面白くて、一気に読んでしまいました。

万年、1回戦敗退のT校バスケ部に、
強豪校のH校から転校生がやってきます。
彼の指導もあって、T校バスケ部は初めて勝利を経験します。
それからは各自バスケの面白さに目覚め、
さらには理解ある顧問の先生のバックアップもあり、
都大会の決勝戦にまで登り詰めます。
そして決勝戦の相手は強豪H校・・・。

と、まあ、マンガの世界ではいたってありふれたストーリーです。
いや、むしろ最近のマンガはもっと複雑で、
主人公達も、いろいろと悩みを抱えていますから、
「あひるの空」などに比べると、むしろ「走れ!・・」はいたってシンプルです。
文章も簡単で、まさに小学生にはうってつけの本です。

何故、こんな子供向けの本が大人にも売れているのでしょうか?
それは、バスケに対する愛情が滲みだして来るからでしょうか。

バスケは魅力的なスポーツです。
私はバスケには縁がありませんでしたが、
息子が中学でバスケ部に入部し、つられて娘もミニバスを始めました。
子供達の試合を応援するうちに、私もバスケの魅力の取り付かれてしまいました。
「スラムダンク」と「あひるの空」を大人買して、勉強?もしました。

バスケの魅力はいろいろあります。
5秒あれば1ゴール決まってしまうスピード感。
力が拮抗していれば、1点差、2点差のシーソーゲームになる緊迫感。
力に差があれば100点差ゲームになってしまう明確さ。

そしてバスケはコートの上の格闘技であり、
コートの上のチェスです。
ボールを持っていない選手同士は激しくポジションを争い合い、
5人の選手が、状況に応じて目まぐるしくコートを走りまわる。
最後の一人がフリーになる為に、パスを廻し、ドリブルで切り込み、スクリーンを掛ける。
個人技に勝るチーム、体格に勝るチームを、集団のチームワークと戦術で押さえ込む。
ゴール下の混戦の中に電工石火のごとく飛び込みシュートを決めるパワー。
一瞬のディフェンスの隙を突いて放たれる、優雅なスリーポイントシュート。

実は、私はスポーツ観戦は好きではありません。
スポーツは「するもの」で「観るもの」では無いと思っていました。
しかし、バスケだけは観ていて楽しい。
脳みそがビンビン刺激されます。
戦術が高度に体系化されていて、かなり複雑な内容を選手は瞬時に判断してゆきます。

「走れ!・・」の作者はバスケをプレーしていた人でしょうか?
プレーのツボを良く押さえていて、
実際にバスケをやっている子供や経験者の大人でも熱中させます。
又、バスケを子供にやらせている親の気持も良く書けています。

実際のバスケは、残酷なスポーツで、
力に差があれば、点差はどんどん開いていきますし、
高校生からバスケを始めても、大して上達はしません。
上手な選手は、小学校1年からミニバスを始め、
中学に入る頃には、自在のボールを扱います。
それでも、今度は身長という壁にぶつかります。

「走れ!T校バスケ部」は確かに「あり得ない話」です。
今時、こんな単純で真っ直ぐな話は、マンガの世界でもありません。
まして、大人の小説の世界では評価を受けるどころか、出版すら難しいでしょう。

しかし、バスケを始めた子供達の夢が、小説の中だけでは実現しています。
そして、その夢は複雑な時代を生きる大人達の夢でもあるのかもしれません。
だからこの本は大人にも支持されるのでしょうか?

このあまりに単純な小説(小説と呼べるかどうか・・)を、
稚拙でご都合主義な本と切り捨ててしまうのは簡単ですが、
現代小説が忘れてしまったような、
ただただ単純な「物語を書く衝動」や
「こうあって欲しいという願望」に一時浸るのも悪くはありません。


「茄子・スーツケースの渡り鳥」・・・昔のジブリはここにある

2008-09-09 07:47:39 | アニメ


日本では「自転車レース=競輪」ですが、
海外では圧倒的にロードレースが花形競技です。
有名選手はF1レーサ並みのスターです。

ロードレースは陸上で例えるならマラソンでしょうか?
基本的には筋肉マッチョの競輪選手と違い、
ロードの選手はスリムな体系をしています。
それでも、ゴール間際のスプリントは力勝負ですし、
上り坂、下り坂、走行距離によってもそれぞれ適正がありますから、
マラソンよりも、複雑で見ていて楽しいスポーツです。

さらに、時速40kmを越えれば、力の殆どは空気抵抗でロスしますから、
チームや集団で走行し、味方や敵チームを風避けに使いながら
最後にどれだけ「足を残している」かが、勝敗を分けます。
この駆け引きだけでも、ゾクゾクするものがあります。

自転車のロードレースを手っ取り速く知りたければ、
漫画「オーバードライブ」が分かり易いかと思います。
ストーリーテーリングは下手ですが、
自転車レースについての基本は良く分かります。

さらに、自転車レースの奥深さを堪能したい方にお勧めなのが、
黒田硫黄の短編集「茄子」を原作としたアニメ
「茄子・アンダルシアの夏」と、
その続編「茄子・スーツケースの渡り鳥」です。

本来は原作者の「黒田硫黄」で取り上げようかとも思っていましたが、
高橋希太郎のアニメ「茄子・スーツケースの渡り鳥」が
原作を越える、あまりにも良い出来なのでちょっと感想など。

ぺぺ・ベネンヘリはチーム・パオパオ・ビールに所属する
スペイン人のロードレーサーです。
パオパオは、2流チームで,なかなか勝ちにも恵まれていません。

1作目、「茄子・アンダルシアの夏」は、
ぺぺの地元、スペインのアンダルシアでのレースが舞台です。
レース当日は折りしも、ぺぺの兄の結婚式の日でもあります。
しかも、その相手はぺぺの元カノ・・・。
そんな、特別な日でも、ぺぺはチームのエースのギルモアを勝たせる為、
アタックを仕掛け、アンダルシアの強風の中、黙々とペダルを漕ぎ続けます。
ところが・・・何と、ギルモアが転倒してレースリタイア。
ぺぺは一人、ゴールを目指して戦う事となります。
そんな、彼の脳裏には、捨てたはずの郷里での思い出が去来します。

実は、鳴り物入で劇場公開された第一作は、失敗作です。
黒田硫黄の漫画があまりにも素晴らしく、
アニメが漫画に食われてしまっています。

ところが、DVDでしか発売されない2作目は「大傑作」でした。

ぺぺとチーム・パオパオはジャパンカップ出場の為に来日します。
かつてのチームのエース、ギルモアは敵のチームに移籍しています。
今のエースはぺぺでしょうか、あるいはキヨッチか?
来日直前に、キヨッチのかつてのチームメイトでスター選手の
マルコ・ロンダニーニが、睡眠薬自殺をしていて、
キヨッチはいろいろと進退に悩みながらもレースに臨みます。
ジャパンカップのコースは宇都宮森林公園。
起伏のある周回コースです。
レース当日は土砂降りの雨。コースは川の様な有様。
先頭集団に2人の選手が残るパオパオは有利にレースを進めますが、
そんな時、ぺぺにアクシデントが・・・。
そして、後続集団から、スーパースターのザンコーニが猛烈な追い上げを掛け・・・。
っと、今回の見所ははっきり言ってレースです。

原作は本当にちょっとした小品で、たいした事ないのですが、
それゆえに、アニメ化に際しての自由度が高かったのでしょう。
そして、高橋希太郎が吹っ切れたのか、
アニメらしい動きとキャラクターが、物語を引き立てます。
ぺぺはどう見てもルパンだし、チョッチ(キヨッチ)はジゲンです。
ジブリ作品的な美少女も加え、
マッドハウスの作品ながら、近作のジブリよりも余程ジブリらしい作品です。

そして、脚本が素晴らしい。
黒田硫黄の原作、プロットだけの作品ですが、
それを、よくも1時間の作品にしたなと感心します。
自然な話の流れに適当な陰影と、見せ場があり、
スムースに自転車レースの世界に入って行けます。
そして、しっかりと原作のツボは押さえている。

さらに、何よりも圧巻はレースシーン。
前作は起伏の少ない、アンダルシアの大地が舞台で、
さらに、単独行という事もあり、レース的な見せ場は少しでしたが、
今度の舞台は、ツールド・ジャパンの起伏の激しい周回コース。
原作にはない悪天候という要素も加わって、
各チームの駆け引きや、各選手のテクニックが緻密に描かれていきます。
あ、このチームはシマノだ、ぺぺはカンパだ・・・。
ウワー、この登りでザンコーニはアウターにチェンジしちゃったよ・・・・。
なんていう楽しみ、見所が満載。

とにかく、自転車好きも、ジブリ好きも、黒田硫黄ファンの
見ないと損する一作です。




NNKにようこそ・・・文学におけるパンクとは

2008-09-06 22:29:13 | 


「NHKにようこそ」・・なんなんだ、このタイトルは?
誰なんだ?この表紙で微笑む、アニメ調の少女は?
どうして、いつも本屋で平積みになっているの?
・・ここ数年、気になってました。
・・・でも善良な社会人は、ライトノベルなんて読まないのです。
だから、ずっと気になっていたのに、
結局、買う勇気がありませんでした。先日までの私は・・。

最近のマイ・ライトノベル・ブーム到来で、
「狼と香辛料」「涼宮ハルヒ」「ミミズクと夜の王」
「少女には向かない職業」「荒野」「空の境界」と読んでみて、
すっかり、ライトノベルの魅力に取り付かれた私は、
もう、アニメ調の表紙怖も怖くなんてありません。
とうとう念願の「NHKにようこそ」を購入しました。
勿論「ネガティブ・ハッピー・チェンソー・エッジ」もセットで・・・。

「NHKにようこそ」・・・中学の課題図書にすべきですよ。
確かに主人公は「引きこもり」だし、
「ロリコン」にハマルし、「合法ドラック」でラリってるし、
そりゃ、良識的な父兄や、教育委員会は眉を潜めますよ。

でも、こんなにも、今の若者の気持を反映している本は無いのでは?
荒川沖駅や秋葉原駅でナイフを人に突き立てる若者がこの本を読んでいれば
あるいは、彼らは違った選択をしたのではないか・・・?
青春って、辛くて、ショボくって、情けなくて、行き場が無くて、
カッコ悪くって、・・・でも、なんて愛らしいんだろう。

このカッコ悪さ・・・どこかで読んだような・・・。
そうだ、ジャック・ケルアックの「路上」じゃないか。
あるいは、ヘンリー・ミラーの「北回帰線」だろうか?
行き場の無いエネルギーが、文字に姿を変えて
本の中でグツグツと煮えたぎる感じ・・・。

そうだ、これは「パンク」だ!!

若者はいつでも、処理しきれないモヤモヤエネルギーをたぎらせています。
引きこもりや、オタクなら、モヤモヤレベルは相当のものです。
それが、表現手段を得て外界に噴出する現象が「パンク」なんです。

「パンク」とはセックス・ピストルズに代表される商品化された「パンク」とは別物です。

あるときは、「ロスト・ジェネレーション」を呼ばれたり、
あるときは「ヌーベル・バーグ」と呼ばれたり、
あるときは「ニュー・ウェーブ」と呼ばれたり・・・。
あるいは「オルタナティブ」と呼ばれたり・・・。
要は、モヤモヤエネルギーが映画や音楽や文学に姿を変えた時、
そこに「パンク」が生まれるのではないでしょうか?

中年の元パンクロッカーが小説を書いたからって
そこにパンクは存在しません。

「パンク」は辺境(オルタナティブ)から生まれます。
社会の辺境、文化の辺境、
・・・都会の辺境としてのアパートの一室からも。

「パンク」は永続ではありません。
モヤモヤエネルギーの噴出と共に、燃え尽きるものです。
「NHKにようこそ」の滝本竜彦は「パンク」です。
綺麗に燃え尽きて、もう小説を書けません。
「涼宮ハルヒ」の谷川流も、多分、綺麗に燃え尽きています。新作が出てきません。
「ハルヒ」の存在自体が、既に「パンク」です。

「パンク」は、年齢を問いません。
フェリーニは一生「パンク」でしたし、
宮崎駿や富野も、モヤモヤレベルと反骨精神において生涯パンクです。
「勝手にシンドバト」のサザンは充分パンクでしたが、今はただのオヤジです。

「パンク」は破壊します。
既存の概念や、社会の仕組みや、表現の技法を。
東野圭吾や、伊坂幸太郎や、福井晴敏は「パンク」ではありません。
彼らは、充分賢くて、永続的で、生産的です。

私は「パンク」が好きです。

そして、ライトノベルと呼ばれるジャンルには、「パンク」があります。
・・・その多くは、花火のように一瞬で消えてしまうのでしょうが・・。














「崖の上のポニョ」・・・生き物のごとき水

2008-09-01 15:44:41 | アニメ
「ぽぉ~にょ・ぽにょ・ぽにょ~~・・・。」
これは魔法の歌ではないだろうか?

一度耳にすると、
頭の中で一日中鳴っている。

一度口ずさんでしまうと、
映画館へ足を運んでしまう。

夏休み間、娘が歌っていたおかげで、
「崖の上のぽにょ」を見に行きました。

いろいろ批判的な批評も散見しますが、
これの何処がいけないのだろうか・・・?
こんなに楽しくて、こんなに美しくて、
こんなにワクワクしながら1時間半を過ごせるのに・・。

宮崎アニメの特徴一言で言えば
「動きのあくなき追求」につきると思います。
アニメーションは絵が動く事に根源的な魅力があります。
ノートの端っこに描いたパラパラアニメの楽しさを
とことん突き詰めていけば、
ディズニーアニメや宮崎アニメに行き着きます。

しかし、これは「動かない絵」を特徴とする
日本のアニメーションにあっては、特殊な作風です。
「動かない絵」・・低予算でセル数が制限されるから「動かせない」。
その制約を日本のアニメは「口パク」という演出で誤魔化しました。
顔のアップで口だけのセルを動かし、台詞を乗せて時間をかせぐ方法・・。
ところが、台詞があるからには、台詞の中身が問題になります。
台詞の中身は次第に高度化し、物語は複雑化し、
アニメーションの主役の座を「動き」から奪い取るまでになっていきます。

そして、主役の座を追われたかに見えた「動き」も、
セル数の省略による「速く見える動き」という副産物を生み出します。

一方、宮崎アニメは徹底して動きを追求していきます。
人物や乗り物の動きは当然として、
雲や草原を渡る風や、波などを執拗なまでに描き込みます。
「崖の上のポニョ」では、波の描写に偏執的なこだわりをみせます。

磯で遊んだ事がある方はお分かりかと思いますが、
磯での波は、「波立ち」では無く、
呼吸するような緩やかな水面の上下運動です。
ブワァと膨らんだかと思うと、スーと引いていく波。
生き物の様にも見える、この磯の波を
宮崎アニメは、生き物として見事に描いています。

結局、「崖の上のポニョ」は、
この生き物の様な、波と海を描きたかったんだなと
思えて仕方ありません。
「紅の豚」でひたすら空と雲を描いたように。

「もののけ姫」以降、世間からは「テーマ性」を求められる宮崎アニメですが、
実際には、そのテーマは意外に稚拙で青臭いものがあります。
「自然の力」と「人と文明の原罪」というテーマは
教科書的ですし、20世紀的でもあります。

ジブリの技術を使って、凡人がこのテーマに取り組むと
「ゲド戦記」が出来上がるのでしょう。

「崖の上のポニョ」は父である宮崎駿が
息子に対して示した教えでもあるし、反発でもあるのでしょう。
「アニメーションはあくまでも動く絵」でなければいけないという・・。
細かな動きの積み重ねが、ファンタジーという実在しない世界を
現実に唯一繋げる事の出きる魔法だという事を・・・。

物語世界に引き込んでしまえば、
プロットが多少崩れていようが、
テーマが希薄であろうが、
あまり気にもなりません。
ただ、ひたすらハッピーエンドを願うだけです。

そう、昔からお伽話の結末は王子様の○○に決まっています。


「崖の上のポニョ」は子供にも大人にも
夏休みの素敵な贈り物でした。


<追記>

ポニョの魔法によって引き寄せられた月の潮汐力によって、
海辺の街は、高潮(津波では無いですよ)によって水没してしまいます。
魔法の力で活力を増した海には、
デボン紀の古代魚達が悠々と泳いでいます。

この海を宗助とポニョは、
魔法で大きくした模型の船で渡って行きます。
この「一時の大人の不在の世界」の描写がとても素晴らしくて
ワクワクしながら見てしまいました。
そう、宮崎映画は少女と少年が二人で
困難に立ち向かうシーンが多いですね。
水位の上昇によって一変した世界は、
ジータとパズーが不時着したラピタの様に
静けさと生命力に溢れています。

それよりも、「水没した世界」の美しさは
イギリスのSF小説家、J・Gバラードの
「沈んだ世界」や「結晶世界」を彷彿とさせます。

バラードは世界が水没したり、世界が乾燥したり、
強風で世界が滅んだり、ある地域の物質が全て結晶化したりする
極端な現象が進行した後の世界を書き続けた作家です。
自伝的小説「太陽の帝国」はスピリバーグによって映画化されています。

水没した世界を描いた「沈んだ世界」では巨大化したワニが登場します。
「ポニョ」に登場する古代魚は、生命の力を象徴しているのでしょうが、
どうも、このワニを思い出してしまいます。
そして、小型船での遡行は、「結晶世界」を連想してしまいます。

宮崎駿がバラードを意識した事は無いと思いますが、
ポニョの世界設定の唐突さに不快感を覚える方は
バラードを一読する事をお勧めします。
何故なら、世界の異変の原因が、
一切書かれていないからです。
それでも、バラードの一連の作品は、
国内外で不動の評価を得ています。

最近のアニメは、神経症的なオタクの突っ込みを避ける為
世界観の設定が綿密ですし、その説明も克明です。
オタク達は、その設定の隙間をすら埋める様に、
さらに仔細な想像を巡らせて楽しみます。

宮崎駿は、ポニョの世界や事象を「おおらか」に設定する事で、
設定の隙間を拡大し、隙間そのものを無くしてしまいました。
ですから、ポニョはオタクには「居住まいの悪い」作品になっているのでしょう。

その証拠に、家内が観に行った時には
映画の最後に子供達がポニョの歌を大合唱していたそうです。
子供達はこの素敵な作品を素直に受け入れているようです。